001 私の英雄
宵に染まる山道を少女は駆けていた。
長い黒髪をなびかせ、東国の民族衣装、和装を着込んだ少女はスルスルと縫うように山道をひた走る。
そんな少女の後方からは、ガチャガチャとけたたましい音が鳴り響いていた。
見れば銀色の鎧を着込んだ複数の男たちが、怒声を上げて少女の後を追い迫っている。
「こっちだ! 取り逃がすなよ!」
一人の男が大声を上げる。
その言葉に追従して、統率の取れた動きで男たちは速度を上げた。
男たちの声に反応して、少女はチラリと後方に目をやる。そして、獣のように紅く、獰猛な瞳を薄っすらと細めた。
……そう、少女の瞳は紅かったのだ。
血のように紅く、縦に裂けた瞳孔は人のそれとは違う。明らかに異質であり、異常な色合いをしていたのだった。
少女の紅い瞳が、月明かりを受けて宵の森へ赤い残滓を残して揺らめく。
少女は後方へと向けていた視線を前方へ戻すと、ほんの僅かに速度を上げて、木々の立ち並ぶ山道を迷いなく駆けた。
少女の駆ける速度は、それほど速いものではない。
だが、縫うように山道を駆ける為、翻弄された男たちはその距離を一向に詰めることができなかったのだ。
既にそれなりの時間を要している逃走劇ではあるが、少女にも男たちにも未だ疲れの色は見えていない。
少女はふと考えた。
さて、どうしたものかと。
実のところ、少女にとって自分を追い掛けて来る男たちを打ち倒すことは、それ程難しいことではなかった。
体格のいい男たちであるとはいえ、所詮は人の枠に収まる烏合の衆。それが何人集まろうと、大した問題にはならない。
唯一まともだと思えるのが、彼らを指揮していた男だろう。
だが、そんな隊長格の男ですら、少女は大きな問題とはしていなかった。
では、なぜ少女がこの逃走劇を続けているかというと。
少女には欲しいものがあったのだ。
それは、平穏に生きているだけでは決して手に入らないものだった。
手をこまねいているだけでは、届くことのない幻想。
両親に幾度となく読み聞かせられ、いつしか焦がれていた英雄の物語。
少女は求めていたのだ。
自分だけの英雄を。
物語になる前の英雄譚を。
それを手にすることが出来るのならば、他には何も必要ない。命を賭したとしても、対価としては安いものだ。
そう考えるほどに、少女は自分の為の物語を欲していた。
そして、少女は今、その足掛かりを得ている。
手繰るには余りにも細い糸。力強く引いてしまえば途端に切れてしまいそうな、弱々しい可能性。
けれど、目を背けるには難しい程に、一縷に光る僅かな希望が、少女にとっては眩しく見えた。
その希望を今か今かと待ち望み、容易く排除出来るはずの男たちに追われ続けることを選択させた。
広くない山間をぐるぐると回り、一定の区域から脱しようともせず、少女の逃走劇は続く。
徐々に狭まりつつある包囲網。
ここらが引き際だろうか? 時間は十分に稼いだ。
諦めに近い感情が巡り、少女がそう考えた時だった。
「こっちだ!」
森にそびえ立つ、一際大きな大樹の裏手から声が聞こえた。
待ち望んでいた言葉。
期待していた助け。
込み上げてくる感情を必死で堪えつつ、少女は声の鳴った方へと足を向けた。
大樹の裏手には垂れ下がる縄を片腕に巻き付け、少女に手を差し伸べている少年の姿があった。
その姿を目にすると、少女は嬉しさのあまり飛び込むような形で少年へと抱きついた。
森で生活している為か、少年の胸元は見た目以上に逞しい。
「しっかり掴まっていろよ」
少女がコクリと頷くと、少年が手にしたナイフで一本の縄を切った。
すると、反対側に取り付けられた重しが下がり、二人の体がスルスルと大木の上へと引き上げられる。
太い枝の上に足を着けると、少年は小さく息を吐いた。
男たちの目を欺くことには成功したが、このままここに居ても行方がばれるのは時間の問題だろう。
今でも大木の下では、男たちの怒声が響き渡っている。
少年は少女の体を強く抱き締めると、別の木に取り付けられた縄を掴み振り子のように木々を移動した。
木から木へ。なるべく音を立てないように注意しながら渡っていく。
