その二十 クロノス発進
シェリーは十一時になったのを確認し、格納庫の鉄扉を開いた。ギギーッとという嫌な音がして、扉はゆっくりと開き、中から間違っても香水にはしたくない臭いがして来た。
「プ……」
シェリーはハンカチを口の前に当てて後ろで結んだ。そして、中に足を踏み入れた。
( 確かここは、一年前にクロノスがニューペキンから運ばれて以来、度も開けられなかったんだっけ……)
シェリーはまず格納庫内の照明を探し、スイッチを入れた。埃を被り、白くなったクロノスが浮かび上がるようにしてシェリーの視界に入った。
「動くかな?」
シェリーはクロノスに近づき、エアロックのボタンを探した。
ガールスは行く先々で、作業員にシェリーの行方を尋ね、ついに彼女がクロノスがある格納庫に行った事を突き止めた。
「クロノスを出すつもりか」
ガールスは歯ぎしりした。
「どういうことだ? あの女も、アバスの息のかかった奴なのか。それとも議長の手先か?」
ガールスは、今の自分がディズムの下にいた時の自分と何ら変わらない、只の飾り物である事に気づいた。
「いつまでも道化を演じているつもりはない!」
ガールスは大声で言い、走り出した。周囲の作業員達がビックリして、走り去るガールスを見ていた。
「デイアネイラだけじゃなく、クロノスも月に向かっているのか?」
シャトルに向かう四駆車で、レージンはカシェリーナから議長の話を聞き、仰天していた。カシェリーナは頷き、
「議長はそう言ってたわ。その情報が月の連邦軍に流れて、貴方はスパイだと思われたわけね」
「なるほど。じゃ、あの連中がクロノスが月に向かっているって言ってたのは、本当だったんだな」
レージンは腕組みした。運転しているロベルトが、
「でも実際に月に向かっているのは、デイアネイラです。クロノスはまだ地球を出たくらいですよ」
と口を挟んだ。レージンは前を見据えて、
「とにかく、ここから脱出することが先決だ。急げ、ロベルト」
「はい」
ロベルトはアクセルをググッと踏み込んだ。
リノスはシートに沈み込んで、半分眠りかけていた。
「リノス、聞こえますか?」
モニターにサングラスの男が映った。リノスは右目だけ開いて、
「何だ?」
「コペルニクスクレータに接近し、砲撃して下さい。先程は出力を半分にしてもらいましたが、今度は全開で発射して下さい。それで、コペルニクスクレータは壊滅するはずです」
「わかった」
リノスは、ようやく考えていた事が実行に移せるとわかり、ニヤリとした。
シェリーはエアロックのボタンを押した。プシューッという音がして、エアロックは開いた。
「何とか動くか」
彼女が中に入ろうとした瞬間、銃声がした。シェリーはギクッとして振り向いた。
「待て。一体そのクロノスで、何をするつもりだ?」
そこには、銃を構えたガールスが立っていた。シェリーはそれでもひるまずにハンカチを取って、
「クロノスを使って、デイアネイラを落とすんです」
ガールスは眉をひそめて、
「デイアネイラだと? 何だ、それは?」
「今、月に攻撃を仕掛けようとしている化け物です。クロノスのさらに上を行く、破壊兵器です」
シェリーの言葉に、ガールスは色を失った。
( デイアネイラ……。思い出したぞ。ディズムが計画していたものだ。私は途中で追放されたので、詳しい事はわからんが、確かとてつもない兵器だったはず……)
シェリーは唖然としているガールスを尻目にクロノスの中に入り、エアロックを閉じた。
「はっ!」
ガールスは慌てて銃を撃ったが、対空ミサイルさえ受け付けない本物のクロノスに、そんなものが通じるはずがない。
「メインスイッチは……これか!」
シェリーは手探りでスイッチを入れた。明かりが点き、計器類が作動した。
「さすがだ。一年も放っておいたのに、動くな。それに、私達のデータが消されてなくて良かった」
データとは、五年前、クロノスを奪取した時に登録した、ロイ達四人の指紋、声紋、網膜の毛細血管、そして掌の静脈のことだ。これがそのまま残っていたので、シェリーはクロノスに拒否される事なく、乗り込めたのだ。彼女は操縦席に座り、シートベルトを締めた。スクリーンにガールスが見えた。
