第二十一章 対決
神酒の海にあるパイアの城に、全く意外な訪問者があった。
「何の御用かしら?」
パイアはソファにゆったりと座り、向かいに立っている訪問者を見上げた。
「貴女なら可能だと思って伺いました」
訪問者は、あのテセウス・アスであった。しかし彼は名前を名乗っただけで、自分がゲスの息子だということを話していない。彼は手に持っている大きめのアタッシュケースを床に下ろしてから、
「僕、地球に降りたいんです」
「地球へ? 今は危険だと思うんだけど」
パイアは妙に色っぽい目つきで言った。テセウスはそんなパイアの仕草を無視して、
「でもカロン・ギギネイを地球に降ろしたのは、貴女でしょう?」
と言った。途端にパイアの顔が険しくなった。
( 何故そんなことを知っている? このガキ、一体何者? )
テセウスはパイアの顔つきが変わったのに気づき、
「申し遅れましたが、僕の父はあのダン・ディーム・ゲスです」
「……!」
パイアは意表を突かれたようだった。
( ゲスの息子? 噂には聞いていたけど、本当に頭が切れそうね )
「地球へ降りたいって言ったわね」
パイアは立ち上がった。テセウスはパイアをジッと見て、
「はい」
「高いわよ、報酬。私のは正規じゃないから」
「わかってます。ここに」
テセウスはアタッシュケースを開いた。中には金塊が五本入っていた。
「貨幣に換算すれば、五億はするでしょう。父の遺産です」
「足りないわ」
「えっ?」
テセウスは呆然としてしまった。五億出せば、月と地球を百往復はできるはずなのだ。テセウスがあまり驚いているので、パイアはクスクス笑って、
「冗談よ。あまり凄いもの見せてくれたから、からかっただけよ。私を相当強欲な女って思っているのね、貴方」
とまた色っぽくテセウスを見た。テセウスはドギマギして、
「いえ、そ、そんなことは……」
パイアは大笑いして、
「大丈夫よ、心配しないで。引き受けさせていただくわ」
「そ、そうですか。良かった」
テセウスはホッとして溜息を吐いた。
「ただし、条件があるの」
「えっ?」
テセウスはまたビクッとしてパイアを見た。パイアはフッと笑って、
「私を同行させること。どう?」
「い、いいですよ」
テセウスは顔を引きつらせて同意した。パイアはテセウスに近づいて後ろから彼を軽く抱きしめ、
「安心しなさい、テセウス。私、坊やは好きじゃないのよ」
と耳元で囁いた。テセウスは真っ赤になった。
カロンは議長官邸を双眼鏡で眺めていた。
「ディズムの奴、全く外へ出る気配がないな」
「一旦戻りましょうよ」
ヒュプシピュレが言った。しかしカロンは双眼鏡を彼女に渡すと、
「いや。さっきインターネットニュースで言っていたろう。月に最後通告をしたのに返答がないので、コペルニクスクレータを消滅させる、とな。今日中には奴も動くはずだ。あの核融合砲は太平洋の真ん中にある。ここにいては発射の指示が出せんからな」
「でも、通信でできるんじゃない?」
「奴のことだ。今度は直接自分で撃つかも知れん。それにニュートウキョウから指示を出すと、月のスパイに発射のタイミングを知られる恐れがある」
「なるほどね」
ヒュプシピュレは呆れ始めていた。彼女はカロンに背を向けて、
「じゃあ、私は帰るわね。一人で頑張って頂戴」
とテントを離れて行った。カロンはそれを見送りながら、苦笑いした。
(ディズムめ。必ずあの時の礼をさせてもらうぞ。貴様は俺が初めて撃ち損じた標的だからな)
ディズムは議長室で椅子に身を沈めて、思索に耽っていた。
( 月は何を考えている? 集団自殺でもするつもりか? それとも何か奥の手でもあるというのか? )
それは考えられないことだった。ゲスが部下に殺されたのなら、内状は破綻しているはずだ。
「他に誰かゲスに代わって月をまとめられる者などいないな。あの殺された大統領を除いてはな」
