004 天使の読めない行動
―――翌日。
まだ涼しさを感じる明け方に、二人は野営地を出立した。
陽が昇り、照り付ける日射しが強くなりはじめた頃、晴れ渡る空の下、緩やかな景色が続く草原でマリアンは愚痴を漏らした。
「もうっ、いつまで歩けばいいの」
「あと三日も歩けば、ボルドに着く。我慢しろ」
「えー、すでに足が鉛のように重くてそんなに歩けません。おぶって貰うことを所望します!」
「お前な、こんな平坦な道を鐘二つも歩かない内になにを言ってるんだ」
「あのね。私はながいこと、強制的に引きこもりさせられてた、生粋のニートなのよ? 旅慣れたカインと一緒にしないでもらえる」
「ニートってなんだ?」
「働かないという強い信念を持ち、神エラーへ誓いを立てた敬謙なる信徒のことよ」
「怠け者かよ!」
カインのツッコミにマリアンは、チッチッチ、と指を立て、わかってないなぁという、生意気そうな顔を向ける。
「働かないという誓いがいかに尊いか知らないの?」
「知るか! 仕事をしなきゃ、飢えて死ぬだけだろう。まともな人間がその選択枠を選ぶ心境なんか理解できるかよ」
「だからこそ尊いんじゃない。自身の死と向き合い、それでも頑なに神への誓いを遵守する。正に信徒の鑑ともいえる行いだと思わない?」
「そうかよ。勝手に誓いを立てられた神もさぞ迷惑していることだろうな」
「いやいやいや。カインは聖典にまで残されている、神エラーのお言葉を知らないの?」
マリアンの問い掛けにカインは眉を顰める。
あまり信心深くないカインにとっては、聖典に記されている内容など、今まで目にする機会もなかったからだ。
「なんだ、それは?」
天使と出会う機会があった所為か。若干の興味が湧いたこともあり、なんとなく口にしてしまった言葉にマリアンは胸を張りしたり顔で言った。
「働いたら負けかなって思ってる」
「そいつが元凶か!」
尚も続くマリアンの神エラーの講義に対して、カインは嫌そうに相槌を打った。
興味のない宗教の話をされるのは、話の通じない信者からしつこい勧誘を受けているような感覚に陥る。しかし、愚痴を言われ続けるよりはましだと思い、適当な相槌で勝手にしゃべらせておくことにした。
それでも多少は興味を引く内容もあった。
エラーという神はどうも異質で、人々に慣れ親しんだ神でもあったらしい。
今現在、使用されている技術の一端。その礎を築いてきたのがエラーという神らしく、その功績は農業、漁業、建築から魔工に至るまで幅広い。
だが、それら全ては自身が欲しい者を創り出していったようにも思える。
食に関しては特に顕著で、野菜の栽培方法に関してはもちろんのこと、漁業において養殖を推奨し、その為に必要な知識と魔道具を作成し広めていったとか。
料理に対してのこだわりも強かったらしく、今でこそ当たり前になっているはいるが、ショウユやカレー粉、マヨネーズなどの調味料もエラーが独自に開発したものであるらしい。
仕舞いには連絡手段が欲しいと言って、遠く離れた場所からも会話が出来る、伝話機というものまで開発しているそうだ。
個人で所有するには高価である為、一般的には普及していないが、ギルドや軍などでは当たり前のように使用されている。
富裕層にもなると、個々で携帯出来る伝話機などを所持している者もおり、高額であることと通話先が限られてしまうこと以外は非常に便利である。
「今となっては当たり前になっている日常に、エラーによる恩恵は数多く含まれているのよ」
「……マリアン。エラーの話はわかったが、俺もお前に確認しておきたいことがある」
カインがある程度話を聞いたのちに話題を変えると、マリアンは唇に指を当てて小首を傾げた。
「天使メルリルが言っていた、世界最強の力とはなんだ?」
「えー。わたしに聞かれてもわからないけど……うーん。でも、まあ。わたしが美少女ってことが言いたかったんだとおもうよ」
「美少女と世界最強がイコールで繋がる理由がわからねえよ!」
「なんでよっ! わたしみたいな超絶美少女がお願いしたらみんな喜んで聞いてくれるでしょ? つまり、わたしこそが世界最強の美少女ってことだと思うけど」
「……あー、もういい。わかったわかった」
「ぜんぜんわかってないんですけど!」
「なら、所有権とはなんだ?」
