4‐12 万物は流転する(1)
「今宵は星や月が綺麗だ。これが明日になったら、さぞ爽快な風景が広がるだろう」
男が一人、高台の上に登って夜空を眺めていた。一晩経てば満月を迎える月。まだ若干欠けているが、光の輝きは充分と言っていいほどだ。月が輝きを放っているため、星の光は全体的に控えめである。
「十年ぶりにこの月がすべて消え、赤く染まるのが、この目ではっきり見ることができるだろう。そんな素敵な日に生きられていることに、感謝だ」
男は見上げ、天頂に来た月を真っ直ぐ睨みつけた。
「明日の晩、この地上部も月のように赤く染まるだろう。それは始めから決まっていたことだ。それに対し、お前はどう抗う?」
視線を下ろし水平に向けた先には、かつてドラシル半島のどこからでも見えると言われた大木があったところだ。しかし今では何もない、虚しい荒野が続いている。
「さあ、終わりが始まる刻がやってくる。いや、新たな歴史への始まりだ。そのための扉がいよいよ開かれるだろう――」
誰に伝えるでもない言葉を、声を高々にして言い放つ。
そして彼はふっと笑ってから、その高台を後にした。それから数時間後、薄らと夜は明け始めた。
* * *
ミディスラシール姫の二十歳の記念誕生日会の当日、主役である彼女は朝から支度のため部屋に籠もっていた。騎士たちの警備も既に配置についており、城内は今まで感じたことがない緊張した空気が漂っていた。
リディスは昼食後から準備を始めるため、昼前までは図書室で調べ物をしていた。黙々と本を読んでいると、後ろから軽く肩を叩かれる。振り返ると、眼鏡をかけた少し長めの亜麻色の髪を結っている青年が立っていた。
「リディスさん、準備は?」
「こんにちは、ルーズニルさん。準備は昼食後から始めます。ドレスを着て、軽く化粧をするだけですから、そんなに時間は取られませんよ」
「緊張していないの?」
「多少していますけど、父の誕生日会や隣町のパーティーで、今回のような立食形式の会には何度か参加したことがありますので……」
「場馴れしているんだね。僕なんて初めてだから、もう緊張しているよ」
ルーズニルは頭をかきながら、笑みをこぼす。若い学者の彼がこのような会に呼ばれるのは、珍しいことなのだろう。城に度々訪れており、得た知識を還元していることが認められたため、出席が許されたらしい。魔宝珠の欠片を集める関係で、姫とやりとりをしていたという親しさも裏では隠れているようだ。
「貴族の偉い方が話しかけてきたら、どう返せばいいのかな?」
「愛想良くしていれば大丈夫ですよ。あとは丁寧に答えれば。……それよりも今日、皆既月食ですよね。会よりもそちらの方が気になっているんじゃないですか?」
「わかる? 今晩の会場、見晴らしのいいバルコニーでやるから、さぞ見応えがあると思うんだ」
ルーズニルは口元を緩めて、小さく微笑んだ。
「リディスさんも最初から最後まで、バルコニーで月食を観賞しようね。きっと感動するはずだから」
「ええ、もちろん!」
返事をすると、ルーズニルは嬉しそうに頷いた。
やがて彼はクラル隊長に会ってくるといい、図書室から出ていった。
視線を下に戻すと、月食に関する本が広げられている。少しでも理論的に知ろうと思って読んでいた。だが、体験に勝るものはない。リディスは本を抱えて、夜に行われる神秘的な光景をうっとりと思い浮かべていた。
誕生日会が始まるまで残り僅かな時間となった頃、フリートはリディスを迎えに彼女の部屋の前に訪れていた。彼女には当日護衛が付くことはまだ言っていない。そのため既に部屋にいなかったら入れ違いになってしまう可能性があった。先に伝える予定だったが、警備の確認に追われてしまい、ついつい忘れてしまっている。
普段は動き易さを優先しているため、あまり見た目には気を使っていない服装だ。
しかし、今日は見た目を重視する日。年に数回ある公の場で使用する、正装を着ている。
ミスガルム領を示す土をモチーフにした印が胸元に刺繍されている、全体的に硬めの素材を使っている服。マントも若干重いため、いつもより少し動きにくいという感じを受けた。
外回りなら正装をする必要はなく、少々上質な服を着ていればいいことになっている。しかし、フリートは会場の中に入るため、問答無用で正装を着るよう言い渡されていた。
リディスが寝泊まりしている部屋のドアをノックすると、はっきりとした返事が聞こえた。
「俺だ、フリートだ。準備はできたか? 会場まで連れていく」
「どうしてフリートがそんなことを? 別に案内なんて必要ないわよ」
「いいから、準備ができているなら行くぞ!」
ドア越しから不満を言いつつ、リディスは渋々とドアを開ける。
ドアが開かれた瞬間、フリートは言葉を失った。
リディスの美しいドレス姿に目を奪われる。
ひだが付いた、所々レースであしらわれている水色で彩られたドレス。胸元は開いており、紐を付けて首から下げている魔宝珠がその上で光り輝いている。ぱっと見た印象では地味だと思ったが、逆に水色のバレッタで留められている金色の髪がより強調されて見えた。リディスの頬は仄かに赤く染まっている。
「ミディスラシール姫が、このドレスが一番似合うって言ったから……。でも、ちょっと開き過ぎなのよね」