ディズムは内心、大統領達を殺したゲスに感謝していた。彼と対決するなら、ディズムも慎重に事を進めなければならなかったが、ゲスを相手にするのなら、それほど慎重になる必要はないと考えていたからだ。その時、ドアがノックされた。ディズムは、
「何だ?」
と応えた。入って来たのはジョリアスだった。
「どうした?」
ディズムはジョリアスを見上げて尋ねた。ジョリアスは蒼ざめた顔をして、
「そ、それが、その……」
「何だ?」
「こういうことだ」
とジョリアスの後ろから現れたのは、マーンだった。そして続いてカシェリーナが現れた。彼女の後ろには、自動小銃を構えた兵士が立っていた。
「ダウ! 貴様、一体どうやって……」
ディズムは完全に意表を突かれたようだった。いつになく動揺して立ち上がった。マーンは、
「軍の大部分がもうお前について行くのをやめたんだ。今朝、我々が隠れていた別荘に軍用車が大挙して押し寄せた時はびっくりしたよ。しかし彼らは、我々を捕えるために来たのではなく、我々をここへ連れて来るために来たんだ」
「……」
ディズムは何も言わなかった。ジョリアスは若い兵士に両脇から抱えられ、議長室を出て行った。
「お前はカシェリーナの放送をあまりにも軽く見ていたようだな。彼ら若い兵士は、カシェリーナの話を聞いて自分達の行く末を考え、お前を倒すことに協力してくれると言う」
とマーンは言った。ディズムはただジッとマーンを見ていた。
「お尋ねしたい事があります」
カシェリーナが口を挟んだ。ディズムはゆっくりとカシェリーナに目を転じた。カシェリーナは目を潤ませて、
「何故貴方は月を潰そうとしているのです? 何故それほどまでに月を憎むのです?」
「何故、だと?」
ディズムの顔が急に険しくなった。彼は怒りを露にして、
「私の父親は月に殺されたのだ。そして私は全てを奪われ、貧困の中に放り出された」
「だから復讐すると言うのか? 随分身勝手な言い分だな」
マーンは吐き捨てるように言った。ディズムは再びマーンを見た。
「身勝手だと?」
「貴様も同じ事をしているからだ。母を捨て、私を捨てた! 貴様の論理からすると、私が貴様を殺すのは仕方のない事だ、ということになるのか?」
「……」
ディズムの顔が一瞬悲しそうになったのをカシェリーナは見た。
( どうしたのかしら? ディズム総帥の顔が、ほんの少し、悲しそうに見えたけど…… )
「お前はピロメラのことで私を憎んでいるようだな」
ディズムは冷たく言った。マーンはムッとして、
「当然だ! 母より軍の幹部の娘を選び、出世しようとしたお前が、父親の復讐のために月を潰そうとしていると言い出すのなら、この世に道理と言うものが存在しなくなる」
と言い返した。カシェリーナは二人の男を見比べていた。
( 二人共、似ている。自分の思いを相手に伝えられないもどかしさで、苛々しているわ )
カロンは議長官邸の周囲に集まった軍用車を見て、事の重大さに気づいた。
「まさか、クーデター政権の中で、またクーデターが起ころうとしているのか?」
彼はマーンとカシェリーナが中に入ったのを見ていないため、そう思った。
「いかんな」
カロンは銃をケースに入れ、小銃をショルダーホルスターに入れて、弾丸を内ポケットに入れると、テントを出た。
「ディズムは俺の獲物だ」
彼は走りながら呟いた。
「パイア・ギノが動いたと言うのか?」
ララルは情報局の工作員に尋ねた。彼は大統領官邸の執務室で、大統領の椅子に座っていた。
「はい」
「一体何のために?」
「パイアはある人物と一緒に地球に向かったようです」
「一体誰だ?」
「確かな情報とは言えないのですが、テセウス・アスだということです」
「テセウス? あのゲスの隠し子のか。やはり、拘束しておくべきだったな」
「はい」
ララルは眉をひそめた。
「どういうことか、すぐに調べろ」
「はっ!」
工作員は執務室を出て行った。ララルは苛立ちながら机を叩き、