カインが強引に質問の内容を変えると、それに不満なのかマリアンが頬を膨らませて抗議の視線を向ける。しかし、文句を挟みながらもマリアンは素直にカインの問いに答えた。
「世界最強の美少女を所有する権利のことでしょ」
「それはわかってるが、俺はお前に対してどれほどの権限を持っている?」
「えー。別になんでも命令したらいいとおもうけど」
「…………」
「あー、今エッチなこと考えたでしょ? 別に良いよ。できる範囲においてわたしは所有者様の命令には逆らわない」
そう言ってマリアンが上目遣いにカインをみてきた。
出会った時からそうであったが、マリアンはどうもカインを誘惑しようとしている感がある。どんな思惑があるのかはわからないが、カインはマリアンの誘惑に素直に乗ってはいけないような気がしていた。
幸いにも、この美しい少女が懇願するような表情をみせても、襲い掛からない程度には理性を保てている。であるならば、安易に誘いに乗るべきではないのだろう。
「俺の好みは大人の女性だ。お前のようなちんちくりんを相手になんてするか」
「ち、ちんちくりんって何よ! この、超絶、最強、神域に至る美少女のわたしが、ちんちくりんってどういうことなの!」
そんな話をしながら、マリアンの不平不満をごまかしつつ旅程を進んでいると、ボルドへと続く街道が視界に入る。
そして、その街道の向こう側。西からボルドへと向かって一台の箱馬車がやってくるのが見えた。
過剰な装飾を施した鉄製の箱馬車。外装にコルネリア領を表す紋様。二騎の騎兵が守るように先行し、後続にも一騎の騎兵がみえる。
「ねぇねぇ。あれに乗せてもらおうよ」
マリアンが妙案だと言わんばかりに指を差して言った。
「馬鹿を言うな。あれに乗っているのは貴族だぞ。むしろ絡まれない内に――」
いうや否や、カインの言葉も聞かずにマリアンは駆け出していった。ぶんぶんと大きく手を振って、馬車に向かって駆け出す。
あまりに咄嗟で、あまりに非常識な行動にカインの思考は付いていかず、本来であればすぐにでもマリアンを捕獲し、馬車の通行を妨げないように道端へ放り投げて止めるべきだったのだが、成り行きを見守ってしまう。
しまったと思った時にはもう遅い。先行していた騎兵が一騎、マリアンへ近づき剣を抜いて恫喝する声が聞こえてくる。
そして、騎兵から多少の距離をとったところで箱馬車が停止し、残り二騎の騎兵が周囲を警戒する。
カインは慌てて木陰に身を隠し頭を抱えた。
さすがにこの状況はどうにもならない。どこの馬の骨ともわからない平民が、貴族の通行を妨げてしまったのだ。今すぐ斬り捨てられても文句は言えないだろう。
助けに行こうものなら、当然のことながら巻き添えである。
関わらないのが正解だ。
本来であればそうするべきであった。だがしかし、マリアンはギフトの代わりに授かった所有物である。メルリルが世界最強の力だと言って渡してきたそれを、そう易々と見捨てるわけにもいかない。
それに、単純に見捨てるという行為も寝覚めが悪かった。
カインは大きく溜息を吐いて、腰の皮ベルトから小型のボウガンを取り外し、木の陰から騎兵の馬へと狙い澄ます。
射程は遠い。
通常であれば、ボウガンの射程距離は三十メートルが限界である。
山なりに打ち上げれば、その倍以上の距離は稼げるが精度と威力が著しく下がる。
だが、カインが番えている矢は、鏃に魔晶石が取り付けられていた。
この矢は打ち出しの瞬間に魔晶石が砕け、包み込むように風を纏わせることが出来る。
風を纏った矢は、通常の三倍の射程と威力を補うことができ、ギリギリではあるが騎兵へと届く射程距離となっていた。
もし、騎兵がマリアンへ斬り掛かろうとした場合、カインは馬の頭部へ一射して注意を反らすつもりだ。相手に敵意があるとわかれば、さすがのマリアンもカインの方へと逃げてくるであろう。
援護射撃をしつつ、マリアンがここまで辿り着いたら逃走。当然、相手は追ってくるだろうが、馬車の警護が手薄になるため、全員で追ってくることもないだろう。
カインは曲がりなりにも、天秤の塔の攻略者である。馬さえ潰してしまえば騎士の一人や二人ならなんとかなるだろう……たぶん。
カインがそんなことを考えていると、騎兵が容易く抜いた剣を収めた。
