5‐11 凍てついた思い出(5)
一瞬何が起きているのか、わからなかった。だが赤い鮮血が視界に入ると、すぐに理解できた。
何者かがバルエールに向けて放った氷の矢の嵐を、メリッグは全身を使って受け止めたのだ――と。
「メリッグさん!?」
バルエールは血を流して倒れるメリッグを受け止める。土埃を風によって吹き飛ばした。
放った相手は後方から様子を伺っていた、プロフェート村の青年だった。バルエールが鋭い視線で貫くと、彼は震えながら言葉を発する。
「わ、私はた、ただ、争いを持ち込む種を消すために……。予言がそうしろと……」
「黙れ」
今まで聞いたことがない、低く、殺気のこもった声をバルエールは発する。
メリッグは血が体外へ流れていくのを感じながら、抱いている相手の顔を細めた目で見る。同時に荒々しい自分の呼吸音も聞こえてきた。
「予言を正しいものとするために、自ら実行するのか? ――たいした加護がない奴が、精霊魔法を使うな!」
鋭い風が吹くと、氷の矢を放った男は高々と宙を舞い、勢いよく叩きつけられた。
「バル……エール……さん……」
「話さないでくれ、今はその怪我を医者に……」
バルエールは非常に険しい表情をしていた。それはその表情にさせたメリッグが一番よくわかっている。
どの程度の数の矢が突き刺さったかはわからないが、かなりの数というのは察していた。綺麗に洗っていた紺色の髪も、今は見るに耐えないほど、赤黒い血が付いている。
「なんだ、その女は。――なるほどお前を匿っていた女か。なかなかいい女じゃねえか」
全身ぼろぼろになりつつも口笛を吹いて、バルエールを襲ってきた男が寄ってくる。その後ろには腹の底から大笑いをしているデオンの姿もあった。
「はは、その血の量じゃ、エレリオ先生を呼んでも間に合わねえな。安心しろ、俺が族長を継いでやるからよ!」
デオンは半狂乱な状態だった。文字通り狂っている、と表現するのが正しいだろう。
だがそのような声たちは、バルエールとメリッグの耳の中には入ってこなかった。か細い呼吸をしている女性を、彼は愛おしそうに頭を撫でる。
「どうして僕をかばったんだ。僕の命なんか、どうでもいいだろう……」
「一緒に……行きたかったから。貴方と一緒に……予言も外すくらいの、まだ見ぬ未来を見たかったから……」
「けどそんな状態じゃ、もう……」
バルエールの手にべったりとメリッグの血が付いていた。もはや手遅れの範疇に入っている。
助かる見込みがほとんどないメリッグは小さく笑った。
「私は……貴方に抱かれながら逝くのも……悪くはないですよ……?」
ゆっくり瞳が閉じられていく。
バルエールは閉じきる前に、メリッグの唇を唇で塞いだ。彼女から流れる血が彼の体内にも入っていく。そして離すと、メリッグの目には口元に笑みを浮かべつつも、目は笑っていない青年の顔が飛び込んできた。
「バルエール……さん?」
「貴女を助ける。貴女の未来を妨げる者をすべて――葬る」
メリッグを静かに地面に寝させると、立ち上がったバルエールは襲ってくる男たちに向かって、軽く手を振りかざした。
途端、男たちの体から赤い液体が舞った。それが地面に落ちる前に、彼らは糸が切れたように崩れ落ちる。
メリッグの頬にも、飛び散った鮮血が付いた。地面に伏した男たちは誰一人動かない。
「もう手加減はしない。彼女を傷付け、彼女を苦しめた貴方たちは――生きるに値しない。全員消してやる」
「な、なんだ、急に! お前たちかかれ! 奴は風を使う。妙な風が吹いたら、すぐに伏せろ!」
リーダー格の男が言い放つと、怯んでいた手下たちが気合いを入れ直して剣を向けてくる。
風に気をつけて進むが、バルエールが次に手を軽く振ると、突然辺りが熱くなった。
すると激しい火の柱が彼らを襲った。男たちは為す術もなくその餌食となり、大量の黒い影が地面にできた。
