003 忌まわしき花の名
なだらかな丘陵。見渡す限り青く生い茂った背の低い草木が立ち並ぶ草原。緩やかな風が心地よく、若い草花を優しく揺らしている。
日は傾きかけ、間もなく辺りを朱の色に染めようとしている時、淡い光が草花を押し分けるように降り立った。
光の中から現れたのは、薄汚れた皮鎧を纏った黒髪の冒険者。そして、冒険者の両腕でフードを目深に被った小柄な人物が抱え上げられていた。
「………………」
眺めるように視線を走らせたのち、カインは僅かに意識が途切れていたことに気が付きハッとした。
慌てて周囲を警戒するが、風に揺れる草木以外に動きのあるものは見当たらない。
魔物や人の気配がないこと確認すると、カインは安堵の息を吐いた。
天秤の塔は攻略者が現れると、塔の内部とその周辺に居た魔物以外の全ての生き物を塔が出現した領内の何処かへと転送する。
転送先に規則性はない。ただあるとすれば、誰一人として同じ場所へは転送されないということだけだ。
塔と一緒に内部にいる者達が消えてしまわないようにと配慮されているのだろうが、これが意外とたちが悪い。
なぜなら転送先が定まっていないからだ。
転送された先がシャープウルフの巣の中であったりとか、断崖絶壁にある岩場の上であったりだとか、人様の家の中だったりとか、場所を選ばず飛ばされるのだから当然ともいえる。
流石に激流の中であったり、助かりようのない上空に転送されたという話はないのだが―――そもそもそんな場所へと転送されては助かるわけもないので、それほど不運な場所へ飛ばされた者は話すこともできないわけであるが……。
カインが飛ばされた場所は、街道からもそれほど離れていない比較的安全な場所であった。
攻略者はそれなりに優遇されるのかどうかはともかくとして、見覚えのある景色が広がっていることでカインの心に余裕が生まれる。
すると、つい今しがたミリアム大聖堂で天使メルリルと対話し、悪態を付くまでの記憶がすぐに思い起こされる。ぶつけきれなかった文句の数々が脳裏をよぎり、既にその文句を言うべき相手は手の届かない場所へと行ってしまった事実に、なんともいえないもやもやとした気持ちだけが残った。
だが、恨み言を口に出したい気持ちもあったが、それをするよりも先ずは行動をしなければと気持ちを切り替える。
カインはミリアム大聖堂に至るにあたって、様々な組織と揉め事を起こしている。攻略者となれるのはただ一人なのだから、塔の内部で揉め事が起きるのは当然のこととは言えるのだが……。
とりわけ問題となるのが、その中でもここ、コルネリア領南端においてそれなりに力を有している冒険者クラン、『デバイスレイン』を出し抜いていることである。彼らより先行していたカイン達が塔を攻略したことは、既に知られているはずだし、デバイスレインが攻略者となったカイン達を放っておいてくれるとは思えない。まず間違いなく何かしらの接触はしてくるだろう。
それだけではない。攻略者が現れたことは塔が消失したことで周知の事実となっているのだから、デバイスレインが攻略者の情報を吹聴すれば、王国やら魔術師協会、教団などの権力者達も黙ってはいないだろう。
予定では世界最強の力を手に入れ、圧力に屈することなく名を売っていくはずだったのだが、手に入れたモノはよくわからないギフトと、両腕で抱き上げている誰とも知れない人物だけだった。
その事実を改めて実感し、カインはショックで眩暈を起こしそうになった。
今までの苦労。そして、これから仲間に支払わなくてはならない出費。攻略者として、各所から付け狙われる今後の未来。
自身に降りかかった不幸に現実逃避をしたい気分である。
とそこで、カインの両腕の中で抱き上げられたまま、身じろぎ一つしないフードを深く被った人物へと意識がいった。
小柄な体躯のせいか、苦になるほどの重さを感じない。そして、抱き上げた腕から丸みを帯びた曲線と、柔らかな感触が伝わってきた。
「お、女か!」
カインが慌てて腕の中の人物を地面に立たせると、その人物はゆっくりと動き出し、髪をかき上げるような動作で被っていたフードを脱いで素顔を晒した。
その姿を目にしたカインは、一時の間、息をすることを忘れた。
差し込む夕日が映り込むかと思えるほど艶やかな白銀の長い髪。その長い髪が羽のように柔らかくそよぐ。長い睫毛の下でサファイアのように透き通る碧い瞳は、うっすらと細められ、品定めをするようにカイン見つめている。桃色の小さな唇からくすりと愛らしい笑みを漏らし、腰に手を当てたその姿は自信に満ち溢れていた。
少女だった。
しかも、その容姿はミリアムの遣いである、天使メルリルよりも神々しく、芸術ともいえるほど美しい顔立ちをした少女たった。
少女が徐に、羽織っていたフード付きのマントを脱いだ。白い布地の服から胸元が覗いており、肌理の細かい健康的な肌へカインの視線は自然と釘付けになる。
カインの視線が下がると、焦げ茶色の短いズボンからは艶めかしい太ももが覗いているのに気が付く。
カインは慌てて視線を戻し、再び少女の顔を見た。
先ほどよりも高揚したかのように、薄っすらと朱に染まる肌。潤んだ碧い瞳が、心臓を鷲掴みするような衝撃を与えた。
―――いかん!