なにやら馬車の方へ合図を送ると、やや距離をとって停車していた箱馬車がゆっくりと近づき、マリアンの前で再び停車した。
箱馬車の扉が開き、マリアンが中にいる人物となにやら会話をしているのが見える。屈託のない笑顔を向け、意気揚々と馬車へと乗り込むマリアン。
はて、これは一体どういうことだろう。
マリアンを乗せた馬車は、何事もなかったかのように街道を走り出す。
木陰から街道に向けてボウガンを構えたまま、カインは状況が理解できずに固まっていた。
ボルドへと繋がる街道には、血生臭い出来事などなにも起きていなかった。ただ箱馬車が走り去ったあとの平和な景色が広がっている。
固まったままのカインの頬を慰めるようにそよ風が撫でる。
一人取り残されたカインはなんとも空しい気持ちで、虚ろな瞳のまま天を仰いでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高い城壁が街全体を囲い、西と東に大きな門が構えられた城塞都市ボルド。
エイブ王国におけるコルネリア領の三大都市と呼ばれ、プーリエとペルシアを繋ぐ交易の中心となっている街である。
街の中心には地中深くまで続く炭鉱があり、資源の少ないコルネリア領で唯一『熱鉱石』という、魔力に反応して熱を帯びる珍しい鉱石が採掘出来る場所だ。
その為に、他の街とは比較にならないほど人々の往来が激しく、警備も厳重なものとなっている。
「はあ、はあ。……あの……やろう。……なに、かん、がえてんだ」
ぜいぜいと息を切らし、カインがボルドの街へと到着したのは翌日の夕方だった。
三日かかる旅程を一日と半分で走破したのだ。起伏の少ない街道を通ったとはいえ、さすがに体力も限界に達している。その為、その場に座り込んでしまいそうなカインであったが、その行動を街の時計塔から鳴り響く鐘の音に遮られた。
一、二、三……十二回の鐘の音が鳴り響く。
エイブ王国では、各街に時計塔が一つ設置されている。朝の七時に一回。夕方の十八時に十二回と、一時間毎にその時間を告げる回数分の鐘が鳴り響く。それ故に、一時間分の時間を鐘一つ表現されることが多い。
そして、十二回の鐘が鳴った現在、間もなく門が閉鎖される時間帯となる。疲れているとはいえ、休んでいる暇はないようである。
カインは疲弊した体に鞭を打って歩き出し、門兵に身分証を渡した。
閉門前ということもあってか、門の前には誰もおらず時間が取られないことだけは助かった。
疲れ切ったカインの姿に兵士は若干いぶかしんだ顔をするが、直ぐに身分証を受け取ると、検閲用の魔道具を取り出す。
冒険者ギルドで発行される銀のプレートが検閲用の魔道具に乗せられ、魔道具の周りに浮いている輪のようなものが青色から緑色に変化するのを確認して、兵士はカインにプレートを返却した。
ボルドの街では領民以外が街へと入ろうとする場合、身分証の他に大銅貨二枚の税がかかるが、冒険者の場合はそれが免除されている。様々な依頼をこなし、有事の際にも重宝されている冒険者たちではあるが、金銭に対しては非常に敏感である。
割の高い依頼が多く出回る王都ならまだしも、コルネリア領のような辺境の地にわざわざ税を払ってまでやってくる者は多くはないのだ。
その為、エイブ王国では冒険者ギルドと国が提携し、冒険者に対する税を免除する取り決めとなっていた。
ボルドの街も当然その免税の対象である為、冒険者であるカインは税金を支払うことなく街へと入ることができた。
街に入るとカインは先ず宿屋へと向かった。
早々にマリアンを探し出し、身柄を抑えたいのはやまやまであったが、本日の寝床も確保できておらず、体力も限界近い状態ではさすがに行動を起こす気が起きなかった。
『夢満亭』という看板が目に留まり、冒険者ギルドと提携している印が付いていることを確認すると、カインは迷うことなくそこへと入った。
看板に提携の印が入っている宿は冒険者ギルドと提携している為、冒険者のプレートを提示すると割引が可能となる。
更に、緊急の要件で街を離れることも多い冒険者の為に、荷物の預かりや輸送、ギルド内にある通信設備による遠方からの予約や解約等、柔軟な対応が望める為、重宝している者は多い。