そして、目的の樹木へと到着すると、そこから地面へ降り立ち、直ぐそばにある洞窟の中へと足を踏み入れるのだった。
洞窟の中は一切の光を通さない暗闇。
その暗闇の中でも、事前に道を覚えていたのか、少年は迷うことなく歩を進めた。
少年に抱きついたまま、少女は導かれるままに少年の後に続く。
少女の胸は高鳴った。
ドクリドクリと鼓動が早鐘を打ち、伝わる温もりが体温を上昇させる。
ようやく手にすることが出来たこの一幕。
蔑まされ、忌み嫌われてきた自分に手を差し伸べてきた少年。
自身の夢を諦めかけていた少女にとっては、それだけで救いとなり、胸を焦がすのには十分な出来事であった。
優しく、物事をしっかりと見据える少年に少女の心は惹かれて行き、少年と過ごす日々に満たされてもいた。
しかし、平穏な日々はそう長くは続かなかった。
特異な少女を打ち倒す為、動き出した騎士団に追われる羽目になってしまったのだ。……そう、少女を追い回していた男たちは騎士なのだ。それも、英雄リグルト・ガルシアナが率いる精鋭部隊である。
その騎士たちが自分の平穏を容易く踏み躙った。そのことに憤りを覚えた少女であったが、それと同時に胸の内に秘めた願いを渇望していた。
特別な力など何一つ持たない少年が、自分の為に精強な騎士に立ち向かってくれたのならば、それは正しく英雄と呼ぶに相応しい行動であろう。
そんな勇気ある行動を示してくれたのならば、それこそが少女が真に求めていた物語となる。
そして、少女の願いに応えるように、少年は動いてくれたのだ。
それは正しく、少女の為に起こされた行動。
少女の為に綴られた英雄譚。
少年と少女。
二人の間には、今、確かな物語が紡がれたのであった。
他の誰かが知るはずも無い物語。
語るに足りない、ありふれた一幕。
偉業を成し遂げたわけでも、敵を打ち倒したわけでもない。
あるのは、人々から忌み嫌われた少女のことを、少年が自らの意思で助けに来たという事実だけだ。
ただ、それだけのことだ。
けれども、少女にとってはそれだけで十分だった。
それだけで、心が満たされた。
それを、ずっと待ち望んでいたのだから。
読み聞かされた物語の中で、英雄に恋い焦がれる少女たち。絶望の淵から救い出され、主人公に深い感謝と羨望の眼差しを向ける人々。
物語を通してその感情に共感し、登場人物を通じて英雄に焦がれる自分がいた。
だから、欲してしまった。求めてしまった。
自分も物語の人々と同様に、他者に依存してしまいそうなほど、強い感情の猛りに支配されたいと。
幸いと言えるかどうかは別としても、己は人々に忌み嫌われた存在であった。
故に、己の心をすくい上げ、足元が震えるような状況にも勇気を示した少年の行動は、それだけで特別なことだと言えた。
少女は湧き上がる感情に酔いしれながら、暫しの間その幸福に浸った。
洞窟を抜けると揺らめく松明が二人を待ち構えていた。
少年は少女を後ろに庇い、ぐっと歯を食いしばる。
「追い掛けっこは終わりだ」
取り囲む騎士の中から一歩前へ出て、一人の男が声を発した。
リグルト・ガルシアナ。
ガルシアナ聖騎士団の団長であり、生ける英雄と囁かれる男。
リグルトは腰に佩いた剣を抜き放つと二人に向かって構えた。
そして、冷や汗を流し、震える足に力を込め、それでも少女を守ろうとする少年に対して少女の心は再び高鳴った。
少年のことが心から愛おしい。
これ程の窮地の中にありながらも、少女は幸福の絶頂の中にいた。
欲しい。
この物語をもっと見ていたい。
この物語に浸りきってしまいたい。
そう囁く欲求に襲われながらも、少女は冷静に己の心を鎮めていった。
これ以上はいけない。
これ以上は少年の平穏を壊しかねない。
この優しくて、正しい少年の心を歪めてしまう。
であるならば、きっとここが物語の終わりだろう。
幕引きとしては丁度いい。
少女は最後に少年をきつく抱き締めると、名残惜しそうに手を離した。
「暗幕」
少女が声を発すると、少年を薄暗い幕が包み込んだ。
何が起きたか分からず、少年はバンバンと張られた幕を叩くがビクともしない。
