朝倉さん
「もし、あなたが何もかもが信じられなくなるような境遇に陥った時、その時にあなたの半径5メートル以内にある何か三つのものを信じておきなさい。何も信じないより、幾分マシだわ」
これは母の言葉だ、朝倉さんは唐突に思い出した。オレオレ詐欺に騙され過ぎて、精神的にも肉体的にも、死んでしまった(そんなことが、あっていいのだろうか?いや、あっていいはずがない!)最終的に、朝倉さんの母には11人の架空の息子ができた。その架空の弟たちを、一生許さない。だが、いかに架空の存在に本物の憎悪をぶつければいいのか?当時の朝倉さんにはわからなかった。
そんな母の境遇もあってか、朝倉さんは猜疑心の強い人間になってしまった。若い時分、それはいい方向に働いた。堅実な大学に入学し、堅実な会社に就職し、堅実な夫と結婚して、何不自由のない生活をしていた。子どもはできなかったけれど、夫との10年間の生活は朝倉さんの猜疑心という辛い塩水を薄めてくれる、真水のようなものだった。
「今思うと、それがいけなかった」朝倉さんは後悔していた。
ある日、夫の浮気が発覚した。昔の朝倉さんであれば、もっと早く気付いていたはずだ。ぬるま湯に浸かり過ぎていたのだ。夫の浮気は、一度地震で倒壊した建物がより強固に作られるように、朝倉さんの猜疑心を破壊される以前よりもより強固な建造物にさせた。
詰まる所、朝倉さんは何も信じられなくなった。
夫との離婚が成立した後、朝倉さんはロッキングチェアにかけて、ただぼんやりと外に広がる新宿御苑の風景を眺めていた。抜け殻のような目をして。窓に自分の顔が反射したのを見て「これは、母の眼だ」と思った。
朝倉さんは窓に反射する自分の眼から目を逸らし、視線を泳がせつつ辺りを見回した。
慰謝料の書類、半ダース残ったチョコレート、最近趣味で始めた油絵のセット。
朝倉さんは母の最後の言葉に則して、"金"と"チョコレート"と"絵画"だけを信じていこうと心に決めた。
今年で桑年を迎える朝倉さんだか、その決意は今も固く守っている。
新宿御苑裏の歓声なアパートの一室で、チョコレートを摘みながら一心不乱に絵を描いている。外に出ることはめったになく、出たとしても右を曲がってコンビニに向かうか、左に曲がって世界堂へ画材を買うか、それだけだった。
「新宿にはスーパーがないから不便だ」と思っていたが、最近になって〈まいばすけっと〉なるイオン系のミニスーパーが行きつけのコンビニから二区画先に出来たので、今ではそっちをよく利用する。
朝倉さんは、そんなふうに新宿で孤独な生活をしていたが、なんの不便も感じなかったので、別段その孤独を気にすることはなかった。
ある雪の日のことだった。この日、東京では珍しく積雪が観測されて、新宿にも10センチほど雪が積もった。朝倉さんは画材か食材の買い出し以外で外に出ることはめったになかったのだが、雪の上を歩いてみたいと思って外に出た。朝倉さんは九州出身だったので、今まで雪を見たことがなかった。
「雪の上を歩くということ、それは自分の絵の新しいインスピレーションになるかもしれない」そう考えたのだ。
新宿御苑の沿道積もった雪を踏みしめながら歩いていると、道すがら、小さな少女が震えてしゃがんでいた。少女はこの真冬に、白いワンピースを着ていて、しかも裸足だった。膝元には白い布に包まれた何かを抱えている。"金"と"チョコレート"と"絵画"だけを信じていこうと心に決めた猜疑心の塊である朝倉さんも、さすがに真冬の新宿でコートも羽織らずに震えている少女を、看過するわけにはいかなかった。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
少女は顔を上げた。朝倉さんはドキッとした。なんて鋭い眼をするんだ、と驚いた。まだ年増もいかない少女が、こんなにも他人を警戒する目をするとは、思いもしなかった。
「お母さんはどうしたの?迷子なの?」
朝倉さんはここ十数年の孤独の生活故にほとんど忘れかけていた精一杯の他者への優しさを込めていった。だが、少女は答えない。
「こんな寒いのに、そんな格好で外に出てたら風邪を引くよ」
「いいの」少女はとても小さな声で言った。
「え?」
「いいの、わたし、風邪引いても、いいの」
朝倉さんは驚いた。この子は、心配されたくて、わざと風邪を引こうとしているのだろうか?
