5‐16 愛しき人に時間を(2)
息を吐く暇もなかった。
陽が暮れゆく中、トルとルーズニルは三つの頭を持つ巨大な犬、ガルームを相手に悪戦苦闘していた。
ガルームは絶え間なく二人を襲い、隙さえあれば骨をも簡単に砕きそうな鋭い歯を使って噛みつこうとしてくる。
トルたちの攻め方といえば、片方がガルームの気を引きつけ、その間にもう片方が攻撃をするという、非常に単純なものだった。どちらの立場になるかは、その時々の状況によって判断する。
ルーズニルの動きは洗練されすぎているため、融通が効きにくいところもあった。三つの頭を持つという、今まで対峙したことのないモンスターだったためか、いつもより動きにキレはない。だが持ち前の頭の回転の速さを利用し、時間が経つに連れて、少しずつ順応していた。
トルは慌ただしく動き、相手の攻撃をどうにかかわしていた。ムスヘイム領からここまで移動している間に相当数のモンスターと対峙したおかげだろう。
ガルームの背中に乗ったトルは、ウォーハンマーを首元の一つに振りおろす。
それに気付いた他の頭は、すぐさまトルに牙を向けた。急いで背中から飛び降りたため難は逃れたが、傷一つ付けられない。
ガルームから離れて、拳を握りしめているルーズニルの横に来る。彼は肩を激しく上下させていた。
「なかなか傷を与えられないね。こちらが攻撃を加えようとすると、三つの顔が四方から迫ってくる」
「一瞬で一匹の首を真二つにするくらいの勢いでやる必要があるな」
「そうだね。でも自分たちだけでは、その勢いも威力も不足しているとと思うよ。……どういう作戦を立てるにしても、このモンスターに二人だけで挑むのは、少々荷が重いね」
ルーズニルの本音が思わず呟かれる。普段弱気な発言をしない彼にとっては非常に珍しい。言い方を変えれば、それだけ切羽詰まっているということだ。
トルは離れた場所で戦っている、紺色の髪の女性に目をやった。
その時、激しい光がその場を包んだ。トルはとっさに目を閉じる。
精霊召喚同士がぶつかった衝撃らしい。光が消えたのと同時に、水しぶきが飛び散った。頬に冷たい水がかかり、顔を拭う。ルーズニルも似た行動をしている。
しかし、ガルームは激しい光も水しぶきもまったく影響を受けず、トルたちのすぐ目の前まで近づいていた。
ルーズニルが僅かであるが風を起こして牽制をかけ、その場から飛び退く。トルもその隙に逃げる。
メリッグたちの召喚合戦にも気を付けなければならない。予想以上に気を使う、かなり厳しい戦いになりそうだとトルは思った。
召喚の能力に関しては、それなりにある方だとメリッグは自負していた。
たいていの人は初めて物体化をするまでに時間がかかる。だが、メリッグは自分専用の魔宝珠を得てから、即座に水晶玉を召喚できた。水の精霊に関しても馴染むのにそう時間はかからなかった。
だが、目の前にいる女性はさらに上をいっている。
「メリッグさんって、意外と弱いんですね」
ヘラは多数の氷柱を左右に浮かび上がらせながら、微笑んでいる。彼女は無傷であるが、すでにメリッグは左腕を負傷していた。血が地面に静かに垂れる。精一杯の抵抗として、メリッグは笑みを浮かべた。
「貴女は変わらず元気なことで安心したわ」
「そう思うなんて、おめでたいことで。私がどんな思いで七年間過ごしてきたか知らないくせに!」
右側にあった氷柱をメリッグに先端を向けて飛ばしてくる。それを小さな氷の壁で防御をした。だが一本だけ防ぎきれず、左足をかすった。その些細な怪我の積み重ねが、最終的には致命的な状況に追い詰められる要因になる。
「でも、メリッグさんが生きていてくれてよかったです。これで復讐ができるもの!」
「勘違いしていない? 村がなくなった原因の一つは貴女にもあるのよ。どうしてバルエールさんのことをあの男たちに話したのかしら?」
話をすることでヘラの気を逸らせようとした。精霊を召喚して何か物事を起こすときは、集中力が重要になってくる。乱してしまえば思うように召喚することはできない。
精霊を召喚するための魔力はヘラの方が上なのだから、勝つためには他の要因を使って駆け引きをする必要があった。
