第二十章 過去
カシェリーナ達は夕食を摂っていたが、皆食が進んでいなかった。シノンが、
「ディズムが勝ったな、この戦争。奴は月を征服するまで、止まらんぞ」
と言うと、マーンが頷いて、
「そうですね。あの男は、月に怨みがありますから」
「月に怨み?」
カシェリーナが尋ねた。マーンは、カシェリーナを見て、
「あの男は、子供の頃月に住んでいたんだ。貧乏のどん底だったらしい。何年もその屈辱に耐えて、ようやく地球に降りて来て、あの男は誓ったそうだ。いつか月に復讐してやるんだとね」
「そんな。それ、逆恨みです」
「そうだよ。でもあの男にはそんな理屈は通用しないんだ。自分の考えが間違っているなんて、少しも考えたことがないのだから。今になって思うよ、母はあの男のどこに惹かれたのだろうとね」
とマーンが言うと、今度はシノンがマーンに尋ねた。
「マーン君、君は大学時代のディズムを知っているかね?」
「いえ。その頃のことは母から何も聞いていませんので」
「ふむ、そうか。ディズムもね、大学生の頃は、もっと明るくて優しい男だったのだよ」
「ええっ?」
それにはマーンばかりでなく、カシェリーナもびっくりしてしまった。シノンは食事の手を休めて、
「何がきっかけだったのかわからないが、ディズムは大学を中退し、士官学校に入学した。そして、それからマーン君のお母さんである、ピロメラさんと出会うことになる。それまでの何年かに、我々が知らないベン・ドム・ディズムの人生があったんだろうな」
「お父さんは総帥の大学時代を知っているの?」
カシェリーナが尋ねた。シノンは頷いて、
「ああ。あいつもガイア大学の法学部にいたからな。あまり目立つ奴じゃなかったが、それほど嫌な奴でもなかった」
「……」
マーンの顔は真剣そのもので、シノンの顔に穴が開くのではないかと思えるほど、彼をじっと見ていた。
「ちょうどその頃、ライオス・パレが大学にいて、ライオスの講義はいつも立ち見が出るほどだった。私もディズムも、ライオスの講義だけは真剣に聞いた。何か、あの人の話は、人の心を揺さぶるものがあったからな。しかしライオス・パレは、その主張の激しさ故に、大学を去らねばならなくなり、晩年は不遇だった。そのライオスの遺志は、私やマーン君に引き継がれているのだから、まァ、最終的には不遇ではなかったことになるかな」
「あの男が、ライオス・パレの講義をそんなに真剣に聞いていたなんて知りませんでした」
マーンはすっかり仰天して言った。ナターシャが、
「ダウ、もういい加減、あの男って言うのやめにしたら? 仮にもディズム総帥は、お父さんですよ」
とたしなめるように言った。マーンはナターシャを見て苦笑いし、
「ああ、わかったよ」
と答えた。そして、
「何かがきっかけとなって、幼い頃に受けた屈辱が甦り、月に復讐する気になった。そう考えるのが、的を射ていると思うのですが」
「うーむ。そんな単純な理由とは思えんのだがな」
シノンは腕組みをした。カシェリーナがその時、
「わかったわ!」
と大声で言った。シノンとマーンとナターシャが同時にカシェリーナを見た。カシェリーナは三人を見て、
「こうは考えられないかしら? ディズム総帥は大学に行っている時、マーン先生のお母さんであるピロメラさんに出会い、お付き合いするようになった。でも二人の生活力ではとても暮らして行けないので、大学をやめて、給料をもらいながら勉強ができる士官学校に入学した」
「なるほど」
シノンは納得したが、マーンは、
「しかし、その後あの男は、母を捨てて軍の幹部の娘と婚約したんだ。しかもその当時、相手の娘はまだ十五歳だったという」
とカシェリーナを見て言った。カシェリーナは、
「そ、それは……」
と口籠ってしまった。
( 先生って、お母さんとディズム総帥のことになると、急に人が変わっちゃうのね )
「確かにカシェリーナの説だと、ディズムがピロメラさんを捨てた理由がわからんな」
シノンもマーンの意見に賛成した。