「長官、下がって下さい。クロノスを発進させます」
シェリーは外部スピーカで呼びかけた。
「くそ……」
ガールスは憎らしそうな顔で後退した。クロノスはゆっくり動き出して、前回と同じく、鉄の扉をまるで飴細工のようにねじ曲げると、外へ出た。
「よし……」
シェリーはコンピュータを起動し、ポインタをクリックした。
「さすがに二人乗りを一人で動かすのは大変だな」
ディスプレイにやがてシノンが映った。その後ろにはロイとエリザベスとテミスがいる。
「うまくクロノスに辿り着けたようだな」
「ええ。でもこれからが問題です。操縦に集中すると、索敵ができません」
シェリーが言うと、シノンは得意そうな顔で、
「大丈夫。索敵とナビゲーションはこちらでやる。今クロノスのコンピュータにハッキングするから」
「はい」
クロノスは垂直上昇し、やがてニューペキンを目指して北の空に消えた。
「……」
ガールスはただ唇をかんで空を見上げるだけだった。しかし彼はあることに思い当たった。
「その手があったか」
ガールスはニヤリとして、元来た道を走り出した。
コペルニクスクレータの居住民は、ほぼ完全に避難を完了した。そのクレータの上空に、肉眼でも見える高さまで、デイアネイラは接近していた。
「面白いぜ。破壊し尽くしてやるぞ」
リノスは呟き、フッと笑った。その時、索敵レーダーが敵の接近を告げた。
「何だ? 月の艦隊か?」
リノスはレーダーが指示した方向のスクリーンを拡大投影した。それはエウロス艦隊だった。
「やはりな。蹴散らしてやる」
リノスが言った時、再びサングラスの男が、
「その必要はありません、リノス。コペルニクスクレータの攻撃に集中して下さい。月の軍が何をしようと、デイアネイラにはかすり傷一つ負わせる事はできません」
「わかったよ」
リノスは忌ま忌ましそうに答えて、主砲の操作を続けた。
「憲兵隊のシャトルだから、お前には少し過酷かも知れないが、我慢してくれ」
シャトルに乗り込む時、レージンがそう言うと、
「大丈夫よ、私って結構頑丈なんだから」
「しかしなァ。憲兵隊の奴でも、Gに耐え切れずに、失禁した奴がいたからな」
レージンはわざとカシェリーナが怖がるようなことを言った。カシェリーナはドキンとして、
「おもらししちゃうの?」
「場合によってはな」
レージンはニヤリとした。するとロベルトが、
「それは訓練の話ですよ。実際にはそれほどのGはかかりませんから、安心して下さい」
カシェリーナはムッとしてレージンを睨み、
「何よ、嘘つき!」
「ハハハ!」
レージンは大笑いをして、シャトルに乗り込んだ。それに続いてカシェリーナが、そしてロベルトが乗り込んだ。
ガールスは車でニューホンコンの軍支部に到着すると、すぐさまクロノス捕獲命令を出した。
「操縦しているのは素人だ。いいか、撃墜ではないぞ。捕獲するんだ」
ガールスは戦闘機のパイロットに直接指示した。
やがてニューホンコン支部から、十機の戦闘機「ラドン」が発進した。大きさはクロノスの半分ほどだが、スピードはクロノスとさして変わらない。
「あっ……」
シェリーはレーダーに映る十個の機影に気づいた。ディスプレイのロイが、
「ニューホンコンから追撃部隊が発進したようだな」
「ええ。きっとガールスだよ」
シェリーはクロノスを発進させた時に見た、ガールスの悔しそうな顔を思い出した。
「とにかく、振り切る事だけを考えろ。対レーダーコートをしちまえば、奴らにクロノスを見つける術はないはずだ」
「了解!」
クロノスは速度を増した。
シェリーの操縦するクロノスが北へ向かっている事は、車椅子の男も知っていた。
「誰が動いている?」
車椅子の男が尋ねた。サングラスの男は、
「恐らくカシェリーナ・ダムンの父親である、シノン・ダムンでしょう。クロノスを奪ったのは、シェリー・キモト。五年前のクロノス事件の当事者の一人です」
「なるほど。面白いな」
「はい」
車椅子の男は声を出さずに笑った。サングラスの男もニヤリとしたようだった。