砂の像
小学6年という忙しい時期に圧児は転入したため、残されたわずか12か月という期間で、未来に残る思い出をつくり、楽しい時間を過ごさなければ、と考えていた。
近い将来、ああそういえば圧児とかいう転入生なんかいたな、ええ覚えてない、ううん印象には残っていないな、などと言われたくないので、クラスに深く溶け込もう、と考えていた。
圧児が編入された6年3組の児童たちはすごく一体感があって、仲がよくて、何事も行動をともにした。
授業態度も申し分なかった。答えを知っているひと手をあげて! と先生が言えば、クラスのみんなが声を出して手を上げた。当てられた子が正解すると拍手が飛び、間違えると笑いと反省があった。そこにはある秩序めいたものが存在していた。
20代後半くらいの女性の担任はよく、連帯責任、という言葉を使った。連帯で負担する責任、と辞書を引いてわかったのだけど、そのときは言葉の意味は知らないけれど、周りの反応でなんとなくは理解はできた。
ある日、ひとりの児童が宿題を忘れてきた。
「邦介くんはあれほど忘れるなと忠告した宿題を忘れてきました。この責任は誰にあるのでしょうか?」という担任の意見に、
「邦介くんのミスは、みんなの責任です!」
圧児は一糸乱れぬハモリに驚き、そして同時に理解した。
このクラスのみんなは、連帯責任なんだ。
そのときの授業は、全員が直立したまま続けられた。
不思議なことはそれではなくて、立たされている児童みんなが、どこか、嬉しそうにしていることだった。
団結している中にぽっと出の自分が迎え入れられるのか、すごく不安だったけれど、明るく元気に接すれば、問題ないと圧児は考えていた。しかしそれは、ものすごく甘い作戦だった。
彼らの団結力はとてつもなかった。完全に部外者扱いされ、話しかけても、誰も反応を示さなかったのだ。ゲーム大会のチケットを2枚手に入れたんだいっしょに行こう、も無視された。
卒業までの1年間、もしもこのまま無視をされつづけたら、ボクの記憶には小学6年の思い出はトラウマとなって残るだろう。
それだけはどうしても避けたかった。
焦りすぎなのだ、と冷静さを取り戻し、圧児は無理して仲間に入ろうとせず、もっとゆっくり観察することにした。6年3組自体を理解しようと試みた。するとどうだ、すぐに流れをつかむことが出来た。
海や山、お祭りやゲームセンター、映画に行こうと誘っても、クラスのみんなはあるひとにちらりと視線を送ることに気づいたのだ。
きりりとした眉毛で背の高い健徳くん、みんなからはケンちゃんと呼ばれている男の子だった。
数日の間、彼を観察していると、すぐにこのクラスのルールを知った。
クラスのみんなは、彼を恐れているのか信頼しているのかわからないけれど、何事にも彼の了解を得ているようなのだ。
視線が合えばアウト。笑顔が浮かべばOK。眉をかいたらアウト。くち端をなでたらOK。他にも細かいルールはあるのだろうけれど、圧児にはそれだけでじゅうぶんだった。
翌朝、ホームルーム前に、圧児はみんなの視線を背中に感じながら、健徳の前に立った。
「ボクは悪い人間じゃない。仲間に入れてほしい!」
「悪い人間ではない、という証拠がほしい」
クラスのみんながうんうんと頷く姿が、圧児の視線の片隅にうつる。
「試験を受ければ、悪い人間ではない証拠を提示できる」
健徳は天井をあおぎ、そのまま顔を横に向けて周囲の意見を求める。しかし、くちを開く者はいない。
「わかった、その試験とやらを考えておくよ。でも、それまでお前は、よそから来た部外者だ」
試験を待ち続けて数日が過ぎた。その間、連帯責任という言葉は、圧児にだけは当てはまらなかった。
その疎外感が圧児には耐えられなかった。
孤独というのは人間にとってあってはならない現象だ。家族がいなくても職場の仲間、古くからの、そして新しく出来た親友たちがいる。仕事を失っても友を失っても、家族がいる。友達と仲違いしても新しい友達が出来る。そうやって人間はかならず誰かとともに人生を送っている。
決して、ひとりでは生きられない生物、それが、人間。
家に帰れば圧児にはお父さんとお母さんが待っていた。だが、彼の場合、残された小学校人生を、家族ではなくてクラスに求めていた。そのため、孤独を苦しんだのだ。このままだと修学旅行も年に一度のお祭りも運動会もひとりで過ごさなければならない、それだけは耐えられない。
ある雨の日の放課後、圧児は健徳のあとをつけることにした。ふたりっきりになったとき、どうして自分を迎え入れてくれないのかをただすために……。