「ディズムがコペルニクスを狙っているという時に、何を考えているのだ、あの小僧は?」
と言い放った。
ディズムはマーンに背を向け、窓に近づいた。
「やはりお前はその程度の見識しか持ち合わせていなかったか」
と彼は言った。マーンはまたムッとした。
「何だと?」
カシェリーナはハッとしてマーンの腕を取った。マーンはカシェリーナを見て、
「大丈夫。私はまだ理性を失ってはいないよ」
と囁いた。カシェリーナはホッとして頷いた。ディズムはマーンの方に振り返り、
「大事の前の小事だったのだ。ピロメラとお前はな。私にとってあの時一番大事なことは、自分の素性を知られぬようにすることだった」
「大事の前の小事、だと?」
マーンはカシェリーナの手を振り解いて、ディズムに近づいた。ディズムはマーンのことなど気にも留めていないようだった。
「そして今の私にとって一番大事なことは、月を潰すこと。未来永劫、あの地に人を住めなくすることだ」
「自分の忌まわしい過去を消去しようというのですね?」
カシェリーナが口を挟んだ。ディズムはギロッと彼女を睨んだ。
「それでは同じことの繰り返しになるだけだということに気づかないのですか?」
「何?」
カシェリーナの言葉にディズムはムッとし、マーンはハッとして彼女を見た。
「力任せに押し込んだら、その反作用も大きくなる。封じ込めれば出ようとする。奪えば奪い返そうとする。殺せば殺し返す。何故そんな悪循環を繰り返そうとするのです? それではまた復讐しようとする者を生み出すだけではないですか?」
カシェリーナは強い調子で言った。ディズムはしばらく彼女を見ていたが、やがて笑い出し、
「力が圧倒的なら、反作用すらない。壁は崩れるだけだ。封じ込めて皆殺しにすれば、出ようとする者はいなくなる。奪って全滅させれば、殺し返されることはない。悪循環とやらが起こるとすれば、生温いやり方をするからだ。一切を潰す。月を全て潰してしまえば、もはやそのようなことは心配せずにすむ」
と言い返した。カシェリーナは悲しそうに、
「わかりました。貴方にはもはや救いの道はないのでしょう。好きになさって下さい。もう私には何も言うことはありません」
と言うと、議長室を出て行ってしまった。マーンは慌ててカシェリーナを追った。
「カシェリーナ!」
マーンが後ろから声をかけると、カシェリーナは目に涙を浮かべて振り返り、
「総帥はピロメラさんを愛していたのですよ」
「えっ?」
マーンはカシェリーナの唐突な言葉に困惑した。
「でもあの人にも意地があったのでしょう。それだけは絶対に口には出せなかったのです。総帥は、この復讐劇に先生とピロメラさんを巻き込むのを恐れて、お二人を捨てたのです」
「まさか……」
マーンは信じられないというように頭を振った。
「さっき先生がピロメラさんのことを話した時、ディズム総帥は悲しそうな顔になりました」
「……」
カシェリーナは歩き出した。マーンも続いた。
「私、その時全てがわかった気がしたんです。総帥は自分の代で全てを清算するつもりなのだということが。月を本気で潰すつもりなどないことが……。だって月は総帥の故郷なんですもの」
「……」
カシェリーナは涙を拭って歩き続けた。
「カシェリーナ……」
マーンはカシェリーナの言葉を信じることにした。
カロンは議長官邸の近くまで来た時、ヒュプシピュレが近づいて来るのに気づいた。
「どうしたの、カロン?」
ヒュプシピュレは尋ねた。カロンは官邸を見たままで、
「軍用車が官邸に押し寄せている。何かあったに違いない」
「でしょうね。ただ、クーデターじゃないわよ」
「どういうことだ?」
カロンはヒュプシピュレを見た。ヒュプシピュレはフッと笑って、
「官邸にあのカシェリーナ・ダムンが入って行くのを見たのよ。男とね」
「カシェリーナ・ダムンが?」
カロンは再び官邸に目をやった。