ほんの僅かな間に、一帯は見るに耐えない光景となっていた。便乗して飛び込んだ村人たちも何人か犠牲になっている。
奥には腰を抜かしたリーダー格の男がバルエールから逃げるように、尻を付きながら下がっていた。
「あ、あああ……」
彼に向かってバルエールは近付いていく。
「アスガルム領民について知っているのなら、この事実ももちろん知っているはずだ。通常の人よりも能力が高いと。――貴方たちを消すのも、僕にとってはたわいもないことなんだよ」
男の顔の前に手をかざした。命乞いの言葉など聞かずに、一瞬で命の灯火を消し去った。
バルエールは血みどろの広場の中心に立つと、口元に笑みを浮かべる。周りに誰もいないことを確認すると、彼はメリッグの方に振り向いた。
「さあ、メリッグさん、これで邪魔者はいなくなった。早く医者に行って、治療してもらおう」
意識が朦朧としている中、バルエールが手を伸ばしてくる。無意識にその手から逃れようとした。彼の表情に陰りができる。
「何をしているんだい。もう意識を保っているのだって辛いはずだ。ほら――」
「ど、どうして……殺したの?」
メリッグは凄惨な光景をちらりと見ながら、無表情のバルエールに問いかける。デオンの姿もその光景の一部となっていた。あれほど嫌っていた兄だが、一つ屋根の下で共に生活をしていた関係、虫の息の姿を見るのは辛い。
「どうしてって、僕たちのことを邪魔するからだ。それに貴女を傷付けた。それは死に値することだろ」
躊躇いもなく物騒なことを言い放つ姿を見て、本当に彼が以前メリッグと楽しく話をしていたバルエールなのかと疑ってしまいそうだ。
不意に彼が左手をさっと横に出すと、突風が巻き起こった。その先には斧や包丁など、日常で使うものだが、人を傷つけるには充分な物を持った村人たちの姿がある。前列にいた者は抵抗もできずに、風によって舞い上げられた。
「メリッグちゃんを離せ!」
「そ、そうよ、嫌がっているじゃない!」
さらに後ろにいた村人たちが、心許ない武器を持って叫んでいる。その中には血気盛んな男たちだけでなく、ラティスやマリーンの姿もあった。
これではまるでバルエールがメリッグを――。
「何か勘違いしているようだね。メリッグさんを人質にしたり、殺そうとしているわけでもない。僕たちはお互いのことを想って、この場にいるのに。そうだよね?」
メリッグはその問いに即答できなかった。みるみるうちに、バルエールの眉間にしわが寄っていく。
「どうして返事をしないの?」
強く揺すってくる。それは先ほどまでの優しさの欠片もなかった。
口を辛うじて動かすが、バルエールは聞こえないという仕草をするだけ。呼吸を落ち着かせてから、もう一度だけはっきり言った。
「――貴方は――誰ですか?」
それは今のメリッグが抱いている率直な感想だった。
バルエールは目を瞬かせていたが、やがて大きな声を出して笑い始める。
「僕は僕だよ。血を流し過ぎて、頭がおかしくなったかい? ――わかったよ、貴女を誘惑する、ここにあるものをすべて消してから行こう」
そう言うと、バルエールは顔から感情を消して立ち上がった。腕を大きく広げて、右手には風の精霊を、左手には火の精霊を召喚した。そして口の中でぶつぶつと詠唱を始める。
傍にいたメリッグはバルエールの様子を見て声を失った。
(今すぐにでも彼を止めなければ、取り返しの付かないことが起きてしまう……)
しかし、想いとは裏腹に動けなかった。この状態で意識を保っているのが不思議なくらいの量の血を流していたのだ。
「だ、誰か――」
『呼んだ?』
「え、誰……?」
すぐ傍から声が聞こえた。あまりのことに、メリッグは小さな声を漏らしてしまう。
『私は水の精霊。貴女はまだ私を自由自在に扱える歳に達していないが、特別に加護を与えてやろう』