「そうですね。辻褄が合わなくなるようです」
ナターシャも言った。マーンは、
「あの男の過去などどうでもいいことではないですか。要は、どうしたらあの男の暴走を止められるかということですよ」
「いや、それは違うと思うな。ディズムがこの戦争を始めた理由は、奴の過去にあるようだ。それがわかれば、奴の行動を阻止することができるかも知れん」
シノンはマーンがなおも何か言おうとするのを制した。そして、
「君が奴のことを憎んでいるのはわかる。しかしな、今はそんな感情に流されている場合ではないぞ」
「はァ……」
マーンは目を伏せた。
カロンとヒュプシピュレは、寒空の下、小さなテントに入って風を避けていた。
「月が敗北したというのは確かか?」
「私なりのルートを使って調べてみたけど、確かよ。ゲスは死んだわ。部下の裏切りに遭ってね」
「依頼主が死んだか」
カロンは煙草に火を点けた。ヒュプシピュレはカロンに顔を近づけて、
「もうディズムを殺す必要がなくなったわ。月に帰る必要もね。ずっと私の邸にいなさいよ」
「……」
カロンはそれには答えなかった。彼はゆっくりと煙を吐き出すと、
「依頼主はいなくなったが、俺にはディズムに尋ねたいことがある。だから仕事は続ける」
「そう」
ヒュプシピュレは悲しそうに俯いた。
ヘルミオネは、居間で呆然として、ソファに座っていた。それをテセウスが悲しそうに見守っていた。
「お母さん」
テセウスはヘルミオネの横に座って、
「こうなることは覚悟していたのでしょう? お父さんが殺し屋を使って大統領を暗殺した時から」
「ええ、そうよ。あんなことをして全て無事にすむとは思えないから、いつかこうなるのではと思っていたわ。でも、現実にこんなことになると、どうしても……」
ヘルミオネの目から涙がこぼれた。テセウスはそれをそっと指で拭って、
「僕、できれば地球に降りたいのです。そして、あのカシェリーナ・ダムンという人と会ってみたいのです」
「ええっ?」
ヘルミオネはびっくりしてテセウスを見つめた。テセウスは、
「カシェリーナという人を少し調べてみました。あの人の父親は、シノン・ダムンと言って、ガイア大学で教授をしていた、政治学の大家です。ですから彼女もガイア大学の法学部に在籍しているようです。カシェリーナさんにも会いたいのですが、シノン元教授にはもっと会ってみたいです」
「テス……」
テセウスはニッコリして、
「地球と月が本当にわかり合い、共存共栄して行くためにも、僕やカシェリーナさんのような立場の人間が動くべきだと思うのです。政治は政治家が行えば良いのではなく、国民が考えるものだと思いますから」
と言った。ヘルミオネは、テセウスの意志を知って、感動に震えた。
ララルは、ディズムがあっさり協定案を蹴り、逆に軍事力を放棄するように提案して来たことを知って、怒りよりむしろ恐怖を感じた。
「あの男、本気で月を滅ぼすつもりか」
ララルは、ディズムからのメールをプリントした紙をギュッと握りしめ、シュレッダーに放り込んだ。
「言う通りにするか、それとも……」
ララルは身の縮む思いで思索に耽った。そして自分一人では決めかねると考え、幹部会議を召集することにした。
「追放した連中や、監禁逮捕した連中を復権させ、意見を聞くしかないな」
ララルは事の重大さに怯え始めていた。
翌朝になった。カシェリーナはベッドから起き上がり、窓に近づいてカーテンを開けた。一人暮らしのアパートと違って、妙に清々しい朝だった。
「あっ!」
彼女はその時、別荘の周りにたくさんの軍用車が停まっているのに気づいた。
( 見つけられてしまったのね )
カシェリーナは慌ててガウンを羽織ると部屋を出て、廊下の反対側のドアをノックした。
「ナターシャさん、大変! 起きてますか?」
「はい」
ナターシャがドアを開いて顔を出した。彼女も外の異変に気づいているらしい。カシェリーナは小声で、
「軍用車がこの別荘を取り囲んでいます」
