5‐2 遠い夜明け(2)
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魔宝樹がある場所に続く扉が半分開かれ、ドラシル半島が暗き雲に覆われてから一週間後――、フリート・シグムンドは生死の縁から脱出し、意識を取り戻すことができた。
起きた直後は、なぜ体が傷だらけなのかわからなかったが、メリッグやルーズニルが現れたことにより、すべての記憶が蘇った。
「よく生きていたわね。あの出血量、普通の人間なら間違いなく死んでいるわ」
「即死じゃなかったのが幸いしたね。騎士として磨きあげられた体のおかげで、助かったんだと思う」
メリッグは言葉では半ば呆れていたが、ほんの少しだけほっとした表情をしていた。
目覚めた場所は質素な部屋の中で、ぼろぼろのベッドの上で横になっていた。窓は穴の空いたカーテンで閉じられ、床は歩く度に軋んだ音を発している。このように古びた家だが、実は優秀な医者が滞在している診療所であり、彼女のおかげで難を乗り切ったらしい。
「貴方たちのような温室で育った人にはわからないでしょうけど、今も医療技術をまともに受けられない人が大勢いるわ。それを少しでも打開したくて、エレリオ先生はここで診療所を開いているのよ」
「ここはどこなんだ?」
「……ニルヘイム領にある、かつて大きな村があった跡地。ここなら敵側も気付きにくいと思って連れてきたわ」
「まだリディスは狙われる可能性があるんだな……」
別の部屋で未だに意識を取り戻さない娘のことを思い浮かべながら、フリートは呟く。
「リディスの存在の重大さが明らかになった以上、あの娘は一生狙われ続けるわ。たとえあちら側が手をひいたとしても、力を求めたり、世界を誤った方向に変えたいという愚かな人たちがいる限り、彼女を中心に抗争の渦が起きるでしょう」
メリッグは悪いことであっても、はっきり言ってくれる。それは生温い環境で育ったフリートにとっては、有り難くも辛いことだった。
リディスは今後も狙われ続ける存在となってしまった。
そのきっかけを作ったのは――。
「つまり俺たちがリディスをシュリッセル町から連れ出さずにそっとしておけば、何も起こらなかったってことか」
「そうとも限らない。貴方たちが連れ出さなかったとしても、あの娘の性格を考えると、ずっと町に居続ける保証はない。――過ぎてしまったことを蒸し返しても、何も始まらないわよ」
「その通りだな……」
現実的なことしか彼女は言わないが、憶測で傷つくよりも、まだ救いがあった。
「ここにはどれくらい滞在できるんだ?」
右肩にそっと触れる。そこは他よりもきつく包帯が巻き付けられていた。
「長くて一ヶ月、短くても二週間ってところかしら」
「結構大丈夫そうだな」
「ただの予想よ、外す場合もあるわ。……相手側も先日の抗争である程度体力は減少している。その治癒期間と、あの子と関わりのあった場所を回っている期間から計算したわ」
「そうか。……なあ、俺たちと対立している相手って、結局何人なんだ?」
フリートが眉間にしわを寄せて、包帯で覆われた体を眺める。油断したとはいえ、たった一人相手でも、これだけの怪我を負った。何人もいるのなら、すぐにでもリディスをミスガルム城の騎士団の精鋭たちに護らせなければならない。その質問にはルーズニルが答えた。
「意外と少ないと思う。今から言う人物たちにせいぜい二、三人足したぐらい」
「その根拠は?」
「確認している人たちの中での共通点がほとんどないからだよ。おそらく根本的な目的だけを共有している間柄――同志のような関係で集っているだけで、個々の詳細な想いは違う気がする」
「そのような関係なら、むしろ人数が多いように思いますが」
「本当に人数が多いのなら、この前の事件でミスガルム城を一気に潰しにかかっていると思う」
平静な表情でルーズニルはさらりと物騒なことを言った。
「考えてみてくれないか。今回城を襲撃したのは実質三人。一人目はバルコニーで対峙した、ニーズホッグと呼ばれるモンスターを召喚した少年のニルーフ。あの戦闘後は捕虜になったらしいけど、今どうなっているかはわからない。二人目はミーミル村で大量のモンスターを召喚した、帽子を被った老人。リザードマンや他のモンスターが城の中で溢れていただろう、あれは彼によるものがほとんどだと思う。召喚の性質的に同じようなものを感じ取ったんだ。そして三人目は――」
「ロカセナ・ラズニール。特筆すべき召喚は、他人の脳内に映像や声などを流すこと。立ち続けるのにも耐え難い内容を流してくるのが厄介ね。あの娘が目覚めたら、召喚されていた状況のことを詳細に聞き出す必要があるわ」
メリッグはさらさらと述べるが、フリートとしては彼の強さはその能力だけではないと思った。対峙した時に体験した、剣さばきの上手さ――おそらく試合ではなく実戦であれば、彼は間違いなく多くの人を斬って、自分自身は生き残る戦いをするだろう。
「この三人と、あと二人はいると私たちは考えている」
メリッグが示した人数を聞き、フリートは首を軽く傾げた。まだ二人もいるのなら、どうして今回は三人しか攻めてこなかったのだろうか。
「一人はニルヘイム領にある水の魔宝珠の欠片を取りに行ったはずよ。あのニルーフという子供が来る直前に、欠片が取られたのだから間違いないわ」
「どうしてわかるんだ、メリッグ」