ヘラは溜息を吐きながら、軽く髪をかきあげる。
「村のことを考えれば、一刻も早く報告をする必要があったと思いませんか? だって私はバルエールという男をよく知らないんですもの。優しい言葉を出していて、実は村を陥れようとしている人だったかもしれない。現に柄の悪い男に追われていたじゃないですか」
「あれは相手側が、バルエールさんを無理矢理捕まえようとしたからでしょう。彼は悪くない。……ヘラ、時には人を信用することも大切よ」
「メリッグさん、信じればその人を救えるとでも思っているのですか?」
ヘラが冷ややかな目で見てきた。メリッグはとっさに感情のままに反論しようとしたが、残っていた理性が口を閉じさせた。
乱そうと思ったはずが、逆にメリッグの心が乱されてしまう。こちらが召喚していた氷柱は、氷の状態を保つことができずに溶けていた。
(この戦いはよほど力を持った人が介入しない限り、お互いの精神力を削りあう戦いになるかもしれない)
攻撃に余裕がある分、ヘラの発言にはメリッグを挑発する言葉がたくさん含まれていた。それにまんまとはまるようでは、体力だけでなく精神力も先に底を尽きる。
「――信じれば、その人が思っている心の奥底が見えるかもしれないでしょう」
「メリッグさんはまだそんなことを言うのですか? 知っていますよね、皆既月食の時の扉を開く儀式。闇を信じていたために、鍵と光はどうなりました?」
「あの子たちは物事の本質を見なかっただけよ。信じる云々の問題ではないわ」
口ではそう言うが、ヘラの言い分はもっともである。初めからロカセナに対して多少なりとも不信感を抱いていれば、フリートはリディスを彼に引き渡しはしなかっただろう。
信じていたからこそ、見えなかったことなのか。
それとも決められていた運命だからこそ、見ようとも思わなかったのか――。
段々と陽が沈みゆく中、ヘラは浮かんでいる氷の塊を、鋭い針が多数突き刺さった物体に変化させた。それは彼女が手を振る度に、いくつも作られていく。刺さればひとたまりもない鋭さだ。
「休憩は終わりです。これらから逃げきれれば、また話をしてくださって構いませんよ」
にこりと微笑むヘラ。その微笑みに何人もの男が騙された。だがバルエールは見向きもしなかった。
ヘラがゆっくり手を上げる。メリッグは集中して、自分の周りに薄い氷の膜を張った。そしてヘラが手をおろした瞬間、猛獣すら怯える針状の氷の塊が飛んできた。
戦闘が進むにつれて、トルは目の前にいるガルームだけでなく、周りから寄ってくるモンスターも対処しなければならない状況になっていた。
能力自体は高くないため、隙を見て一発で急所を突けば、即座に還すことができる。しかし、数が多いのが問題だった。還しても、還しても、数は減らない。根本を突かなければ、おそらく完全に消すのは無理だ。
「ルーズニル、どうすればいいんだ!? どこに親玉がいるんだ!?」
絶え間なく動いているルーズニルに向けてトルは大声を発する。
「親玉か。……あえて言うのなら、扉じゃないかな?」
「はあ?」
同時に別々の相手の首と心臓を突いて還す。そしてモンスターが迫ってくるほんの少しの間に、呼吸を整えつつ視線を合わせた。
「トルも見たんだろう? モンスターで溢れている世界を。その状況がこれってことだよ」
「いや、これはさすがに極端に多すぎるぜ。ヘラって女が引き寄せているとしか思えねぇ」
「そうだね。でも、根本は扉だとは思わないかい?」
これから夜が訪れる時間帯、遠い空に浮かんでいる扉を肉眼で見ることは不可能だが、昼間は何かが浮かんでいるような雰囲気はあった。ドラシル半島のどこにいても扉は見ることができるようだ。
トルは視線をその方向からルーズニルに戻す。
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
「――すべて還すしかない」
トルは耳を疑った。はっきりとした、低い声。優しく穏やかな声の持ち主のルーズニルではなかった。