「そのようね」
ナターシャとカシェリーナは、次にマーンの部屋の前に来て、ドアをノックした。マーンはすぐに顔を出した。
「外の軍用車のことだね?」
「ええ。先生も気づいていたんですか?」
「ああ。明け方近くに車のエンジンの音がしたんでね。さっきからずっと、どうしたものかと考えているんだ」
すると、反対側のドアが開いてシノンが顔を出し、
「アタマスに連絡をとるしかないだろうな」
「そうですね」
マーンは同意した。カシェリーナとナターシャも、シノンを見て頷いた。
ディズムは朝食をすませると、議長室に入り、情報部からの報告書と新聞の号外を見ていた。
「その後月からの返答はなしか。やはりコペルニクスクレータを潰さんと、良い返事はもらえんということか」
彼は報告書を机の上に放り出し、次に新聞の号外を見た。そして、
「議長死亡の証拠か。こちらの方がよほど私にとって脅威だ。月より足下を見よ、ということか」
と言い、ニヤリとした。しかし彼は、少しも慌てている様子がなかった。
一方ララルは、大統領官邸の会議室に追放した前大統領の側近や軍の幹部達を召集し、会議を開いていた。
「地球は、いや、ディズムは、本気で月を潰そうとしている。どうすべきか、諸君の意見が聞きたい」
ララルが言った。バラムイア・サランドが、
「ディズムが出した条件を呑むしか、月が生き残る道はないだろう。下手な小細工をして、コペルニクスクレータを潰されるよりはましだ」
と言うと、前大統領の側近が、
「しかし、条件を呑んだからといって、奴がコペルニクスクレータを潰さないという保証はないぞ。奴は月を憎んでいるのだ。別に月を支配しようと考えている訳ではないからな」
「それはどういうことだ?」
ララルは初耳だとばかりに旧側近に尋ねた。旧側近は、
「奴は四十年ほど前、月で州知事をしていた、アバス・パ・ディズムの息子だ」
「アバスの息子?」
ララルとサランドはほぼ同時に叫んだ。二人ともアバスという州知事の名には聞き覚えがあった。
アバスは月の州の一つであるアルフォンススの知事で、名知事として三期十二年を務めた男であった。しかし、その最期はあまりに突然、しかも残酷な形でやって来た。アバスは全く身に覚えのないスキャンダルで四期目を見送らされた上、反対派の男に、演説中に銃で撃たれ死んだのである。
彼は妻を早くに亡くしていたので、一人息子のベンは天涯孤独となってしまった。しかもアバスの遺した財産は全て州が没収し、ベンは施設に入れられ、不遇の人生を送ることになった。そのベンが姿を消したのがそれから二年後で、さらに何十年かが過ぎ、少年だったベンは巨大な権力を手中にし、今まさに月への復讐を成し遂げようとしているのである。
「今思えば、あれは次に知事に当選した、ラダマンティス・ルーマーの策略だったのだな。しかし当時誰一人としてそれを口にする者はいなかった。証拠がないということもあったが、ルーマーのテロを恐れたからだ」
「そんな昔のことで今更復讐しようというのか」
ララルはいささか呆れ気味に言った。すると旧側近の別の一人が、
「あの男にとって、あの事件は永遠に『今』なのだよ。自分の唯一の肉親である父親を殺され、未来の全てを奪われたあの事件はな」
「だからこそ大統領は、ディズムが暗躍していることを知ると、いち早く地球政府にそのことを伝えたのだ。しかしあのゲスが、祖国に対する裏切り行為だと言って……」
最初の旧側近が言った。ララルは歯ぎしりして、
「何ということだ。月を再建しようとしていたのに、逆に追いつめる結果を生み出してしまったのか」
「あまりにも愚かしい行為だった。あの大統領ほどのお方が、どうして月を裏切るようなことをなさるというのだ!」
旧側近の剣幕に、ララルもサランドも何も言い返せなかった。もう一人の旧側近が、
「ディズムを止めることなど、我々にはできぬ。せめて、月が割られぬことを祈るのみだ」
と言い放つと、ララルとサランドは顔を見合わせた。