5‐15 愛しき人に時間を(1)
水の魔宝珠がある場所は意外と近く、村から少し離れたところにある小さな祠の中にあった。かつてはプロフェート村の中心部にあったが、村の消失事件後にその祠の中に移動していたらしい。誰の手によるのかはわかっておらず、宝珠が勝手に動いたという噂もある。
力がない多数の村民を護衛しながら移動させることは、フリートと多少剣の扱いに覚えがある青年の二人だけでは、なかなか大変だった。
まず三十人は軽く超える団体を隅から隅まで見なければならない。出遅れている者やはぐれた者はいないかなど、常に目を光らせる必要がある。
同時に近寄ってくるモンスターにも警戒する必要があった。フリートにとってはすぐに還せる、弱い相手だが、村民にとっては牙を向けられれば脅威となる存在。現れた瞬間に即還さなければ、怪我を負ったり、精神的な傷を負ってしまう可能性がある。
村民たちは結宝珠を持って移動していたが、効力が弱いため、必然的にモンスターたちが寄ってきていた。
フリートは召喚したバスタードソードを握り、近寄ってくるモンスターを斬って還す。単調な作業だが、治りかけた傷を持っている人間には手頃な運動でもあった。
「凄いな、動きに無駄がない」
エレリオが感嘆の声を漏らす。フリートは軽く返事をした。
「ありがとうございます。ですが、これでもだいぶ動きは悪くなっている方です」
「今の実力でその台詞か。騎士団の中ではかなりの剣の使い手だったんじゃないか?」
「それに関してはわかりませんが、たとえ剣だけが上手くても、戦闘で勝てるとは限りません」
ただの試合であれば、純粋な剣技のみで充分だ。
だが外に出れば、剣だけで終わらないことが多々ある。時には手や足を使い、時には目潰しをし、そして時には――精神的な傷を与えて、相手の動きを鈍らせることも立派な戦法だ。
再び相見える銀髪の剣士との戦闘時に、今の剣技だけで勝つことは難しい。
何か他に秀でた能力を身に付けるべきなのか。
それか何を言われても揺るがない信念を持つことが必要なのか――。
あと少しで祠に辿り着くというところで、突然羽を生やしたモンスターが勢いよく後方から迫ってきた。列の真ん中にいたフリートは発見するのが遅れ、慌てて駆け戻る。
到着する前に、一番後ろで少女と共に歩いていた女性に鋭い爪が向けられた。
「危ない!」
フリートの耳に芯が通った聞き慣れた声が飛び込んできた。
次の瞬間――鮮血が舞った。
血が地面に飛び散る。女性たちをかばった娘は左腕を抉られ、地面にうずくまる。
「こいつ!」
すぐさまフリートは攻撃をしたモンスターにあらん限りの力を使って羽根を切り落とし、喉を突き刺した。モンスターは呻き声すら発さずに還っていく。
剣についた血を振り払うと、フリートはエレリオに支えられている金髪の娘に近寄った。
「大丈夫か!?」
「……はい。少しかすっただけですよ」
リディスは微笑みながら弱々しい声で返した。細い腕から血が流れ続けている。
「止血すれば大丈夫だ。だがここにいてはまた襲われる可能性がある。祠まで歩けるか?」
「……歩けます」
リディスは立ち上がり、エレリオの肩に捕まって歩き出す。小さな背中を見て、フリートは唇を噛みしめた。
「俺は――誰も護れないのか?」
祠まで僅かな距離だったため、その後はモンスターと遭遇することなく、入り込むことができた。
小さな祠の中は村民たちでいっぱいになる。通路は人が三人座れば通り抜けるのが困難なほどの狭さだ。薄暗い中、人々は光源である光宝珠を囲みながら、一時の安堵の息を吐いている。
入り口付近には大量に結宝珠を置いて、少しでも結界の足しになるようにした。リディスはエレリオに連れられて、祠の中程にある広間に座らされる。そして女医は膨れ上がったリュックから、患部を洗うための水、止血用の布などを取り出し、治療を始めた。
「まったく無茶をして。これがもっと傷が深かったり、顔にでもやられていたらどうするつもりだったんだ」
「すみません。気が付いたら体が勝手に動いていて……」