「精霊……?」
目の前に空間が歪んで見えた。はっきりとした実体はわからないが、青を基調とした何かが浮かんでいる。
『加護はいらないのか?』
「……ください、この状況を変えられるのなら!」
『変えられるかどうかは貴女次第だ。予言は難しい、言葉は難しい。なぜならたった一言で人の運命を変えてしまうものだから』
青色の靄が消えると、メリッグの体内に何かが流れ込んだ。気持ち悪くも感じたが、すぐに慣れ、気付けば出血が止まっていた。
ゆっくり起き上がり、バルエールに手を伸ばそうとした矢先――彼の背に一本の矢が深々と突き刺さった。衝撃で彼の口から若干血が飛び出る。
バルエールが振り返った先には、全身血だらけで笑みを浮かべているデオンの姿があった。
「……死体だけかと思って油断したか、おめでたい奴だ……。お前もここでくたば……れ……」
前のめりに倒れながら、デオンは息絶えた。
バルエールは血を流し、苦悶の表情をしつつも詠唱を続ける。どうやら詠唱中は無防備のようで、敵からの攻撃は避けられないらしい。
それに気付いたメリッグは、この状況を強制的に終わらす、ある一つの考えを思い浮かべた。
ふらふらとしながら立ち上がり、メリッグはバルエールの背中に抱きついた。それを一瞥もせずに彼は口を動かし続ける。
「もう――あの頃には戻れないのね。――ねえ、バルエールさん」
返事はない。ただ彼の目は異常なほど血走っていた。
「やめてと言ってもやるのね。なら、やめさせます」
厚い雲で覆われている空を見た。どうやら雨雲がこの地域に近付いているようだ。
メリッグはただ一言、ぽつりと呟いた。
「――さようなら」
その言葉を皮切りに、バルエールの胸に鋭く尖った氷の刃が突き刺さった。それは貫通し、抱きしめていたメリッグにも刺さる。
詠唱が止まると、口から血を垂れ流しているバルエールがようやく振り向いた。
「何を……するんだ……」
「村には迷惑をかけられない……。だから……一緒に逝きましょう」
ただ淡々と抑揚を付けずに言う。溢れる感情を押し殺していた。
バルエールはその様子を見て鼻で笑う。
「残念だったね……術は完成した」
その言葉と共に、バルエールを中心として魔法陣が現れた。古代文字を使っているため、メリッグがその場で読むことはできなかったが、異様に赤く光っている陣を見れば、これから恐ろしいことが起きるのは目に見えていた。
「絶望を見るがいい。そして……絶望を味わった者同士、共に歩もう」
メリッグはバルエールに軽く押されると、球状の風の膜に包み込まれた。それは浮かび上がり、両腕を天高く突き上げているバルエールを見下ろす形となる。メリッグは風の膜に顔を押し当てた。
「バルエールさん、お願いだから、やめ――」
「――消えろ」
メリッグの制止もむなしく、バルエールを中心として、プロフェート村は大きな光に包まれた。
眩しすぎて目を閉じざるを得なかったが、それでもメリッグは叫び続けていた。
父を、母を、姉を、兄を――そして村の皆のことを思い浮かべながら。
やがて光が収まると――そこには何もなかった。
まるで隕石が衝突したかのように、巨大なくぼんだ地形ができていた。地上を見下ろしている位置にいたメリッグには、一瞬で変わり果てた村の様子を見て、言葉が出なかった。
プロフェート村の約九割が消失していた。辛うじて残っている家屋も、風圧によってぼろぼろになっている。村の中心にいた人や死体は見当たらず、森の奥に逃げていた人たちだけが、どうにか生存者として確認できた。
「あ、ああ……」
目からは涙が止めどなく溢れ出る。
メリッグを包んだ風の膜は徐々に地面へ降りていく。そこには笑顔のバルエールがいた。
だが降りきる前に、彼は口から血を吹き出した。口を手で塞ぐがそれは意味をなさず、手の隙間から血が零れ落ちる。
