その四 疑惑
翌日、レージン率いる憲兵隊第一分隊は月のコペルニクスクレータ復興式典に出発する評議会議長の一行に先立って、ナリタ空港の宇宙港から月へ向けて飛び立つ事になった。猜疑心の強い現議長の強い要請で急遽決定されたので、レージン達は大わらわだった。当初は同じ日に出発だったからだ。
「どこまで心配性で疑り深い議長なんだかな」
レージンはそう独り言を言い、ロベルト達隊員に向かって、
「まさか何か起こるとは思えないが、月には今回の式典に議長が出席するのを快く思っていない輩もいるようだ。細心の注意を払って、警護に当たってくれ」
全部で十名の隊員達は、
「はっ!」
敬礼して応えた。レージンは、ロベルトが緊張でカチカチになっているのに気づき、フッと笑った。
「さァ、乗り込むぞ」
レージンは先頭に立って発射台に向かった。隊員達はその後に続いて歩き出した。
一方カシェリーナも、ニューペキンから月に向かうシャトルに乗船するため、搭乗手続きをしていた。ニュートウキョウはすでに午前九時を過ぎていたが、ニューペキンはまだ朝靄が煙っている時刻だ。カシェリーナは地球と月の救世主として、招待されているのだ。彼女自身は気が乗らなかったのだが、忙しくてあまり会う機会がないレージンも警備のためとは言え、月に行く事になっていたので、どこかで会う事ができると思って、出席を決めたのである。彼女はレージンとの再会を想像して、ついニンマリしてしまい、手続きをしていた受付の女の子をギクッとさせてしまった。
少し肌寒い日だったので、彼女は自慢の美脚を封印して黒のロングスカートを履き、ブラウスも襟がキッチリ閉じたものにしており、ジャケットも少し厚手の白にしていた。耳には大きめのイヤリングが下がっていて、髪はカチューシャで留め、額に少し前髪が垂れている。黙っていれば、まだ二十代前半で通りそうだ、と自分で思った。実際童顔の彼女は、そう見えなくもなかった。
( でも…… )
彼女はロイ達と話した昨日の事を思い出していた。
( あのクロノスの倉庫に侵入したのがリノス・リマウの部下で、単にクロノスのコピーを造ろうとしたのなら、何の心配もいらない。でも、もしそれだけのことでないとしたら…… )
何者かが再び戦争を起こそうとしているのなら、とんでもないことだ。カシェリーナは搭乗カードを受け取ると、搭乗口に向かった。
( そのリノスもまだ逃亡中で、軍も警察も捜索中だと言っていたし…… )
エリザベスの嫉妬から、カシェリーナは様々なことに思いを巡らせる事になっていた。
カシェリーナの父であるシノン・ダムンは、戦火を免れた邸で、またガイア大学に通う女性と暮らし始めていた。今年六十歳の彼には、もはや女性に対する肉体的欲求はほとんど残っていなかったので、以前暮らしていたナターシャと同じく、彼女をどうこうしようと思った事はない。
「教授、朝食の用意ができましたよ」
シノンがバルコニーで寛いでいる所へ、その女性がやって来た。髪は少し茶色っぽくて、目はパッチリした二重で瞳は碧色。口元は口角がほどよく上がっていて、理知的な印象を与える。彼女の名前は、テミス・アキ。ガイア大学の四年生で、ロイやエリザベスと同じゼミに所属している、活発な女の子である。
彼女は持っていたトレイをバルコニーのテーブルの上に置き、自分も椅子に腰を下ろした。起き抜けのガウン姿のシノンと、キチンとワインレッドのワンピースに着替え、フリルの着いたエプロンを着けているテミス。何となくそぐわない二人に見えたが、決してそうではない。
「また新しい日が始まるのか。これで死に一歩近づいたわけだ」
シノンが独り言のようにボソッと言うと、テミスはニッコリして、
「何をおっしゃるんですか、教授。まだまだ、あの世からのお迎えなんて、先の話ですよ」
するとシノンはテミスを見て、
「いやいや。死というものは、常に人の背後にいていつ襲いかかって来るのかわからんものなのだよ。どれほど健康な者でも、翌日には死んでしまうかも知れんのだ」
「教授」
テミスがたしなめるようにシノンを睨んだ。シノンは苦笑いして、そのすっかり白くなった総髪を掻きむしると、
「いや、すまん。しかし死を直前にして、狼狽えるのも嫌だからな」
テミスは再びニッコリ笑って、
「さァ、早く食べて下さい。今夜は、マーン先生夫妻がいらっしゃるんですから、パーティーの準備をしなくちゃならないんです」
「はいはい」
シノンもニッコリして、皿の上に並んだサンドイッチを頬張った。