「無意識か、それとも本能か。どちらにしても今の状態ではあまり感心しないな。ただの町娘があのような行動に出るのは」
患部を布で結んで固定する。リディスはその言葉を受けて首を傾げた。
「今の私は駄目ということは、いつの私ならいいんですか?」
片付けていたエレリオは手を動かすのをやめて、そっと頭を撫でた。
「……すまん、出す言葉を間違えた。どんな状況になってもリディスはリディスだ。気にするな」
それだけ伝えると再び作業に戻る。エレリオにとって、患者の過去に触れそうになったことは失言だった。
リディスはまだ聞きたそうな顔をしていたが、背中を向けられてしまい、聞けずにいた。視線がきょろきょろ動いたかと思うと、腕を組んで、壁に寄りかかっているフリートと視線が合った。視線が合うなり、二人は視線を逸らす。だが逸らされただけで、リディスが意図的にフリートの傍から離れようとはしなかった。
「……あの」
近くから頼りない声が聞こえてくる。視線を前に向けると、緑色の瞳がフリートを見つめていた。
「なんだ?」
「……先程はありがとうございました。強いんですね、シグムンドさんは」
思いもよらず穏やかな表情でお礼を言われ、フリートは返す言葉がすぐに出てこなかった。
自分の反応が遅かったために、怪我を負わせてしまったことに対して負い目を感じていたが、その言葉だけで救われたような気がした。
リディスから発せられる言葉はフリートを励まし、叱咤し、そして時には背中を押してくれる要因となる。
たとえ記憶を失っていようが、それは関係なかった。
「リディス――」
思い切って声をかけようとしたが突然大地が激しく揺れた。天井からは振動によって土がこぼれ落ちる。
「ちょっと、いったい何よ!」
「揺れているわ。この中にいても大丈夫なの!?」
どこからともなく飛び交う悲鳴や叫び声が祠の中を覆い尽くす。リディスの顔色は真っ青になり、自分自身を抱きしめながら、座り込んでいる。
「この祠なら安全だ! 水の精霊の加護がもっとも強いところだからな!」
エレリオが明るい調子で言うが、半信半疑の表情をしている人々が大多数だった。
この揺れの原因である、ヘラによって召喚された巨大なモンスターを還さなければ、この場にいる人々の恐怖を完全に取り除くことはできない。
揺れが収まると、少しだけ空気が緩む。しかしエレリオの表情は依然として険しいままだ。
「メリッグ、いったい何をやっているんだ。劣勢じゃないだろうな? ――いくら結界が強いとはいえ、魔力を抑えた生身の人間の侵入は防げないぞ」
エレリオはちらりとリディスに視線を向ける。彼女の体は小刻みに震えていた。
ヘラの最終的な目的は鍵である、リディスだ。
つまり必然的にメリッグたちが敗れれば、こちらに魔の手が伸びることになる。それは避けたいのが、プロフェート村が消えた今でも村人たちを護り続けている女医としての想いだろう。
リディスを護らなければならない。
村人たちにも危害を加えられないようにしなければならない。
よってこの祠にヘラが近づく前に倒す必要がある。それが果たしてメリッグ、ルーズニル、そしてトルの三人でできることなのだろうか。
一方、リディスを連れて、この場から去る方法もあった。そうすればこの中が戦場になることは避けられ、上手くいけばヘラから逃げられるだろう。
しかし行く当てもなくモンスターが溢れる大地を、フリートだけで彼女を護り抜かなければならない状況になる。ようやく動けるようになったフリートだけで、できることなのだろうか。
フリートに選択肢が突きつけられる。
考え込んでいると再び振動が祠を襲った。悲鳴がし、通路で座り込んでいた人たちが広間に移動してくる。中には泣きじゃくっている子供もいた。リディスは傍に寄ると、微笑みながら優しく頭を撫でる。
「大丈夫よ。きっと悪夢のようなこともすぐ終わるから」
「本当?」
「メリッグさんたちは強い。彼女たちを信じて、待ちましょう」
(信じた先に何があった?)