「くそ……力を使いすぎたのか……」
舌打ちをしながら、足下にある大量の血だまりの中に倒れ伏した。胸の辺りからも依然として血は流れている。致命傷は吐血ではなく、メリッグが刺した傷のようだ。
地上に降りたメリッグは、口をわなわなと奮わせながら銀髪の青年を見下ろした。
「メリッグさん――僕は死ぬのか……?」
「……どうしてこんなことをしたんですか。村が――!」
「それは君のために……」
「これが私のためになると、勝手に決めつけないでください。私はこんな状況にされるのは、望んでいません。冷静になって考えてくれれば、ここまでする必要はなかったと、わかるでしょう……?」
バルエールの目が少しずつ閉じている。
「すぐに後を追いますから、安心してください。一緒に逝きましょう」
「そんな……まだやり残したことがあるのに。樹の元に行かなければならないのに。弟と……共に……、ロカ――」
バルエールは誰かの名前を呟く途中で事切れた。決して穏やかとは言い難い表情だった。
何もなくなった空間には全身を赤く染めたメリッグだけが立っていた。自ら刺した氷の刃は、致命傷とはならなかったらしい。彼の腰からナイフを抜き取り、首元に当てる。淡々とした動作は、まるで自分ではない誰かにしているようだった。
深呼吸をして、心を落ち着かせる。そしてメリッグはナイフを手前に引こうとした。
「――逃げるつもりですか? 自分が犯した過ちから」
人を小馬鹿にしたような声が耳に入ってくると、ある少女がくぼんだ地形の中を歩いてきた。服は破れ、全身埃だらけだが、目立った外傷はない。
「ヘラ……生きていたの?」
「……許さない」
言葉と共に、メリッグが握っていたナイフは持つのも困難になるほど冷たくなる。それからとっさに手を離した。地面に突き刺さるなり、一瞬で氷漬けになる。
お互いの表情が見られる位置で、険しい形相をしたヘラは立ち止まった。
そこには笑顔で明るく振る舞っていた少女の姿はなく、一人の自立した女性――いや憎しみに溢れている人間がいた。
「メリッグさんのせいで、村は、私の大切な人たちは皆いなくなったのよ!」
その言葉は真っ直ぐメリッグの心に突き刺さった。否定はできない。
もしバルエールと会わなかったら、匿うと言わなかったら、そして想いを通じ合わせ、その想いに溺れたりしなかったら――。
今日も説得や介入の仕方次第では、違った展開になる可能性があった。だが事態は最悪の展開に転がってしまったのだ。
ヘラは声を荒げて、メリッグに言葉を投げつけた。
「私は貴女を一生許さない! 身勝手な貴女が勝手に死ぬのも許さない! 大罪を犯した人間が、好き勝手に死ねると思っているんですか?」
憎悪がこもった視線を突き付け、淡々と言い切った。
「彼と歩もうとしていた道を苦しんで生きればいい。二人で抱いていた幻想を寂しく一人で見ればいい。――いつか生きる目的が見つかったら、私の手で貴女を殺してあげます。今の貴女に殺す価値なんてありませんから」
そう言い捨てると、ヘラは踵を返して去っていった。
メリッグはその場に膝を付き、人目もはばからずに空に向かって高らかに笑った。
そして視線を下げ、自分だけに聞こえるように呟いた。
「死ぬのは許されないのね。そういえば父さんに予言してもらった私の未来には――何も見えなかった」
真っ黒い雲が頭上を覆うと、雨が降り始め、地面を濡らしていく。
メリッグの目からも何かが流れていた。
消えてしまった家族のことを、逝ってしまった想い人はもういない。
赤く染められた手は雨によって洗い流されるが、メリッグの心の中は血みどろのままだった。
その後、プロフェート村は地図から消えた。
そして、アスガルム領民の怒りには決して触れないように……という噂が、大陸中に伝わっていった。