必要な経費は当然本人が支払うことにはなるのだが、一時的に冒険者ギルドが保証してくれているので、宿の方も渋ることがない。
「夢満亭へようこそ」
宿に入ると受付に立っていた女性がにこやかに言った。
「三日ほど宿をとりたい。空いているか?」
「はい。一人部屋と二人部屋であればご用意可能です。パーティー用の広めのお部屋に関しましては、申し訳ございませんが、ただいま満室となっております」
「一人部屋で大丈夫だ」
「一人部屋が一泊、大銅貨四枚となりますので、三日間で銀貨二枚と大銅貨二枚となります」
頷いてカインは宿泊費を支払う。
「宿に食事ができるところはあるのか?」
夢満亭は、入口の正面がカウンターとなっており、その両脇に二階へと続く階段が設置されているだけで、食堂へと続く扉が見当たらなかった為、カインは訊ねた。
「お食事はお隣の酒場、もしくは向かいにあるエモールというお店と提携しておりますので、そちらをご利用ください。部屋鍵をご提示頂ければ、料金が割引となりますので」
なるほどと頷き、女性から部屋鍵を受け取るとカインは部屋へと向かった。
自室で装備の点検と消耗品の数を確認した後、宿の裏手にある水場で汗を流す。
汗を大量に吸い込んだ衣類を洗濯しておきたかったが、一先ず麻籠に入れて、清潔なモノへと着替えた。
迷宮探査用のゴテゴテとした武装は手入れをしたまま部屋に残し、必要最低限の軽装に着替えて宿を出る。
外は既に暗くなっていた。
屋内の光が漏れ出る場所からは、人々の賑わう声が聞こえてきた。
さて、食事でもするかと思い、カインはエモールという店へと視線を向ける。
手入れの行き届いた外観と小洒落た看板を見て、自分のような人間にはどうにも合わないな。などと考え、結局いつも通り酒場へと向かうことにした。
酒場に入るとひと際大きな喧騒が耳に入って来た。
酒場といえば、この時間は様々な種類の人間がやってきて酒を呷るのだから、騒々しくなるのは当然である。だが、今日はそれにも増して、客の盛り上がりが高い気がする。
盛り上がる一団から距離を取るように窓際の席へと腰を下ろすと、妙齢のふくよかな女性が声を掛けて来た。
「いらっしゃい。ご注文は?」
「お勧めはあるか?」
「そうだね。今日はボームの肉を使った炒め物と、キリ茸と卵のスープ、芋焼きってところかね」
「では、それを一つずつ貰おう。あと、果実酒はあるか?」
「リンゴとラフランならあるよ」
「ならリンゴ酒をたのむ」
注文をしてから、カインは宿鍵を提示する。
「ああ、料金はいらないよ。今日は向こうで騒いでる連中が全部持つそうだ」
「なにか祝い事でもあったのか?」
「さてね。なんでも、教会の聖女様を祝っているとかなんだとか言っていたね」
「教会の聖女?」
カインは首を傾げた。
カインの記憶では、ボルドの街にある教会は神エラーを信仰するエラー教会しかない。その教会に聖女がいるという話を今まで耳にしたことがなかったのだ。
いや、そもそもではあるが、エラー教に聖女がいるという噂すら今まで聞いたことがない。
なんとも嫌な予感を感じつつもカインは給仕の女性に聞き返す。
「教会に聖女なんていたか?」
「さてねぇ。私も信心深い方じゃないからね。連中に聞いてみたらどうだい?」
給仕の女性が指を向けた先に目を向けると、盛り上がる一団に、ガタイの良い冒険者風の連中や、身なりの良い商人のような連中、水商売をしていそうな薄着の女に、神官服を着た連中に至るまで、様々な職業の人間がその場にいることが分かった。
一団の中にひと際目を引く、山のような男がいた。鋼のように鍛え抜かれた肉体。歴戦を思わせる鋭い眼光。いや、酒に酔っているせいかその目元は少し緩んでいるようにもみえるが。
「でかい図体だよねぇ。あの人は有名な冒険者らしいね。たしか不落……そう! 不落の要塞って言ってたね。知っているかい?」
カインの視線を追ってか、給仕の女性が大男の補足を行ってくれる。
そして、その二つ名にも当然聞き覚えがあった。
不落の要塞、アーマード。堅固な守りでいかなる攻撃をも弾くと噂されているAクラスの冒険者だ。数々の逸話を持ち、冒険者の中でその存在を知らない者はそういない。
だが、Aクラスの冒険者が酒場で酒盛りをしていることなど、別段珍しいことではない。それにジロジロと見ていて絡まれても面倒な事になる。