その言葉が出そうになったが、はっとして飲み込んだ。
信じるという、受動的な行動では変わらない。しかも信じた相手に裏切られることもある。
もし直接的に状況を変えるとするならば、己の行動だけだろう。覚悟を持って前に進む、そんな行動だけが。
「……土の精霊」
祠の端で小さな石を握りしめて、ぽつりとフリートは精霊の名前を呟いた。目の前に靄のようなものが現れる。体力や精神力が落ちているため、実体化まではいかなかった。
『なんじゃ?』
「俺の命を使えば、ヘラを倒すことはできるのか?」
ロカセナとの対峙の時は覚悟が足りなかった。説得という甘い考えを第一にしており、彼を倒すということまで考えが及ばなかった。
誰かを護りたければ、本気で相手を倒すことを考えなければならない。
自分の命を懸けて護り抜くことも必要である。
そして、自分の未来よりも、相手の未来を考えて行動をするべきなのだ――。
土の精霊は次の一言だけ発して、再び宝珠の中に戻っていった。
『お前次第じゃ』
フリートは寄りかかっていた壁から背中を離し、リディスに近づく。影がリディスを覆うと、彼女は視線を向けて、立ち上がった。
「何でしょうか?」
この華奢な体が自分の身長ほどあるショートスピアを振り回していたなど、誰が想像するだろうか。
「シグムンドさん?」
フリートはポケットから手のひらに乗る大きさの紙袋を取り出した。綺麗に包装されていたはずだが、その面影は残っていない。リボンと包み紙を外して、中身を取り出す。その中身を見た緑色の瞳は大きく見開いた。
「これは……」
「色々ありすぎたから、まだ祝っていなかったな。――二十歳の誕生日おめでとう、リディス」
持っていたものをリディスの手のひらに乗せる。彼女は目を瞬かせながら、フリートと自分の手のひらに乗っているものを交互に見た。鮮やかな緑色に輝く魔宝珠がはめ込まれている、鍵の形をしたペンダントを。
「……まったく、どうして鍵の形なんか選んじまったのかな」
そう言いながら、一人で苦笑した。
皆既月食の前に、ミディスラシールからリディスの誕生日も同日と聞いた時、プレゼントでも買っておこうと思い、アクセサリー屋へ出向いたのだ。
眩いくらいに煌めく宝石が埋め込まれ、人を美しく彩るためのアクセサリー。その他に実用性重視のものとして、結界を張る魔宝珠が埋め込まれたアクセサリーも多々あった。リディスにプレゼントをするなら後者しかないだろうと思い、その中から選ぶ。そしてフリートが惹かれたのが、皮肉にも鍵の形をしたペンダントだった。
「……どうして、これを?」
リディスは大切に両手で持って首を傾げる。フリートはそのペンダントに込めた想いを口に出した。
「――未来へ続く扉を、いつか自ら開けることを願って」
一瞬、鍵に埋め込まれている魔宝珠が光った。リディスはそれに気付きもせずに、ただ驚いた表情をフリートに向けている。
何度目かになる振動が祠を襲う。最初に感じたものよりも激しく、聞こえる騒音も大きい。
もう時間はない。彼女の顔を見る時間も残り僅かだ。
フリートは片膝を地面に付き、リディスを見上げた。戸惑いも含まれているが、フリートがずっと接してきた意志の強い瞳もあった。
「そのペンダントはきっとお前をいつまでも護ってくれる。だから受け取ってくれ」
埋め込まれた魔宝珠には強力な結界が張れるよう、店主に頼んでおいた。父親とも仲が良かった店主だったため、少々値が張るくらいで済んだ。おそらく個人を護る程度なら、この祠にある水の魔宝珠に引けを取らない結界を張れるだろう。
「……ありがとうございます」
リディスは微笑みながらペンダントを両手で握ると、それを首からかけた。胸元にきらりと魔宝珠が煌めく。
「リディス・ユングリガーー」
フリートはリディスのフルネームを発し、彼女の右手を左手でそっと持ち上げた。一瞬びくりと動かれたが、大人しく従ってくれる。一呼吸してから言葉を続けた。
「貴女がどんな状況であっても、俺は貴女の未来を護るために戦ってきます」
フリートの顔に彼女の手を近づけていく。
「――貴女をお護りする騎士として、ここに誓いましょう。――忠誠を――」
そして、そっとリディスの右手の甲にキスをした――。
手を離し、視線を上げると彼女は呆然として立っていた。突然のことに驚き、声すらでないのだろう。
そんな彼女を一瞥して、フリートは祠の出口に向かっていく。
心の中では霧がかっていた道が開けていた。通じた道に何があるかはわからないが、今は進むという選択に従って突き進んでいた。
(覚悟はできた。あとは進むだけだ)
広間から出ようとすると、急に声を投げかけられた。
「待って!」
フリートは立ち止まり、ちらりと後ろを見る。リディスが一歩前に踏み出して、両手を握りしめながら大声を発していた。
「必ず帰ってきてください。お願いですから、約束してください!」
必死に伝えてくれる言葉に、応えることはできなかった。
フリートは深々と一礼をして、マントを翻しながら、その場から去った。