目の前に近づいてきたモンスターたちが、あっという間に還っていく。その先から現れた黒髪の青年を見て、トルは頬を緩ました。
「フリート!」
「待たせたな、トル。お前、モンスターを還すのが、だいぶ上手くなったじゃねえか」
フリートは無駄のない動きでバスタードソードを振りながら、近寄ってくるモンスターを還していく。その動きに思わず見入りそうになった。
トルは自分の傍に寄ってくる気配を察すると、ウォーハンマーを右斜め後ろに殴打した。寄っていたモンスターの頭部に当たり、反撃されることなく還っていく。近寄ってくるモンスター、そして遠くから様子を伺っている三つの頭のガルームに注意を払いつつ、トルはフリートに駆け寄った。
「大丈夫なのか!? まだ怪我が治っていないって聞いたぞ!」
「傷は癒えていない。だが、そんな状況でも剣を握らなければならない時はある」
「……誰かを護るっていうやつか?」
「どうだろうな」
フリートは軽く笑いながら、適当に流した。
「そうだ、リディスはどうした!?」
「あいつは水の魔宝珠の結界に託してきた。あれはかなり強力だ。それと俺が渡したものも合わせれば、よほどの力がない限り結界は破れない。まあ、ここでこいつらを還せば、その心配はないだろう」
「簡単に言うなよ。このガルームってやつ、まずほとんど近づけねえぞ」
ただでさえ戦闘能力が高いモンスター、さらには頭が三つあるというのが非常に厄介なところだ。
黒い瞳は目の前にいるガルームへ向けられていた。お互い睨み合いながら、間を保つ。
「……メリッグはヘラと交戦中か」
フリートは少し離れた場所で激しく水の魔法を召喚し合っている、女性たちの方を一瞥する。
「ああ。ルーズニルが言うには、俺たちだけでこいつを還す必要があるって。フリートは何かいい案でもあるか?」
バスタードソードで寄ってくるモンスターを次々と還し、息が上がった状態でフリートは言葉を発した。
「……方法はある。俺があいつを引きつけるから、その間に二人で攻撃しろ」
トルは持っていた武器を落としそうになった。自信満々な声を発しているが、フリートの額には既にうっすらと汗が浮かんでいる。その上いつもより肩を激しく上下させていた。体力が戻っていない証拠だ。
「おいおい、その状態であの相手に一人でどうにかできるわけねえって!」
「逆を言えば、それくらいの気概を持ってやらないと、還せねえってことだ!」
フリートは大声で言い、大きく一歩踏み出した。
ルーズニルがトルたちの近くに来ると、眼鏡の奥にある瞳で飛び出しそうなフリートを見据えた。
「フリート君、それは本気で言っているのかい?」
風の精霊を酷使しすぎた反動か、ルーズニルの傍にいる精霊の気配は小さくなっていた。
「はい。二人になら、俺の背中を預けてもいいと思っています」
「あの相手に一人で挑むなんて、無謀だと思わないの?」
「……たとえ無謀な行為であっても、俺は死ぬまでこの場に踏み止まり続けます」
フリートの周りから、トルやルーズニルが加護を受けている以外の精霊の気配が感じられた。トルがムスヘイム領で別れた時は、加護がないただの剣士だったはずである。数週間会わなかっただけで、彼を取り巻く状況は変わったようだ。
「トルにルーズニルさん、どれくらい時間を稼げばいい? 急所を狙うなら、まずは足の腱などを切ったりして、動きを封じる方がいい。それをどれくらいの時間でできる?」
「他のモンスターとの兼ね合いもあるし、はっきりとは言い切れない。けど陽が落ちきる前には必ず」
ルーズニルは暗くなり始めた空を見渡している。日没までそう時間はないが、おそらくそれくらい短時間で攻めなければ勝ち目はない。
「フリート、本当に大丈夫なのか?」
「覚悟はできている。俺はここであいつを倒す」
切っ先を下げていたバスタードソードを再び持ち上げる。
「あとは――任せた」
何かを悟った横顔を見て、トルはもう一度だけ声をかけようとした。
だが、それを伝える前に夕陽に照らされたフリートは声を発しながら、モンスターの群の先にいるガルームに突っ込んでいった。ガルームは鋭い牙を出して、彼を出迎えた。