「それはいけない。とりあえず、私の部屋に来なさい。すぐ近くだから。ココアを作ってあげる」
「ココア・・・」少女の身体がピクっと反応した。
「チョコレートも沢山あるわよ。だから風邪を引きたいとか言ってないで、私のところに来なさい」
「チョコレート・・・ケーキ」
「ケーキもあるわよ」
昨日買っておいて食べなかった半額のチーズケーキがあることを、思い出した。
「うん、連れてって」
少女は立ち上がり、トボトボと朝倉さんについていった。腕にはしっかり白い布に包まれた何かを抱えている。
朝倉さんは家に着くと、牛乳を鍋に入れて、火にかけた。少女は部屋をつぶさに眺めながら佇んでいた。そして、部屋の隅でさっき道端で出会ったときと同じ姿勢でしゃがんだ。
「そんな隅っこに座ってないで、あそこにかけなさい」
朝倉さんは少女をロッキングチェアに座るように言った。少女は頷きもせず、ロッキングチェアに向かって。ロッキングチェアの上でも、少女はしゃがんだままだった。
朝倉さんはあたたかいココアが入ったマグカップを少女に渡した。少女はマグカップの取っ手を使わずに、両手でマグを受けとって飲んだ。朝倉さんはサイドテーブルにチョコレートとチーズケーキを置いた。
「好きなだけ食べなさい」
そう朝倉さんが言うと、少女はこれまで出会った中で最大の勢いで身体を起こしチーズケーキに食らいついた。その勢いで、白い布に包まれていたものの中身が少し垣間みれた。それは、頭蓋骨だった。紛うことなく、人間の。
「あなた、、、、どうしてそんな、、、、」
"どこからそんなものを持ってきたの!?"
朝倉さんは少女に叱責してどこから持ち出したのか問いただそうとした。しかし、止めた。
ロッキングチェア、ココア、チーズケーキ、白いワンピースの少女、風に揺れるカーテン、新宿御苑の風景、そして頭蓋骨、、、これらのすべてが、完璧なパースの中で、私の部屋というフレームの中にある。私だけの、現実の絵画だった。
朝倉さんはいても立ってもいられなくなって、キャンバスを用意して、絵を描き始めた。この目の前の少女を、風景を、私の手で描くこと。このために今まで生きてきたのだ。そう、心から思った。
朝倉さんは一心不乱に筆を走らせた。時間の感覚が曖昧になっていく。何度か、夜が訪れたような気がするのだが、朝倉さんの目には窓からの日の光に照らされた少女のイメージがあまりにも克明に刻みこまれていたため、夜の闇をイメージがかき消してしまった。眠りさえ、今の朝倉さんに近寄る隙がなかった。
「ねぇ、このガイコツ、誰だと思う?」少女は言った。
朝倉さんは驚いた。今までほとんど無口だった少女が明瞭な言葉を発したからではない。この少女の声が、現実の声なのか、それともイメージの声なのか、判然としなさ過ぎて驚いたのだ。
「わからないわ。だれかしらね?」
朝倉さんは答えた。現実とイメージの狭間の声で。
「あなたがよく知ってる人よ」
少女は少女らしからぬ不敵な笑みを以て答えた。
その笑みを見て、朝倉さんそれが誰のものであるか、わかった。
「あなたが望んだのよ」
「何を?」
「死を」
「・・・そんなことはないわ」
「うそよ。そんなことはないわ。だってあなた言ってたじゃない。あの時、、、」
あの時、その時、、、、どの時?
わからないふりをしていたが、
そんなことはわかりきっていた。
一度だけ抱いた。
猜疑ではなく、殺意を。
それは夫に対してではなかった。
世界を花のように愛して、疑うことを知らない、あの女。
それらはすべてポオズだった。
私に背を向けた時、粛々としていたあの女の口元が醜く歪んだその刹那を、一瞬たりとも忘れたことはない。
「そう、あの女、死んだのね」
朝倉さんは高笑いをした。
自分の高笑いが部屋に残響する。
その残響が遠のいていくに比例して、朝倉さんを繋ぎ止めている何かが、古ボケた壁掛けスナップ写真のようにパラパラと剥がれていった。
・・・ツンツン
・・・ツンツン
少女のツンツンで朝倉さんは目を覚ました。
日はすっかり沈んでいて、夕日の淡い赤を残して部屋はすっかり暗くなっていた。
「おばぁさん、大丈夫?」
「あら、私ったら、眠っていたのね」
「ココア、チーズケーキ、チョコレート、ありがとう」少女は最初に会った時より幾分はっきりとした言葉を発した。
「えぇ、いいのよ」
「お母さん、そろそろ戻ってくると思うから、もう、行くね」
「そう、、、わかったわ」
朝倉さんはそう言うと、涙が出てきそうになった。
少女は朝倉さんをなだめるように膝に手を添えた。
「また、くるよ」
「えぇ、また来てね。今度はもっといいケーキを買って待ってるわ」
「じゃあ」
少女は軽やかな足取りで部屋を出て行った。最後、ドアの前でくるっと振り向いて、笑った。玄関の扉から漏れる夕焼けの光に照らされて、眩しかった。
少女が出て行った後後ろを振り返った。描きかけの絵、空っぽのマグカップとデザートプレート、ロッキングチェアの上でゆらゆらと揺れている頭蓋骨。
「なんて、がらんどうな部屋だ」
少女がいなくなった朝倉さんの部屋には、緩やかな紅い死の予兆が漂っていた。