幕によって阻まれ、少年が何やら叫ぶ声も外へは届かなかった。
少女は少年から目を離し、剣を向けるリグルトに向き直り声を上げた。
「あなたは英雄なのでしょう? ならば一つ、私と約束をしてくれないかしら」
剣を構えたまま、リグルトは顎をしゃくって言ってみろと答える。
「彼には手出ししないでもらえるかしら?」
「元からそこの小僧には興味がない」
「興味のある無しではなく、彼に手を出さないと誓えるかと聞いているの」
リグルトは眉を顰めながら暫し沈黙すると、良いだろうと了承の言葉を発した。
その答えを聞くと少女は満足げ微笑み、ゆっくりと暝目する。
そして。
少女の瞳が閉じられた次の瞬間。リグルトが動いた。
その場にいる誰もが反応することもできない初動。
その動きを少女は薄っすらと目を開けて追い掛ける。
突き出される剣。
しかし、少女はリグルトの放つ一撃を躱そうとはしなかった。
少女の胸に容易く剣が突き立てられた。
口元から血を吐き出し、少女はゆっくりとその身を地に横たえる。
同時に、少年を覆っていた薄い幕が消え去り、自由となった少年が声を上げた。
「ヨミ!」
叫びながら少年が駆け寄り、ヨミと呼ばれた少女を優しく抱きしめる。
「……なん、で」
抵抗しないんだ。
そう言いかけた少年は、言葉を区切って苦虫を噛み潰したように顔を歪める。
わかっていた。
なぜ、ヨミが抵抗しなかったかなど、分からないわけもない。
ヨミはきっと、少年の為にことを荒立てないことを決断したのだ。
自分の命をもって収めれば、誰も傷付かずに終結するはずだと。
だからと言って、このような結末に納得できるだろうか。
少年は振り返り、血濡れの剣を携えたままの英雄を睨みつけた。
少年の怨みの篭った視線を受けて、リグルトは嘲るように笑いを漏らす。
「お前は、英雄なんかじゃない!」
「そうかい? だが、小僧がなんと言おうと世間は俺を英雄として崇めるだろうな」
「なら、その世間とやらも、お前も間違っている!」
「正しいとか間違ってるとかじゃないのさ。俺は強くて、お前は弱い。俺は英雄で、お前はただの小僧だ。だから、俺の行動こそが正義なんだよ」
「そうか。英雄なんてやってる奴は、性根から腐ってるってことか」
少年の言葉にリグルトは薄っすらと浮かべていた笑みを引っ込め、ポリポリと頭を掻いた。
そして、手にしていた剣を面倒そうに横へと薙いだ。
躊躇うことなく振るわれた剣。
その突飛な行動に驚きつつも、少年では振るわれた剣を躱すことはできなかった。
しかし。
無造作に放たれた剣は、少年へ届く前に空間によって弾かれた。
驚きをあらわにして警戒するリグルト。
「……手を出さないと約束した筈よ」
胸に刃を突き立てられ、口から赤黒い血を吐き出したヨミは、それでもまだ生きていた。
「ヨミ!」
喜びと少女の容態に困惑する少年を手で制し、ヨミはゆっくりと立ち上がった。
「あなたが、約束を守れば、誰も傷付かずに終われたというのに……」
元々白かった肌が更に青白くなり、眠たげな瞳を向けてヨミが言った。
「はっ! 化物との約束など、誰が守るというのだ!」
告げられた言葉に、ヨミは溜息を吐いた。
「ならば仕方ないわ。死んでしまうかもしれないけれど、許して頂戴」
ヨミの体から魔力が溢れ出し、空気が歪んだ。
それにいち早く反応したリグルトであったが、ヨミとの間合いを詰める間も無く、魔力の本流が周囲を侵食した。
「なにっ!」
「六道転移」
ヨミが静かな声音で発すると周囲を闇が包み込み、その場に居た聖騎士団を跡形もなく消し去ってしまった。
辺りを静寂が包み込む。
それと同時に、ヨミの体が力なく崩れ落ちた。
少年がヨミを抱きとめると、ヨミは薄っすらと目を開けて微笑みを向ける。
「殺したのか?」
少年の問いにヨミは首を振った。
「……転移、させた……だけよ」
「俺と……一緒に居たくなかったのか?」
ならばと、問い掛けられた言葉にヨミは困惑した表情を見せた。
少年の言いたいことはわかる。
最初からこうしていれば、ヨミは傷付かずに少年との時間を過ごすことができたのだから。
一緒に居たくなかったか?
