こうして僕は少し大人になった
五月の爽やかな空気の中を僕らは全力で走る。まだ穏やかな日の光を全身に浴びて、サッカーボールを追いかけるのだ。
予鈴が鳴り、昼休みの終わりを告げる。あっという間に終わってしまった自由時間に、少しだけ未練を感じつつ、服に付いた埃を払った。
教室に戻ると男子達は一斉に制汗剤を使用して、爽やかさとは程遠い匂いが教室を満たす。空気を入れ代えようと全開にした窓から風が吹き込んでカーテンを膨らめた。
ガタガタと慌ただしく授業の準備をする皆と同様に、僕はロッカーから教科書を取り出した。
事件が起きたのは、ちょうどその時だった。
「俺の財布がない!」
誰かが叫んだ。
声のした方を見れば、普段威張り散らしている永井だった。その顔からは怒りのようなモノが感じられる。現に周りにいる奴らに片っ端から詰め寄っているのだ。
教室内の雰囲気が一気に悪くなり、彼を中心に何やら不穏な気配が漂ってくるようだった。
「授業始まってるぞ、早く席に着け」
だからガラガラと教室のドアを開けて、先生がやって来た事にみんなが安堵したのは言うまでもない。
先生はすぐに異変を察知して、永井から事情を聞きだした。
「誰か知ってるやついるかー?」
建前として全員に聞いてみるが、当然のように名乗り出る者はいない。
先生はボリボリと頭を掻いた後、溜息を吐き出して持ち物検査をする事を宣言した。
「えー!!」
教室の至る所から嫌そうな声が響き渡る。
抜き打ちの持ち物検査なんてされたら、堪ったものではない。財布を盗んでいなくても、見られたくない物の一つや二つは持っているんだから。
とはいえ、ここでは先生がルールなのだ。皆は嫌々ながらも、指示を受けて机や鞄の中にある物を全て机の上に出す。
僕はこっそり学校に持って来ていた漫画を、どうやって隠そうかと必死になって考えていた。
どこか良い場所はないかと顔を上げれば、斜め前の席に座っている井上君と目が合った。その時の彼は、いつもの自信に満ちた表情が消え、まるで何かに怯えているかのように見えた。
そう。永井の財布は、井上君の机の中に入っていたのだ。
「俺はやってない!」
先生に向かって主張する井上君を、周りの皆が冷めた目で見つめていた。その目はまるで道端のゴミを見るかのようだった。
いつもクラスの中心的存在で皆を引っ張っていってくれている井上君が、一瞬にして最下層の地位まで叩き落とされてしまったようだ。
「じゃあどうして、これはお前の机の中に入ってたんだ?」
「そ、それは……」
威圧的に詰め寄る先生に井上君は口を紡ぐ。
「てめぇ、正直に言えや!」
イラつく永井を教師が嗜める。
「本当に俺はやってないんだ。信じてくれ!」
井上君の悲痛な叫びを誰も信じようとはしない。
それはとても憐れで、気の毒に感じた。
確かに財布は井上君の机の中から出て来た。しかし、彼はそんな事をするような奴ではない。僕は震える手を握り締め、勇気を出して叫んだ。
「井上君はやってないと思う!」
「どうしてそう思うんだ?」
先生が面倒くさそうに僕の方を見た。
「だって井上君は、昼休みは皆と一緒にサッカーをしてたから。グラウンドに出るのも一番早かったと思う」
そう、井上君は給食を食べ終わった後、いつもグラウンドの場所取りをする為に誰よりも早く教室を飛び出ていくのだ。もちろん今日だって。
僕の言葉を聞いた皆がザワザワしだす。
「でも、昼休みに盗ったとは限らない」
誰かが呟いて、多くの人がそれに賛同した。
「そうかもしれないけど……」
「けど、なんだ?」
再び僕に視線が集まる。
井上君も縋るような目でこちらを見ている。
「井上君がそんな事するはずない。だって、だって井上君は……」
困っている人がいたら率先して助けてくれる。
皆がやりたがらない仕事だって引き受けてくれる。
井上君がいなければ、このクラスは回らない。
あんなに優しい井上君が財布を盗んだりなんてするはずがない。
「まぁ、たしかに。でもな……」
渋い顔で先生は頭を掻く。
状況証拠は完璧で、井上君が犯人だと証明している。
それでも僕は、井上君はやっていないと心の底から信じていた。
「誰かが机の中に入れたかもしれない」
「もしそうだとして、それを見た奴がいるのか?」
「それは……」
言葉に詰まって下を向いてしまった僕の肩を誰かが叩いた。
「ありがとう。もう良いよ」
振り向いた先にいたのは井上君で、状況はちっとも変わっていないのに、どこかさっぱりとした表情をしていた。
「でも……」
僕の言葉に井上君は首を振った。
「もう十分だ。先生!」
「なんだ?」
「さっきも言いましたけど、僕はやってません。それを証明する事はできないけれど、絶対にやっていないって断言します!信じてください!」
その後、先生が皆から話を聞いて解決しようと努めていた。
でも、信憑性のある証言はこれといって出てこなかった。永井は終始機嫌が悪く、井上君は断固として罪を認めようとはしなかった。
このままではキリがないと判断した先生は、解決を諦めて強引に幕を引く事を選んだようだった。
若干の後味の悪さを残しつつも、教室にはいつもの雰囲気が戻り掛けていた。
井上君を冷たい目で見ていたはずのクラスメイト達も、断固として無実だと言って立ち向かう彼の姿に感銘を受けたようだった。
結局のところ、クラスの大半は井上君の言葉を信じたようだった。
こうして未解決事件が一つ生まれてしまった。
今回諦めてしまった以上、もう決して真実が露わになる事はないだろう。
その日の放課後、部活に向かおうとする僕は井上君に呼び止められた。
「さっきはありがとう」
「大した事じゃないよ」
「謙遜するなって。あそこで加藤君が助けてくれなかったら、俺は大して反論出来なかったと思う。加藤君のおかげで頑張れたんだ。本当にありがとう」
そしてゆっくりと井上君が手を差し出した。
それを掴めという事なのだろう。
なるほど、これが友情なのか。そんな事をぼんやりと考えながら、僕はその手をしっかりと握り締めた。
その日から、僕に親友が出来た。
何にも代えがたい最高の親友だ。
それと同時にクラスでの僕の評価が上がり、堂々と井上君と肩を並べられるようになった。
彼は五月の空気のように爽やかで優しい。
入り混じった制汗剤のような、爽やかさとは程遠い僕とは正反対だ。
本当にいいのだろうかと、思わずにはいられない。
そんなどうしようもない程の罪悪感と共に、この日僕は少しだけ大人になった。
正直者はバカを見るとはよく言ったものだと思う。
だってあの日、落ちていた財布を井上君の物だと勘違いして、彼の机の中に入れたのは僕なのだから。