「……私の水の精霊が知らせてくれたのよ。かなり強力な結界を張ってあるはずだったけど、相手の方が上手で、通り抜けられてしまったようね」
「どこにあるか知っているのか?」
「ええ。ちょっとしたことがあって、場所は知っているわ。そうでなければ私は水の精霊をここまで自由自在に召喚できない……」
どことなく歯切れ悪そうに言う姿が引っかかった。メリッグは予言めいた意味深な言葉を発し、いつもフリートたちを混乱させていたが、今回はこちらでも薄々察せられるくらい、明らかに何かを隠している。問いたかったが、話の主軸が逸れるため、その言葉は呑み込んだ。
「それでメリッグ、もう一人は?」
「あらフリート、わからないの。貴方も相手をしたことがある人よ」
小馬鹿にしたように言われ、フリートはむっとした。しかしそこは踏み止まって、リディスと共に行動している中で、今まで相手をした人間たちを脳内で巡らせると――意外と少ないことに気付く。そしてある男を思い浮かべた。
「ムスヘイム領で会った、ガルザという男か」
「その通り。今回は出てこなくて良かったわ。あの男がいたら死傷者の数はもっと増えたでしょう」
「だがあいつはロカセナのことを知らなそうだったぞ」
「じゃあ、ロカセナはガルザのことを知らなかったかしら?」
「それは……」
ガルザとはヘイム町の外れにある村と、火の魔宝珠がある洞窟内で対峙した。偶然なのか実力差なのかはわからないが、どちらの戦闘もロカセナはガルザに深い傷を負わせてはいない。
眉間にしわがみるみるうちに寄っていくと、メリッグはほくそ笑んでいた。彼女は二人の関係について、当初から知っていたのだろうか。ならば早く教えて欲しかったと思う反面、なぜ教えてくれなかったのかという疑問が浮かぶ。
「私が二人の関係に気付いたのは、ロカセナが敵側とはっきりわかってからよ。ガルザとの対峙時での違和感は、何となく頭の片隅に残っていただけ。彼の動きがほんの少しだけぎこちなかったから」
「よくわかったな」
「人を観察するのが好きだから。貴方は気付かなくてもしょうがないでしょう。好きな女性が捕まって、らしくない行動をしていた時だから」
その台詞を聞き、頬が一瞬で赤くなった。
「誰だ、好きな女って……!」
「あら違うの? 貴方が眠っている時、うなされながら彼女のことも呼んでいたわよ?」
「う、嘘だ!」
即言い返すと、メリッグはぺろっと舌を出した。
「嘘よ」
「なっ……!」
一度現れた頬の赤みはなかなか消えそうにない。その様子を見たメリッグは満足そうな顔をしていた。完全に鎌をかけられたようだ。この女性には口喧嘩で一生勝てる気がしなかった。
「――さて、話を戻していいかな?」
軽く咳払いをしたたルーズニルが、二人の話に割り込んできた。
「今回の事件でガルザという男が現れなかったのは、おそらくミディスラシール姫の結界のおかげだと思うよ。メリッグさんの話によると、彼は魔力を垂れ流しにしているみたいだね。姫の結界はモンスターと、彼女が認めていない、ある一定上の魔力を持った人間を受け付けない性質を持っている。それが影響していると思う」
「あのニルーフという少年は侵入してきましたが?」
「彼を子供だからといって、甘く見ない方がいい。あの年齢で魔力の抑え方や放出の仕方を熟知している。単純な戦闘能力だけなら、ガルザという剣士の方が上だけど、モンスターの召喚魔法が絡めばニルーフ少年の方が上だ」
普段は推測だけで留めるルーズニルが、珍しく今回は言い切った。不思議に思っていると、彼は苦笑いを浮かべた。
「実は前にニルーフ少年と対峙したことがあってね、そこで彼の実力を知ったんだ。召喚したものを慣れた手つきで扱っていたよ。先天的な部分がとても秀でていて、真っ向から対立したら、まったく歯が立たなかった」
どうやらニルーフはフリートが思っている以上の使い手らしい。ルーズニルも精霊の扱い方など、実力的には高いと思ったが、世の中にはさらに上がいるようだ。
「――以上のことから、敵側は五人程度だと考えていいと思うよ。少数で僕たちのことを探し回っているから、ここに辿り着くまでは数週間かかるだろう。それまでの間にフリート君は怪我の完治を、僕とメリッグさんは周辺から変化後の情報収集をする。リディスさんが目覚め、動けるまで回復したら城に戻ろう」
「城は最も狙われる可能性が高い場所ですが」
「それは誰もがわかっていることだよ。けれど彼らに対して、僕たちだけで立ち向かえると思う?」
その言葉を受けると、フリートは口を閉じた。今、この場にいるのは、リディスを含めたとしても四人。もし一対一で対峙できたとしても、個々の能力は相手の方が上だろう。
「……しばらくは休息ってところですか」
「そうだね」
フリートは視線をやや下に向けて、軽くシーツを握りしめた。
「……ロカセナの行方はわからないんですね」
「わからない。……驚いたかい? 彼が敵側だったと知り」
ルーズニルが優しく尋ねてくる。フリートは静かに首を横に振った。
「驚いたというより、悔しいです。あいつと組んで二年以上経ちますが、相棒の真意がまったくわからなかった。こんな関係で背中を預けていたなんて、笑ってしまいますね」
「……城とのやりとりや、情報収集は僕たちでやるから、今は心身ともに回復してくれ。リディスさんが目覚めれば、きっと事態は良くなるはずだから」
ルーズニルは最後までリディスのことに関しては曖昧なままだった。
その曖昧さは、悪い方向に転ぶということを考慮していたのかもしれない。