そう思った時には遅かった。
少女はカインにもたれ掛かるように、華奢な体とほどよくバランスのとれた大きさの膨らみを押し付けてきた。
潤ませた瞳を上目遣いに見上げて来る少女の姿は、美しくも小動物のように愛らしい。
カインはふわりと鼻先をかすめる花のように甘い香りと胸元の柔らかな感触、ねだるような瞳に己の血流が上がるのを感じた。
目の前の少女のことが抱きしめてしまいたいほど愛おしい。
そう思い、膨らみ続ける感情が限界へと達した瞬間―――。
何故か、その熱は一気に冷めていった。
カインは沸騰しかかった頭を振って少女の肩を掴むと、優しく胸元から引き離した。
「……で? お前はなんだ?」
そんなカインの冷静な行動に、少女は碧い瞳を見開いて驚いた。
「……え? なんで?」
「は?」
少女は細い指先を桃色の唇に当て、うーんと小さく唸る。すると、なにか心当たりがあったのか、すぐになるほどと大きく頷いた。
「ホモなの?」
「ちげぇよっ! いきなり失礼なやつだな!」
「えー。じゃあ、なんでなの?」
「なにがだ?」
「だからさ。わたしみたいな空前絶後の超絶美少女を前にして、なんでそんなに平然としていられるのかってこと」
少女はあたかも当然のように、小首を傾げながらそんなことを言った。
確かに少女のそんな何気ない仕草でさえも、男なら思わず抱きしめてしまいそうになるほどの愛嬌と魅力に溢れていた。
カインとて、少女が言うように冷静であったとは言い難い。獣のように襲い掛かりたくなる衝動を掻き立てられなかったわけではないのだ。
だが、さきほどはそんな衝動に駆られ自身の感情が臨界点へ到達した際、自制するかのようにスッと感情が抑え込まれただけだった。
その証拠に今もなお、こみ上げてくる衝動を深呼吸して落ち着かせなければならないほどには動揺をしている。
「なにを言っている。小娘相手に動じるほど女慣れしてないわけじゃない」
カインのそんな強がりに近い台詞も少女は聞いているのかいないのか、不思議そうな顔をして呟きを漏らした。
「うーん。そういうこと言ってるわけじゃないんだけどなぁ……まぁいっか」
興味をなくしたのか、少女はクルリと回り花のような笑顔を向ける。ふわりと舞った艶やかな銀髪と、衣服の端が少女の愛らしさを引き立てるように踊った。
「それで? 私の所有者様は、なんていうお名前なの?」
「……え? ああ。……カインだ」
少女の姿を惚けるように見入ってしまったカインは、反射的に素直に答えていた。そんな自身の様子に気が付き、直ぐにハッと我に返る。
「つか、いま回る必要なかっただろ! 一々無駄な動きが多いな!」
「えー? 無駄じゃないと思うけど。その方が可愛く見えるでしょ?」
「確かに可愛い……じゃねぇ。それが無駄だって言ってんだよ」
カインのつれない言葉に少女は頬を膨らませ抗議の視線を向けた。
そのあざとい行動に、わかっていても頬が緩みそうになるのを必死で堪え、カインは努めて冷静な態度を取る。
「……で? お前の名前は? なんて呼べばいい?」
「え? わたし? うーんそうだなぁ」
そう言うと、少女は遠くへと視線を向ける。憂いをはらんだその瞳は一枚の絵画にでもなりそうなほど神秘的な雰囲気を醸し出し、それでいてどこか寂しそうでもあった。
「そういうのって、所有者が決めるものじゃない?」
「は?」
「ほら、普通は飼い犬に名前を付けるでしょう?」
「お前は犬かなんかなのか?」
「えー。ちがうよ。どちらかと言えば天使かな。あ、実際に天使ってわけじゃなくて、天使のように可愛いって意味でね」
「なら、ポチと名付けよう」
「いやっ! もっとまじめにかんがえて!」
「飼い犬の分際で、主に意見するとかどうなんだ?」
「飼い犬じゃなくて、飼い天使だって言ってるでしょ! ちゃんと可愛くて、綺麗で、語呂もよくて、私にピッタリの名前を考えて! 無能! この変態!」
「どこに変態の要素があった!」
溜息を吐きながらも、流石にポチでは可哀そうだと思い直し、カインは真面目に少女の名前を考えてやることにした。とはいえ、素性も知れない少女にいきなり名前を付けるにしてもなにも浮かばない。
ふと、揺れる草花の中に小さな青い蕾が目に入る。母親が好きだった花だ。
歳の割に子供っぽく、いつも周囲を困らせていたカインの母。自分の髪の色と同じだからといって、家中を鉢だらけにして、不器用ながらも一生懸命その花を育てていた様子が、カインの記憶に蘇る。
―――多年草、マリアン。
澄んだ水と土があれば何処にでも根を張る、さして珍しくもない直物。青い蕾を付け、その蕾が花開くと、艶やかな碧い花びらが幾層にも拡がる美しい花を咲かせる。
花言葉は奇跡、神の祝福。
カインは目の前の少女を見つめる。
そのどこまで透き通る、宝石のように美しいマリアンの花と同じ碧い瞳。
ふむと顎に手を当てカインは思案する。おそらくこれ以上の名はないだろうと。
カインの記憶の中に、嬉しそうにマリアンの花を愛でる母の姿が思い起こされる。手入れに夢中になり過ぎて、何度もカインに昼食を作ることを忘れた母。そのことに抗議の声を上げ、『あんたよりこの子たちの方が可愛げがある』とまでいわれた忌まわしき花の記憶。
うむ。とカインは腕を組んで納得する。
「マリアン」
「え?」
「お前の名前はマリアンだ」
カインがそういうと少女は驚いたように目を丸くした。
「……まともな名前考えられるんだ」
「まあな。俺を蔑ろにした忌まわしき花と同じ名前だ」
「むっ! それどういうこと!」
カインの言葉にマリアンと名付けられた少女は抗議の声を上げた。だが、その口元からは、微かな笑みが漏れていた。
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