スプリット
マサゴの投げた球は、オイルの染みた床の上を渦巻き状に回転しながら進んでゆき、ピンの数メートル手前から急に曲がって、レールが敷かれていたかのように、先頭のピンを捉えた。スコンと音がして、後続のピンたちもすべて跳ね飛ばされていく。
「よし」
無機質なトーンで、マサゴは呟く。
「相変わらず無駄に上手いね」と私はモニターの前に座ったまま、何度目かの台詞で賞賛する。
「無駄なことなんてどこにもねーよ」
「感動的な台詞」私は、ピンの無くなった床の上を律儀に掃除していくマシンを見つめながら応じる。
「遂になるかぁ、プロボウラーに」
「何が遂にか分かんないけど」
木曜日のイオンモールは閑散としていて、ボウリング場も同じく。居るのはかっちりプロテクターを付けて、一人で黙々と投げ続ける老人や、ガーターを無くしたお子様レーンで遊ぶ子供連れの母親。学校をサボった私たちは、投げ放題1500円で、朝からだらだらと投げ続けている。
ちら、と時計を見る。一時過ぎ。私たちは学校に居ても居なくても、時間に囚われている。6限の終わる時間まで、聞こえないチャイムの音を待っている。
「リョウの番だけど、投げないの?」
マサゴが私の球を指差す。私が時間を掛けて選んだその青い10ポンドは、きらきらと星々のような模様が描かれていて、未知の天体のようだ。
「腕、痛くなっちゃった」
そう言うと、マサゴはまた自分のオレンジの球を手に取って、構える。流れるようなフォーム、まるで、女神が泉の水を掬うような美しい所作で、マサゴはボールを放つ。また同じ軌道を描いて、ピンが綺麗に視界から消える。
「今日調子いいわ」
「上手すぎて気持ちわる」私は前髪を触りながら笑って言う。先週からシャンプーを、美容師の上杉さんに勧められた物に替えたけれどなんだか毛先の傷みも変わらないし、へなっとなってる気がしている。余計なものが入っていないからいいのよ、と上杉さんは言ったけれど、余計なものでも自分を綺麗に見せてくれるものならなんでもいい、とも思う。
私にとって本当に余計なものは、自分を美しくしくも楽しくも嬉しくもしてくれない、すべてのものだ。
「あー終わった」
またしても無感情にマサゴが呟いた。見ると、左右両端に一本ずつピンが残されている。見事なスプリット。
「なんか腹減ったなぁ」
膝に手をついて、マサゴが振り返る。
「投げないの?」
「どうせどっちかしかとれないよ」
マサゴはそう言って、ゲーム終了のボタンを押した。ピンたちは、機械に薙ぎ倒されていった。
お店もボウリング場も人はまばらだったのに、フードコートにはそれなりの人が居た。女性、それも主婦が圧倒的に多い。子供は母親たちの会話の横で退屈そうに座っていたり、走り回っている。買い物はしなくても、ボウリングはしなくても生きていけるけれど、お腹は必ず空く。
私はオムライスを、マサゴはチャーシュー麺を買って来て、食べる。
「子供欲しいなぁ」
私は母親に器を持たせながら、熱心にスプーンでご飯を掬っては小さな口へ運ぶ子供を見ながら呟く。
「子供めんどくせぇぞ」
マサゴが箸で掴んだ麺を上下に動かしながら言う。
「甥っ子?」
「姪。兄貴のね」
「いいなぁ。いくつ?」
「5。兄貴たち実家来ると子供は放置プレイだから、俺遊び相手にされるんだけど、最近の流行りオーディションごっこだぞ」
「オーディション?」
「子役のオーディション。なんか親バカだから受けさせたらしいんだ。で、失礼します、から始まってさ」
「あんた審査するの?」
「逆だよ。マサゴユウキ5歳です、特技はボウリングですってのを、姪っ子が机越しに腕組みしながら聞いてんの」
笑った。「楽しそう」
「延々、不合格にされたけどな。歌まで唄わされた挙げ句」
「不合格だったんだろうね何かが」
「聞くと色々大変らしいんだよ、とにかく。俺は要らないね」
そう言って、マサゴはまたラーメンを啜る。走り回っていた子供が私たちの側を通る。子供は私と目が合って一瞬不思議そうに動きを止め、思い出したようにまた走り出す。お尻を重心としてひょこひょこと。愛らしい。
「でも、それを喋ってるあんたの顔、嬉しそうだよ。きっとお兄さんたちも」
「そんなことねぇって」
マサゴは気まずそうに目を逸らした。
余計なもの。楽しくさせる余計なものは、必要なものだ。
「ありがとう」
私は言った。少しの恥じらいで、耳が熱を帯びるのを感じた。
「なにが」
マサゴもまた照れて、丼に集中する振りをする。
沈黙の間を、耳馴染みのある洋楽が埋めた。オムライスはケチャップの甘みが少し強くて、好みの味ではなかった。
「玉城たちだろ、また」
マサゴはラーメンに目を遣ったまま訊いてきた。
アカネの、小ぶりで整った顔が浮かぶ。取り巻きのサエ、ミズホの顔も。
「なんで分かるの」
