便利な魔法
妹が部屋から飛び出し、階段を二段飛ばしで走り下りて来た。
一階のリビングで勉強をするボクの目の前に立ち、
「わたし、魔法が使えるようになったのッ!」
嬉々として言い放つ。
電子書籍で魔術書を購入し、呼び出した悪魔と契約したのだという。
「見ててね――」
妹は、見えない丸い玉を包むかのように胸の前で両手を向かい合わせる。
小声でなにやら詠唱をして、カッコいい呪文名を力強く叫ぶ。
と、妹の手の中で紫電が走るソフトボール大の光球が生み出される。
ボクはわざとらしく感嘆の声を上げる。
「灯り代わりの魔法?」
妹は光球をボクに手渡し、
「これをぶつけると相手はしぬ」
「……そりゃ怖い」
そんな危なそうなものを手渡されても困る。
ボクはひとまずテーブルの上においた。
「もっとわかりやすい魔法はないの?」
「まだまだいっぱいあるよ」
そう言って妹は、火を出し、水を出し、物を動かし、瞬間移動し、傷を直し、エゾナキウサギを召喚する。
こなれた宴会芸のように次々に魔法を披露し続けた。
ひと通りの魔法を見せ終えると、一休みするようにフローリングに寝転ぶ。
そして、ウサギをなでながら得意げにクチを開く。
「もうねー、この魔法があればなんでも出来ちゃうよ」
そんな妹の様子に、ボクは不安を感じた。
――軽くたしなめておくべきかもしれない。
ノートに円を描き、円の外側に辺が接した三角形を書く。
角と辺にアルファベットと適当な数字を並べて――
「じゃあ、この外接円の半径を、正弦定理を使わずに、魔法だけで解いて」
寝たままの妹の目の前に差し出した。
「はっはっはっ、魔法があればヨユーでしょ」
上体を起こしてテーブルに向かって座りなおし、ノートを見つめる。
ノートを浮かせたり、凍らせてみたり、空中に図形を再現してみたりを繰り返していたが、そんなもので解けるはずもない。
妹の表情が徐々に曇ってゆき、まもなく、頭を抱えて突っ伏した。
「……ギブアップ」
「だろ。魔法なんて今どき数学以上に使う機会は無いよ」
「えー、そんなことぉ……うーん」
ボクの乱暴な決めつけに対して『納得出来ない。が、理解出来ないこともない』というところだろうか。
「未成年の契約は、よっぽどじゃなきゃ無効にできるから。取り消してきたほうがいいよ」
「……はぁーい。せっかく値切ったんだけどなぁ――」
しぶしぶながら妹は部屋にもどってゆく。
置き去りにされたウサギを引き寄せて、ボクは自分の勉強の続きを始める。
しばらくして、勉強をするボクの目の前に何者かが現れる。
音も立てず、気がついた時にはそこに立っていた。
ヒトではなかった。
濃い紫色をした腰よりも長い髪。
そこから生える曲線をえがく短い角。
切れ長の目は白い部分がなく、瞳全部が黒い。
そして、全身がキレイなすみれ色をしている。
そのたたずまいには、風格や威厳のようなものがあった。
生き物としての、圧倒的な格の違いを感じずにはいられない。
テーブル越しにボクの対面に立ち、
「私の邪魔をしたのは貴様か?」
眼前に一枚の紙をを突きつけてくる。
紙には、読むことの出来ない曲線ばかりの文字がたくさん書かれている。
そして、下の方にローマ字の筆記体でカッコよく妹の名前がサインされていた。
たぶん、妹と交わした契約書なのだろう。
契約書の全体を覆い隠すように『破棄』と大きな判が押されている。
どうやら妹は契約を取り消すことが出来たようだ。
この破棄された契約や先程の言葉から考えて、ボクに対して恨みに思っているのだろう。
ここに来たのも敵対的な理由にほかならないはずだ。
恐怖に身をすくませてボクは動けなくなる――と、本来ならばそうなるべきなのだろう。
しかし、まったくそうはならなかった。
眼の前に立つ悪魔の表情に、あまりにも強い疲労の色が見えたからだ。
「……契約の取り消しは――」
繰り出される言葉も、
「勘弁してくれ。年度が変わってノルマが増えているんだ」
あまりにも弱々しい。
呆気にとられるボクを気にも止めず、悪魔は話を続ける。
「それにな、『魔法は役に立たない』などと言ったらしいが、意外と人間社会で役に立つものなのだぞ」
悪魔は用途の例をいくつか上げて、魔法の有用性をボクに説いて聞かせる。
そのほとんどが、今の時代には無用の長物ばかりだった。
大正時代や明治時代なら重宝されることもあるかもしれない。
悪魔は、ボクが黙っていることを好意的に解釈し、更にしゃべり続ける。
妹の再契約、そしてボクとの新規契約が狙いなのだろう。
ボクは、テーブルの上においた『光球』をそっと手に取る。
妹が魔法で初めに作ったものだ。
見た目に反した残念すぎる中身を見せつけられて、悪魔に対し、少なからず幻滅を覚えていた。
さっさと消えてもらいたい。
「この魔法は男の子を女の子に――」
説明途中の悪魔に光球を放り投げる。
「え?」
驚く悪魔のお腹に光球が直撃する。
体内にめり込んでゆくと同時に、悪魔のカラダが、目がくらむほどまばゆく輝いた。
光の収束とともに、悪魔は跡形も無く消し飛んでいた。
ボクの目の前には妹の契約書とエゾナキウサギだけが残されている。
――なるほど、魔法はこんな時に役立つのか。
ヒザの上のウサギをなでながらボクはそんな事を考える。