靴箱の前で、靴を履き換えたとき、健徳に話しかける者が現れた。同じクラスの邦介だった。健徳にいつもくっついている腰ぎんちゃくだ。
「ケンちゃん、ナクゾウって、聞いたことある?」
「妹が、これ以上やったら泣いちゃうよ、はあるけど、これ以上したら泣くぞう、はないな」
「違う違う。泣くぞう、じゃなくて、泣く象。例の像が涙を流してるらしいんだよ」
例の像……涙を流す像……圧児にはなんのことだかわからなかったけれど、健徳の顔色を見て、ただごとではないと知った。なぜなら、眼球をむき出し、眼玉が飛び出さんばかりだったのだから。
彼らが駆けだす場所に、その謎の答えがあるはずだ。
圧児は追跡した。
運動場の端にある砂場に、それはあった。
大日如来かお釈迦様か、薬師如来か阿弥陀如来かわからないけれど、観世音菩薩でないことは確か、腕の数は2本で、42本もない。3メートルほどの砂でつくられた仏様。
しかし、おそろしく精巧につくられていた。多面多臂ではなくて一面ニ(に)臂。(面は顔、臂とは腕をさす)長指相(指が長い)だし、額の中央にある突起物はなんとしっかりと右回りしている。ほくろではない。この突起を白毫相と呼ぶのだが、毛の塊なのだ。そこまで精巧に作られている砂の像。おそらく、くちを開けさせたら刃は40本あり、舌は薄くて大きいのだろう。あまりにも美しく、あまりにも神々しく、そして、あまりにも恐ろしかった。
砂の像には雨にうたれないようにテントがはられ、その中で座禅を組んでいた。両手を腰の前で水平に置いた平手を組み合わせた形……定印だ。
仏の世界が大好きで、いろいろ勉強していた圧児だからこそ、そのすばらしさに気づくことが出来た。小学校の運動場の一角に、なぜ、このようなものがあるのか、しばらく呆然と見入っていた圧児だったが、あることで我に返ることが出来た。
そう……像が、涙を流していたのだ。
木の陰から出て、もっと間近で見たい、という衝動を圧徳は押し殺した。
「誰だよ、こんないたずらをしたの!」
健徳が叫んだ。
「し、知らないよ。気づいたらこうなっていたんだから」
「全員、呼べ」
邦介は携帯電話を取り出し、すぐに電話をかけた。しばらくして続々とクラスメートたちが集まり出した。ひとりも欠けていない。驚くべき団結力。全員が集合したとき、健徳が言う。
「見ろ。像が泣いている」
ざわめきが起きる。
「オレたちが丹精込めてつくった像が、こうやって泣いている。想いがこもり、命を得て泣いている可能性もあるけど、誰かのいたずら、ということも考えられる。身に覚えのあるひとは、いるか?」
みんな黙っている。
「もしもこの中にいたずらをした者がいるのなら、それは連帯責任としてみんなが罰を受けなければならない。それはそれで仕方のないことだし、当然のことだし、苦にも思わない。ただ、オレは知りたい。なぜこのようなことをしたのか。その理由を」
みんなうつむいたままだった。そこで、圧児が姿を見せ、手を上げた。
「ボクがずっと見張って犯人を見つけ出す。これが試験で、どうかな?」
雨がつづいた。しとしと、ではなくてどざあああ、だった。それでも圧児は放課後にひとり、ずっと見張りを続けた。いく日も……いく日も……。
そんな雨が日常的になったある日、担任の先生が砂の像の前にやってきた。警戒し、緊張する圧児だったが、先生は象ではなくて、木の陰にひそんでいる圧児のもとへやってきた。
「圧児くんは、この像の門番かな?」
「……」
先生は圧児を傘の中に入れ、ずぶぬれになっている彼にハンドタオルを手渡した。
「あんまり無理をすると来週の綱引き大会に出られないぞ」
「いいよ、今のままでは、参加したくないから」
先生は顔を上げ、大きな仏様を見上げた。
「この像、私の自慢なんだ。だって、私のクラスのみんなが必死になってつくったんですもの。健徳くんに聞いたのよ、どうしてこれを作ったのって。そうしたらね、こう返してきたの。『6年3組の思い出を、形にしたい』だって。ただ通過して行くだけの年にしたくない、そう思っている彼らに、先生、感動しちゃった」
圧児は、自分の考えと一致していることに驚いた。自分だけじゃなかった。この年、この一年は、いずれ過去になってしまうけれど、ただの過去にはしたくない。それを健徳……いや、健徳たち6年3組の生徒みんなが、考えていたのだ。
「像を守る気持ちはすごいとおもうけど、あまり先生を心配させないでね」
「どういうこと?」
圧児が質問すると、先生は顔をくもらせた。
「うちのクラスで、失踪した子がいるの。真彩というかわいらしい女の子」
「行方不明、ですか。どうして?」