そんなことはない。
この幸福な時間がもっと長く続けば良いと願っていた。
少年と共に平穏な日々を送りたいと、思わなかったわけがない。
けれど、それは叶わぬ願いなのだ。
それを望んではいけないのだ。
人々から化物と恐れられる自分が、これ以上少年の側にいてはいけない。
共に生きて行けば、この優しい少年が、自分と同じように人々から忌み嫌われ、命を狙われることになってしまう。
だから、ヨミは自分が消えて無くなることにより、少年をあるべき生活へと戻そうと考えた。
自分の願いは既に叶ったのだから。
心臓を貫かれ、魔力も底を突いたヨミの体は、そう長くは持たない。
だから、別れとなるこの時、真に少年のことを想うのであれば、少年の問い掛けに突き放すような言葉を浴びせるべきであった。
だが。
それは出来なかった。
少年の瞳から溢れる涙に声が詰まり、胸が張り裂けそうになる。
眉間に皺を寄せ、涙を堪えようと必死になる姿が愛おしくてたまらない。
「守り……たかったんだ。……幸せにしてやりたかったんだ」
その言葉に、ヨミの胸はキュッと締め付けられた。
これ程までに自分のことを想っていてくれたのか。
欲しいものばかりに目を向けて、少年の本心に気が付いていなかった。
友と呼ばれ、少年が自分に向ける感情は情であると思い込んでいた。
けれど、苦悶に歪む少年の瞳の中には、確かな愛情の色が浮かんでいた。
二人で笑いあった日々は、既に互いの中に愛を育んでいたことに気が付いていなかった。
それを、今この時に気が付いてしまった。
ヨミは結局、突き放すような言葉を口にすることができなかった。
少年の心に憂いを残してしまうと、わかっていながら。
「間違えて……しまった、わ。あなたの……ことを、見誤……ってしまった」
ヨミの言葉に少年は、悲しみを堪えながら頷く。
そして、少年の心に楔を打ち込むような言葉を述べた。
優しいあなたが好き。
正しく在ろうとするあなたが好き。
勇敢で真っ直ぐなところが好き。
だから私は―――あなたを愛している。
震える声で告げられた言葉に、溢れる涙が止まらなくなり、少年は嗚咽混じりにヨミの名を呼んだ。
「……ありがとう。……そして、ごめん、なさい」
自身の選んだ幕引きに後悔を覚えつつも、ヨミは目一杯の笑顔を向けて言った。
「……さようならカイン。私の……英雄」
そう告げると、ヨミの体は暗い色の魔力へと変わり、吸い込まれる様に消えていった。
ヨミが横たわっていた場所に残された一つの魔晶石。
禍々しい気を放つそれをそっと拾い上げ、少年は愛おしそうに胸に抱くと声を上げて泣いた。
宵闇に満ちた森の奥で、一人の少年の泣き声がいつまでも響き渡った。
そして、涙が枯れる頃、少年の胸には一つの決意が宿っていた。
涙を拭い立ち上がった少年の瞳には頑なな意思があった。
少年は己の意思で選び、歩むことを決意した。
ヨミの残した言葉が少年の脳裏に繰り返される。
―――私の英雄。
ヨミが何を望んでいたのかはわからない。
だが、ヨミが英雄だと呼ぶのなら。
己の愛した女がそう言葉にしたのなら。
なってやる。本物の英雄に。
悲しみを胸に、少年は歩き始めた。
人の枠を超えた英雄という存在になる為に。
ヨミの想いを踏みにじらない正しい英雄となる為に。
その日の決意が、少年の―――カインの運命を大きく変えたのだった。
読んで頂きありがとう御座います。




