さよなら、おやすみ、またいつか
晩夏の夜道は昼間の暑さが嘘のように涼しく空気が澄んでいるように僕には感じられた。
昼に蓄えた熱を忘れた様に、アスファルトからは何の温度も感じなかった。
からんからんと乾いた音を立てる彼女のぽっくりの音が僕の耳に響く。
最寄りの駅まで、後数分で辿り着いてしまう。
事実を再確認して、僕は左手に握った彼女の手に少しだけ、力を込めた。
その微妙な力加減に呼応して、彼女の手が握り返される。
それだけが僕らの最後の絆のようで、怖く、愛おしかった。
二学期から、お父さんの、仕事の、都合で、すごく、遠くに、引っ越すことに、なったの。
彼女から伝えられた言葉が、今になって僕の脳裏に蘇った。
なんて陳腐で簡潔で、絶望的な事実なんだろうと僕は思う。
拒否も、逃避も、懇願も僕にはできなかった。
ただ時計の針は進んでいて、僕らは最後の日である、今日まで日々をただ過ごすことしかできなかった。
だって、ただの学生でしかない僕に何ができるだろう。
そんなのあんまりだと泣けばよかったのか。
僕と一緒にどこかへ行こうと叶わぬ夢を与えればよかったのか。
行かないでとただ伝えればよかったのか。
そのどれもが僕以上に彼女を傷つけることになることが分かっていたとしても。
そんなことをどうして僕にできるだろう。
虫の声が生い茂った稲の間から五月蠅いくらいに響いていた。
昼間に比べれば大して暑くないはずなのに、背中の汗が中々止まらなかった。
この夏は、最高の、夏に、したいの。
彼女のそんな言葉が僕の頭の中に蘇った。
僕もその意見に同意して、二人で馬鹿みたいにはしゃいで、何にもない田舎の僕らの町で、遊び尽した。
川遊び、虫取り、駄菓子屋のラムネとアイスクリーム、キャッチボール、麦わら帽子、天体観測、プール、風鈴、水鉄砲、蚊取り線香、手持ち花火、石切り、山登り……。
そして、今日。
この夏の最後の締めとしての近隣で一番大きな規模の花火大会。
住んでいる場所からは遠かったけれど、僕らはこの日のために、綿密な計画を練って待ち合わせた。
本当に、思いつくままに僕らは遊び、笑って、この夏を過ごした。
いずれ訪れる過酷を直視しないように。
この夏の思い出が僕らの中からいつまでも消えないように。
そして、僕らはこの夏の終着点に今辿り着こうとしていた。
木造の古びた駅の校舎が僕の視界に入った瞬間、その場所がどこか別の国のように遠い存在に感じられた。
あそこから彼女は僕の傍から飛び去ってしまうのだと今更ながらに実感してしまう。
怖かった。
寂しかった。
そして、虚しかった。
彼女との別離が確定してしまってから考えたことを僕はまた考えてしまう。
いずれ失うものなのに、どうして僕らは何かを好きになってしまうのだろう。
どうすればこの理不尽な世界を僕は受け入れられるのだろう。
堂々巡りする思考で僕は少し、眩暈がした。
ふと隣の彼女を僕は見る。
小首を傾げて、微笑を浮かべていた。
その眩しさを直視できずに僕は視線を外す。
どうして笑っていられるのだろうと少し僕は困惑する。
いや、理想なら確かに僕らは笑って別れるべきなのだろうとは分かる。
そうしなければ何か間違いを犯してしまうような危機感が確かにあるからだ。
それでも、どうして、彼女が微笑を浮かべていられるのかやはり僕には分からなかった。
理屈だけで全てのことが丸く収まるほど、この世の中は単純ではない。
横目で再び彼女を盗み見る。
星と月の明かりで煌めく黒い髪が歩く度にさらさらと流れていた。
芯の強そうな瞳と、少し下がった瞼がアンバランスなのに彼女の前向きで優しい人となりをよく表出していて、僕は好きだった。