「さあ、知らないわ。警察も必死に捜索しているんだけど、もう1か月になる。だから、圧児くんが変なひとに誘拐されないか心配なのよ」
「大丈夫だよ、ボク、男だから」
そうは言ったものの、圧児の心には不安が残った。
それからというもの、放課後の見張りには恐怖心も混ざり始めた。ちょっとした物音に敏感に反応したり、近づく者がいれば必要以上に警戒した。それも、やまない雨に打たれながら……。
翌日に綱引き大会を迎えるその日も、雨だった。
いつものように木の陰に身をひそめ、見張りをしている圧児の前に、健徳が姿を現した。その表情には感嘆とも取れる色が浮かんでいた。
「出てこいよ」
素直に従う圧児。隣に来るのを待ってから、健徳はくちを開いた。
「また……泣いている」
見上げると、仏像の細い眼から、たらりたらりと流れ落ちる涙。圧児は驚きを隠せなかった。誰も、像には近づいていない。つまりこれは……。
「誰も接触しなかったんだよな?」
「うん。間違いなく、ここには来ていない」
「つまりこれは、いたずらなんかじゃない、ということだ」
健徳はかたかたと震えていた。心なしか、蒼ざめているようにも見える。じっと健徳の顔を見つめていると、ふいに彼は振り返り、圧児はどきりとした。それを隠すかのように早口で圧児は質問した。
「不思議なことはそれだけじゃないんだけど、どうして砂でつくられているのに涙の水で崩れないんだろう」
「ただの砂じゃないからさ」当たり前だろ、と言わんばかりの顔で答える健徳。「石灰石や粘土を混ぜているんだ。セメントほど強固じゃないけど、それに近いのさ。だって、砂でつくったらすぐに崩れて、未来にオレたちの痕跡を残せないじゃないか」
へえ、と圧児が感心していると、
「明日の綱引き大会、いっしょにがんばろうな、圧児」
その言葉を聞いて、圧児は砂の像と同じように、泣いた。
ずっと続いていた空がウソのように晴れ渡った。
学校の運動場に大きな綱が東西に延びている。一般客も周囲に陣取り軽い宴会状態だった。東が勝てば豊作、西が勝てば都市の発展につながる、らしい。
低学年の踊り、組体操など、いろいろな催しが執り行われ、昼食をはさみ、いよいよ大イベントである綱引き大会が始まる、というその瞬間、暗雲たちこめ、これまでの天気に怒りをぶつけるかのような大雨が降りそそいだ。
数メートル先も見渡せない土砂降りだった。
圧児たち6年3組の生徒たちはみんな砂の像の下に集まった。鉛玉のような雨がテントの屋根を叩いている。女子たちは身を寄せ合い、男子は憎らしい空をにらんでいた。そんなとき、邦介が大声を出した。
「像が、像が壊れている!」
見上げると、眼の下に2本の亀裂が走っていた。ちょうど涙が通る道だ。
「誰だよ、こんなことしたの!」
健徳も叫ぶ。
女子たちがくちを閉ざし、おそろしい形相に変化していることに圧児は気づいた。女子だけじゃない。静かに泣いている男子たちもいる。
「綱引きどころじゃない。修理しないと」
健徳の提案に全員がうなずく。
雨の音が大きくなった気がした。いや、気のせいなんかじゃなくて、雨脚はさらに激しくなっている。
健徳が生徒のひとりの肩に乗り、腕を伸ばしたときだった。
像の胸部がぼろぼろと崩れ、中から、黒い腕が飛び出した。
湧きあがる悲鳴。黙れ、と飛び交う怒声。
黒い腕は健徳を捕まえようとしているかのように彼に向かって行った。バランスを崩し、倒れ落ちる健徳。肩を貸していた生徒はおしりをすりながら後ずさり、健徳は完全に怯えきって動けずにいた。そんな彼に覆いかぶさる黒い物体。どろどろに溶けた皮膚。べたべたの黒い髪。ものすごい異臭。細身のその物体は、女の子だった。
わあああああああ!
ついに健徳が発狂した。振りほどこうともがくが、ぞぶぞぶと女の子の体内に腕がめり込むだけだった。
「お前が悪いんだろ! オレの告白を受け入れなかった罰だ。それに、ここにいる全員で、お前を埋めたんだから、オレだけを責めるなよ!」
危ない! 誰かが叫んだ。
像の頭部が落下し、ぐちゃり――
女の子の後頭部をつぶし、そのまま健徳の顔も、破壊した。
「ここにいたのね。よかった無事で。綱引き大会は延期になったわ。今日はこのまま解散することになったから、はやく親のところに戻りなさ――」
先生は横たわる健徳と女の子を見下ろしながら動きをとめた。
「け、警察に――」
女子たちが、先生の足をおさえた。圧児は邦介とともに像の頭を持ち上げ、そのまま先生の頭部に振り下ろした。
連帯責任連帯責任連帯責任連帯責任……。
圧児たちは、口ぐちにそうつぶやきながら、砂を積み始めた。
了