「お前がサボる時は、大体そうだろ」
表情を変えずに、マサゴは言った。私が学校を休む時は、必ずマサゴに知らせる。そうすれば、マサゴも休んでしまうことを知りながら。
アカネ達のいじめが始まったのは、私がタツヤを好きだと告白してからだ。アカネも好きだったんだ。私は、そうなるまで、アカネ達と一緒にいながら全然その想いに気付かなかった。
タツヤはバスケ部の主将で、背が高く、目鼻のはっきりした顔立ちで人気がある。けれど、私が一番好きなのは、彼の左の目尻にある小さな傷跡だ。小さい頃、鉄棒から落ちて切ったというその傷跡は遠目には分からない。近くで見るとうっすらと色が白っぽく変わっていて、僅かに盛り上がっている。そして試合で汗を掻きだすと、赤く染まっていく。それに気付いた時、なぜだか私は胸の真ん中に疼きを覚え、恋に落ちていた。その傷もまた、タツヤにとっては余計なものかもしれない。けれど、私を堪らなく幸せにする。
いつものとこ行こうと私が言って、イオンモールを出て、自転車で走り出した。途中パトカーが巡回しているのが見えて、ルートを変えた。国道沿いに走る。この間まであんなに暑かったのに、いつの間にか風は秋の雰囲気を携えている。私はカーディガンの前ボタンを締めて、また自転車を走らせる。道路の向こうには稲穂が薄黄色に染まった田園が広がっていて、その奥には山々が折り重なって巨大な壁のようにそびえている。
そこはまだ造りかけの、バイパスの袂だ。入り口は厳重に金網で塞がれ、橋脚と道路は山の方へと延びている。
「ほんとお前、ここ好きだよな」
マサゴが言う。
「好きだね」私はじっとその先を見ている。
未完成のものはいい。どこまでも、勝手に続きが想像できて。
「来年の3月に完成予定だってな」
その道路は、東京まで繋がるらしい。
「東京か」
私は、呟く。マサゴが道路の先を見ながら、柵に顎を乗せて息を吐く。
「専門だっけ」
「うん」
私は頷く。まだどことは決まっていないが、美容師の専門学校に行くつもりで資料を集めている。どこでもいいのだ。東京に憧れているわけではない。今時、電車一本で行ける場所にここに無いすべてがあるとは思っていない。それでも、ここではないという理由で、希望を抱いてはいる。
「・・・・・・あー!」
突然、マサゴが叫んだ。普段、無機質で、何事にも動じないように見えるマサゴの咆哮は、私を驚かすには充分だった。
「どうしたの?」私は訊く。マサゴは俯いて言った。
「何にもしてやれない。お前に」
「そんなことないよ」
私は本音を言う。
「県内の専門じゃダメなのか?」
マサゴが問う。
「俺は実家の酒屋手伝うから東京には行けないけど、ここなら守ってやれる」
私は即座に首を横に振る。
「ありがとう。でも守られたいわけじゃないから」
「はっきり言うな」マサゴが苦笑した。
「私もマサゴがいなくなるのは心細いよ。でもスプリットと同じ。私にはどちらかしか選べない」
マサゴは黙って聞いている。
「それに、ここは余計なものが多すぎるんだよ。ていうか私自身余計なものつけてるし」
「余計なもの?」
「ペニス」
マサゴは黙った。それ以上、思いやりの籠もった返答は無いと、私は思う。
「昨日、アカネに言われたの」
私は思い出す。胸の奥深くに突き刺さって、今も血を滴らせるその言葉を。
「『あんた、子宮無いんだから、女にはなれないんだよ』って」
私の体は、男だ。ペニスがついている。余計なもの。その最たるもの。
最初に自分の心に気が付いたのは中学生の頃だった。同級生の男の子のうなじに恋をした。けれど、誰にも言えなかった。その間の私は、何もかもに苛立っていたような気がする。
高校一年生の時、美容師の上杉さんに出会った。彼は身なりからして、心は女性だと分かった。私は何度目かに通った後で、勇気を出して彼に、いや彼女に打ち明けた。美容室を終えた後の居酒屋で。彼女は、私の話を聞いて泣いてくれた。そして、謝った。
髪、男みたいにしちゃってごめんね。
それから私は嘘をつくのをやめた。親は今もスカートを履いて登校する私を見て、複雑な顔をする。気持ち悪い、と陰で言っている同級生がいるのも知っている。友達は減った。マサゴは中学から変わらず友達でいてくれる。あんまり女々しくすんな、と忠告してくれたのもマサゴだ。女は大した自覚もなく女なんだから。気にし過ぎるな、と。嬉しかった。
「卒業して、美容師になって、お金貯めて、ペニスをとる。これが私の夢」
「夢か」マサゴが呟く。
「強いよお前は」そう言って、また道路の先を見る。
何にも解決していない、宙ぶらりんの私は、それでもこの道路と同じようにいつか完成する時を信じて生きている。美しいもの、楽しいものばかりを想像して。
遠くで、私たちを解放するチャイムの音が鳴ったような気がした。