僕より頭一つ分は小さいはずなのに、その小さな身体で、幼い頃から、いつも僕は彼女に引っ張り回されてここまで生きてきた。
それなのに、彼女は僕を置いてもうすぐいなくなってしまう。
不安が再び僕の胸の中に飛び込んでくる。
じわじわと墨汁が水を蝕むようにそれは僕を犯す。
顔に出ないように努めてはいるが、果たしてどこまで隠せているのか僕には分からなかった。
駅のホームに着くと、彼女は刺繍の入ったカバーに包まれた手帳をそっと出した。
いよいよこの時が来たのだと僕は、決まり切らない覚悟をして、僕は一人分の切符を買った。
きっと酷い顔をしていたんだろうと思う。
僕の頭を背伸びして、彼女がそっと優しく撫でた。
大丈夫とでも言うような彼女の手のその温もりが、心地よく残酷だった。
僕は涙が零れないように必死だった。
僕の耳に、遠くから電車の音が聞こえた。
もうかよ、と地面に吐き捨てた僕の言葉に、彼女は反応せずに頭を撫で続けていた。
掌の柔らかさが伝わるくらいにしっかりと、でもこの上なく優しく。
僕はその撫で続ける彼女の手を取って、彼女を引き寄せた。
電車がもう来るんだ、と僕は正面を向いて彼女に伝えた。
納得した様に、少し困った顔をして、彼女はホームの淵から十分に距離を取る。
僕のシャツの端を引っ張って、彼女は自分の手首を見せた。
僕があげたビーズのアクセサリーを指して、ずっと一緒と、僕に伝えてくる。
耳を覆いたくなるような大きな音を立てて、電車が彼女の背中越しに停車した。
彼女の髪と浴衣がその風圧で、少しだけ揺れる。
電車の車内灯がスポットライトのように彼女の姿を彩り、浮かび上がらせた。
それは当たり前の現実の光景なのに、僕にはとても儚げな幻想に思えた。
茜色の巾着袋を握り直して、彼女はちらりと電車を盗み見た。
そのタイミングで彼女の真後ろの電車の自動ドアが迎える様にゆっくりと開いた。
それは彼女を飲み込む深い闇を抱えた奈落のように僕には思えた。
彼女は何の恐怖も無いようにその穴へと身を躍らせた。
電車の中に入った彼女を追いかけて、僕は、扉から少し離れた場所に立つ。
丁度電車の中の彼女との距離は一歩分ほどの距離だった。
たった一歩分の距離なのに、僕らにとってそれは永遠と呼べるほどに遠い一歩だった。
そして、彼女は僕に最後の別れの言葉を送る。
掌を顔の斜め下でゆっくりと振る誰でも分かる別れの言葉。
“さようなら”
世界の終わりを告げる喇叭のような甲高く安っぽい笛の音がホームに響いた。
行ってしまう。
僕は、ただ手を振る彼女を泣かないように見送ることしかできない。
彼女はそんな僕に、少し悲しそうに微笑んで手を振っていた手を止めて、右手を握り、拳を耳の傍に持ってくる。
“おやすみ”
握った右手を顔の斜めから胸の前に振って手の甲を僕側にしたまま横向きのピースサインを作った。
“また”
すぐさま彼女はピースサインを崩し、両手の人差し指を立てて、肩幅の距離から、胸の前で近づける。
“会いましょう”
二秒ほどの短い間に彼女の言葉が手によって話された。
そして、再び彼女の顔の斜め下でゆっくりと掌が振られた。
僕は大きく頷いて、涙が零れそうな顔で不器用に笑った。
彼女と僕の間に冷たく硬い鉄の扉が何の容赦も遠慮も無く差し込まれた。
彼女はただ手を振り続けていた。
僕も笑い続けてやった。
僕が一歩下がると、電車は発進した。
僕らの事情などお構いなしに世界の時間はただあるがままに動き続け、彼女を連れ去っていく。
目線が外れる瞬間まで僕らはこの世界で、一つだった。
電車があっという間に走り去った後、僕は僕の言葉で彼女には絶対に届かない音を奏でた。
「さよなら! おやすみ! またいつか!」