そう思い、カインは直ぐに視線を外した。
「ほんとにー。頼ってもいいのかな?」
聞き覚えのある声にカインの眉がピクリと反応した。
いや、きっと気のせいだろう。そう思い直し、カインは騒がしい集団を意識するのを止めた。そう、今は休むことが大事なのである。
給仕の女性が、リンゴ酒を運んで来ると、直ぐに別の客に声を掛けられ足早に去っていった。
コップから漂う甘い香りを楽しんだあと口を付ける。
果物の甘さとほどよい冷たさ。喉を焼くような感触に思わす息が漏れる。
久方ぶりの酒の味に気が抜けたのか、溜まっていた疲れが一気に出てきた。
マリアンを追って走り抜けた一日と半。起伏が少ないとはいえ、迷宮上がりの武装はそれなりに重量がある。しかも、街道とはいえ、人気の少ないところでは魔物が湧くこともあるため、神経を張り詰めていなくてはいけないのだ。実際、カインも二度ほどシャープウルフに襲われている。
駆けながらボウガンで一突きにしたのでそれほどの労力は掛かっていないが、大剣を背負い重い装備のまま駆けながら周囲を警戒することにずいぶんと疲労が溜まった。
時間が惜しかった為、ボウガンの矢も魔物の素材も回収せずに放置して来た。とんだ赤字である。
迷宮でもかなりのアイテムを消費したし、そろそろアイテムを補充しなくてはいけない。手に入れた素材も換金しなければ。などと考えていたら料理が運ばれてくる。
温かな料理は食欲をそそる匂いが漂ってくる。
カインの腹の虫が鳴った。
それはそうだろう。丸一日以上、水しか口にしていなかったのだ。空腹でもう限界だった。
料理を味わうこともなくかき込んでいくカイン。気が付けば運ばれた料理は綺麗に平らげており、最後にリンゴ酒を一気に呷ると満足気な息が漏れた。
腹は満たされて、僅かに呷った酒が眠気を誘う。
さて、もう少し飲みたいところだが仕方がない。明日からはどこかに消えたマリアンの行方を探さなくてはならないのだ。そう思って立ち上がった瞬間、再度、聞き覚えのある声がカインの耳に届いて来た。
「えー、今はいませんけど」
「今はってことは、前はいたってこと?」
「いたと言っても、顔も知らない婚約者ですけどね」
「うえー、やっぱりお嬢様だったんだね。まあ、そりゃそうだよね」
「なあなあ、じゃあさ。俺とか立候補してもいいかな?」
「君! なにを言っているんだ。君では釣り合わないだろう。それより僕はどうだい? 僕はこれでも大店の跡取りでね」
「ちょっとそこ! そういうのはやめてって言ったでしょ」
「そうよ! 戦争になっちゃうんだから!」
騒がしい集団の中から聞こえてくる女性の声。大柄の冒険者たちに阻まれ、カインの席からは話の中心人物を伺うことはできない。
いや、先ほどから気付いてはいた。気が付いてはいたのだが、この大所帯の中からどうやって連れ出すかを考えていたのだ。
強引に連れ出せば周囲から罵詈雑言の嵐を受け、非常に目立つことになる。かといっていつ終わるとも知れないこの宴に最後まで付き合うほど、体力に余裕があるわけでもない。
結果。カインは気が付かなかったことにして、明日以降、周囲に人気のない時に接触するつもりだったのだが―――。
「あー! カイン! もう着いてたの? 三日かかるって言ってたから、到着は明日以降かと思ってた」
人垣を掻き分けて現れたマリアンが、するするとカインの腕に纏わり付いてくる。その様子に、周囲は一度シンと静まった後、ヒソヒソと囁くような声音で騒がしくなった。
「え? なに? 誰?」
「つか、なに? あいつ、マリアンちゃんに抱き着かれて。うらやま……つか、死ね」
「恋人いないっていってなかった? 距離近くね?」
「貧乏そうな顔して……俺の方が」
などと散々な言われようである。
そんな周囲の反応などお構いなしで、カインの腕に胸を押し付け頬ずりするマリアン。
その表情は赤ら顔で、まどろんだ瞳をしている。
「おまえ! ちょっと離れろ!」
マリアンの頭をグイグイと押して、引き剥がそうとするが、マリアンは頑としてカインの腕を放そうとはしなかった。それどころか、余計な一言を述べる。
「彼がわたしの所有者様よ」
瞳を潤ませ花のような笑顔で言うと、周囲の騒めきはピタリと止まりゴクリと生唾を飲み込む音だけが響いた。
