その十 恐るべき陰謀
カシェリーナがナターシャが休んでいる部屋に入ると、彼女は部屋の窓を開いて、外を眺めていた。
「ナターシャさん」
カシェリーナが声をかけると、ナターシャはハッと我に返ったように振り返り、カシェリーナに向かって弱々しく微笑んだ。
「本当に、何て言ったらいいのか……」
カシェリーナはナターシャに近づいた。シノンはドアのところに立って二人を見ていた。
「カシェリーナさん、ごめんなさいね。月で式典に参加するはずだった貴女にまで、迷惑をかけてしまって」
ナターシャは涙ぐんで言った。カシェリーナはニッコリして首を横に振り、
「そんなこと、気にしないで下さい。マーン先生は、私の恩師です。放っておけるわけがないでしょう?」
「ありがとう」
二人はしっかりと抱き合った。
リノスは地下道のようなところを歩かされていた。もちろん、目隠しは着けたままである。サングラスの男が前を歩き、屈強な大男がリノスの両脇に張りついている。そこは間接照明によってぼんやりとした光が射しているだけで、目が慣れないと歩けないような明るさだった。
「貴方は不思議に思っているでしょうね。何故失敗したのに、報酬の残金が支払われたのか」
サングラスの男は歩きながら言った。リノスは捨て鉢気味に、
「そうだな。何故だ?」
「答えは簡単です。計画が成功したからですよ」
「何?」
リノスは禅問答でもしているのかと思った。
「何をわけのわからんことを……」
サングラスの男は、フッと笑ったようだ。彼は立ち止まってリノスの方に顔を向け、
「つまり、貴方がクロノスの倉庫に忍び込ませた部下は、捨て駒だったのです。我々の同志が、貴方の部下が侵入するより早く、倉庫に忍び込んでいました。そして、設計図とマニュアルをデジタルカメラで撮影して、その後にやって来た貴方の部下が捕まえられて騒ぎになっている隙に、脱出したのです」
「何だと?」
リノスは自分と自分の部下がすっかり道化を演じていた事に気づき、
「どういうつもりだ? 何のために俺達を利用した?」
語気を荒らげて尋ねた。
「ですから、貴方にはクロノスの次の段階、すなわち、第三の化け物に乗ってもらいます、と申し上げましたでしょう?」
サングラスの男は、淡々とした口調で答えた。リノスはそこでようやくある事を思い出した。
「そうか……。サードモンスタープラン……。デイアネイラのことか?」
「そうです。貴方が、五年前にクロノスを狙ったのは、そのためだったのでしょう?」
サングラスの男は、ニヤリとしたようだった。
ダス・ガールスは隣に寝ていた女が起き出したので、ハッとして目を覚ました。彼がいるのはニューホンコン最大のホテルの最上階だ。
「もうこんな時間か……」
彼はベッドの脇にあるデジタル時計を見て呟いた。表示は「10:30」を示していた。
( 下らんパーティーだったな、夕べは )
ガールスはバスローブを着てベッドを離れ、シャワールームに行った。
「キャッ!」
ガールスの夜の相手をした女は二流のファッションモデルで、アバスの紹介だった。彼女はプロポーションだけは一流モデルと遜色がなかった。
「止めて下さい!」
自分がシャワーを浴びているのに、全くおかまいなしに入って来たガールスを、女は押し止めようとした。
「かまわんだろう? 何を恥ずかしがることがある?」
ガールスはバスローブを放り出し、女の身体を触って来た。
「……」
女はジッと耐えていた。ガールスは嫌らしい目つきで笑い、
「お前、名前は何と言う?」
女はガールスの手の動きに耐えながら、
「レト・アオキです」
ガールスは、レトの身体を舐めるように眺めて、
「いい名だ」
そう言いながら身体のあちこちに手を伸ばした。レトは屈辱で泣き出しそうだった。
( 我慢しなければ。こんな男に弄ばれるのは嫌だけど、祖国を救うためには……)
レトは月連邦軍の情報部が送り込んでいる工作員だった。地球での表向きの顔は、売れないファッションモデルだが、実は優秀なスパイなのだ。彼女は今までこんな役を命じられた事はなかったが、先輩の女性工作員に男を誘惑する方法を指導され、男性の教官に男を教えられた。信じられないような話である。
( 月にいる父や母、幼い弟や妹のためにも、そして何より、祖国月連邦のためにも……)
まだ二十歳のレトにとって、それは重過ぎる任務であった。
カシェリーナ達がナターシャと話している間、ロイとエリザベスとテミスは、何となくぎこちない雰囲気で話をしていた。
「変わったな、テミス」
ロイが言うと、テミスはロイを見て、
「何が?」
ロイは肩を竦めて、
「昔のお前はもっとお転婆だったよ。さっき奥から出て来た時、お前だって気づくのに、少し時間がかかったよ」
「そうね。大学で会う時とも、全然違う感じだったから、私も一瞬貴女だっていう事に気づかなかったほどよ」
エリザベスが口を挟んだ。するとテミスはムッとして、
「あんた達は私の記憶が十五年前で止まっているから、そんなこと言うのよ。大学で久しぶりに会った時も、私はすぐにロイとエリーだって気づいたのに、二人は私だって気づかなかったわ」
「そうだっけ。まァ、何にしても、さっきは本当に悪かったよ。お前の気がすむのなら、殴ってもいいよ」
ロイは真顔で言った。テミスは呆れ顔で、
「いいわよ、別に。昔の怨みをちょっと言ってみたかっただけなんだから。今はもう、あんたには何の魅力も感じないよ」
ロイはカチンと来たらしく、
「何だよ、それ?」
膨れっ面をした。エリザベスはクスクス笑いながら、
「私も謝り直すわ、テミス。あの時はごめんなさい。でもロイを彼にするのやめて正解だったでしょ?」
「そうだね。シノン教授の方が、ずっとカッコいいよ」
テミスもクスクス笑いながら言った。ロイはますます剥れてしまった。
「あっ、カシェリーナ先生」
カシェリーナとシノンが戻って来たのに気づいたエリザベスが言った。カシェリーナはエリザベスの前に腰を下ろし、
「ごめんなさいね。ナターシャさん、少しは落ち着いたみたいよ」
「そうですか。良かったですね」
シノンはテミスの横に座り、
「もうすぐ昼だから、ロイとエリーの分の食事も作ってくれないか。大勢の方が、ナターシャも気が紛れるだろう」
「わかりました」
テミスは立ち上がり、キッチンの方へ歩いて行った。エリザベスはシノンを見て、
「私達、もう出ますから、大丈夫ですよ」
しかしシノンは、
「テミスの手料理は、一流のシェフ並みだぞ。私の娘は、ゆで卵くらいしかできんがな」
カシェリーナを見た。カシェリーナはムカッとして、
「うるさいわね。これから勉強するのよ!」
「お前が結婚したら、キッチンに立つのはレージンになるんだろうな」
「何よ、お父さんの意地悪!」
「ハハハ!」
シノンとカシェリーナの言い合いは、父と娘と言うより、仲のいい男女の口喧嘩のように見えた。ロイとエリザベスは、呆れて顔を見合わせた。