カインは天を仰ぎたい気分だった。
この少女は本当に余計なことしかしない。貴族の箱馬車に乗って行ってしまったこともそうだが、カインの思い描く予定や想定というものをまるで考慮してはくれない。
カインは、現状目立ちたくないのである。攻略者として名前が周知される前に、仲間と合流して予定を詰めて行きたいのだ。
だというのにこの天然美少女ときたら、勝手に街に赴くわ、酒盛りをして注目を集めるわ、おまけに黙っていればいいのにカインのことを所有者だと易々と公言する。
先々のことを考えると非常に頭が痛いのだった。
「なんだー。こんなところで飲み歩いていたのかー。ほどほどにして、皆さんに迷惑を掛けないようにするんだよ」
この状況では、なにをしたとしても悪者扱いである。早々に立ち去るのが最善と判断し、カインはマリアンを強引に引き剥がして、若干棒読み混じりの台詞を述べた後、それじゃあ俺は先に帰るからなと言って足早に酒場を立ち去ろうとした。
ところが、その行動も後ろからガシリと抱き着いてくるマリアンに阻止されてしまう。
この野郎。内心でカインは悪態をついた。顔は引きつった笑顔である。
「えー。カインも一緒に飲もうよう」
懇願するような上目遣いに、自然と抱きしめてしまいそうになったが、残り僅かな精神力を全て動員してぐっと堪える。
「長旅で疲れているんだ。今日は宿に帰って休むとするよ」
マリアンの頭を撫でながら諭すような口調で言った。刺さるような周囲の視線が痛い。
「えー。じゃあ、私も帰る」
ざわりとどよめきが湧く。
「お、お前はもう少し楽しんでいるといいよ」
「えー。カインが帰るのにわたしだけ残れないよ」
勝手に貴族の馬車に乗って、酒盛りまでしていたやつが今更なにをいっているのだろうか。そうツッコミたかったが、カインはぐっと言葉を飲み込んだ。
「それじゃあ、みんなまたね」
とびきりの笑顔を向けて別れの挨拶をするマリアンだったが、当然引き留める者もあらわれる。
「え? マリアンちゃん帰っちゃうの? 君が主役なんだよ?」
「うん。今日は帰るね」
引き留めようと試みた男が、無垢な笑顔を向けられ頬を赤らめた。
その破壊力と有無を言わさぬキッパリとした言動に、誰も反論できる者はいなかった。
一波乱ありそうだと思ったのは、どうやらカインの杞憂に終わったらしい。
そして、腰に抱き着いたままのマリアンを引きずるようにして、カインは酒場を出た。
そそくさと退散するように、隣接している夢満亭に戻ろうとしたところでクイクイと裾を引かれた。
サッサと人目に付かない場所へと移動したいというのに、一体なんだというのだろうか。
面倒そうにカインはマリアンへと視線を向ける。
「そっちじゃないよ」
「いや、こっちだよ」
「いやいや、そっちじゃないんだって」
グイグイと引かれ、もはや抵抗するのも面倒になって来たカインは、マリアンに引かれるまま後に続いた。
――そして。辿り着いた先には、豪華な造りの建物があった。
魔道具により、夜だというのに眩い光に照らされた、真新しい壁や看板には、羊をもした絵と『白羊館』という文字が刻まれている。
カインはこの建物を知っていた。
一泊で大銀貨一枚も取られる高級宿である。
「どういうことだ?」
「宿を取っておいたの。偉いでしょ」
呑気に言うマリアンであったが、文無しで素性も明らかでない少女が到底宿泊できる宿ではない。
カインは文句を言おうとしたが、途中でやめた。
疲れと眠気が限界に来ており、今はマリアンを責め立てるよりも一秒でも早く眠りにつきたかった。
そのままなにも言わず、カインはマリアンに手を引かれ白羊館へと入っていった。
部屋に辿りつくまでの間、豪華な内装に清潔な絨毯が目に入り場違いだなとは思ったが今更である。
高級感漂うエントランスにいた、執事のような恰好をした初老の男性が丁寧なお辞儀をし、それを優雅に手で制してニコリと微笑むマリアンを見て、頬が引きつったがそれもみなかったことにした。
部屋に到着し、カインは倒れ込むようにベッドへ身を投げた。
柔らかく、微かに甘い匂いを感じるベッドが心地よく、カインはマリアンがなにやら言っている内容も耳に入らない内に深い眠りへと落ちて行った。
読んで頂き、ありがとう御座います。