胸元の部分にも思わず目が向いてしまいそうだが、それよりも全体的な雰囲気の方が非常に魅力的だった。
リディスは呆然と突っ立っているフリートに気づき、胡乱気な目つきで見てきた。
「何、ぼけっとしているの?」
「いや……何ていうか……馬子にも衣装だなって」
視線を逸らして、本音とは裏腹な言葉を思わず漏らすと、リディスの顔はさらに険しくなった。
「それってどういう意味よ! 悪かったわね、似合わなくて!」
そう言い放たれると、リディスは一人で大股で歩き始めてしまった。
「お、おい、ちょっと待て!」
慌ててフリートはリディスの後を追いかける。彼女の横に並ぶと、鋭い視線で睨みつけられた。
「何よ」
「言い方が悪かった。今まで見たことがない格好だったから、意外で」
「だからって、あの言い方はないでしょう!」
「わかった、わかった、さっきの言葉は忘れてくれ」
興奮しているリディスを押さえつけながら、どのような言葉を出せばいいか考えた。ロカセナなら彼女の機嫌を良くする気の利いた言葉をさらりと伝えるだろう。だが、自分はロカセナではない。あの優男とは違う。
フリートは無い語彙を探し出して、ようやく口を開いた。
「――綺麗だと思う……すごく」
きょとんとしていたリディスだったが、フリートが俯きながら頬の色が変わっているのを見て、笑い出した。振り絞って出した内容を否定されたような感じがし、フリートはむっとしてしまう。
「いきなり笑うか、この場面で!」
「ごめん、ごめん、フリート。貴方からそんな言葉が出るとは思っていなかったから、ちょっとびっくりしただけよ。ありがとう」
微笑んだ顔を見て、鼓動が速くなった。
傍にいすぎて気づかなかったが、リディスは化粧をし、正装をすれば、有力貴族の中でも美しいと言われている女性に引けを取らないくらい、魅力的な女性になるのではないだろうか。
機嫌良く歩き始めた彼女は、立ち止まったままのフリートを目で促してきた。二人で並んで歩いていく。
「それにしてもフリート、どうしたの? この時間なら警備する場所にいるべきなんじゃないの?」
「ああ、だから所定の場所についた」
「はい?」
「今日の誕生日会では、俺はリディスの護衛をすることになった」
「私の? またどうして。何度も言っているけど、もう欠片は持っていないわよ」
不思議そうに見てくるのも無理はない。城に戻ってから城内ではリディスは護衛なしで過ごしていた。外に出るときも度々あったが、その時はフリートか、たまたま居合わせたセリオーヌが同行している。
フリートは予め考えておいた言葉をそのまま口にした。
「欠片云々は置いて、何かあった時、その格好じゃ動けねぇだろ」
リディスは言葉を詰まらせ、自分のドレス姿を見渡した。しかし、それでも何か言い返そうと考え込んでいる。彼女が口を開く前に、フリートはさらに思いついた考えを口に出した。
「それに色々な貴族が来る。ミスガルム王国内の貴族なら、だいたい顔がわかるから教えてやるよ。シュリッセル町にいい風が流れるように」
そう言うと、リディスの目は大きく見開いた。
「それって、自分が文官の父を持つ家柄だということを利用することになるわ。あんなにお家を嫌がって出たのに、どうして?」
リディスが困惑するのももっともだろう。少し前のフリートなら、絶対に出さない言葉だった。
だが、今は十年近く抱いていた心の靄も消えかかり、そこに新しい風が吹き込んでいる。
「確かに昔は嫌だったが、多少考えが変わった。どう足掻いても立場が変えられないのなら、逆にその立場を利用しようかと思っただけさ」
開かれた扉の向こう側から、ざわめき声が聞こえてきた。あの扉をくぐれば、会場であるバルコニーに出る。
リディスは笑顔でフリートを見上げた。
「その考え、物事を後ろ向きに考えるよりも、ずっといいわ。それじゃあ、今晩はたくさんの人とお話をすることになるのね。美味しい食べ物を頂こうかと思っていたけど、少し控えるわ」
彼女は手のひらを軽く合わせて微笑んだ。
開け放たれた扉を通過し、中に入ると、既に何人かの人間が談話していた。どの人も高そうな正装を着ている。フリートは汗をかいている手を握りしめた。
「あらまあ、仲の良いことで」
背後から凛とした声が聞こえてくる。振り返ると、真っ黒なドレスに身を包んだメリッグが、グラスを片手に寄ってきていた。露出の少ないドレスで、紺色の髪は緩く三つ編みにして肩にかけている。目立たない色だが、却って彼女の美しさが引き出されていた。
メリッグはリディスに軽く挨拶をした後に、目を細めてフリートを見てきた。
「騎士団の正装――ということは貴方、今晩は内勤なのかしら?」
「ああ、今夜はリディスの護衛だ。メリッグは一人みたいだが、大丈夫なのか?」
「ええ。貴族のおじさまたちとの話なら適当に流すわよ」
「いや、そう意味ではない。お前女だし、色々な輩がいる可能性もあるから……」
フリートの意図を察したメリッグは、静かに冷たい笑みを浮かべた。
「どこかに連れ込まれて犯されそうになったら、精霊が黙っていないわ。たとえ精霊が出られない状況になって、遊ばれたとしても別に構わないし」
「メリッグさん!?」
リディスが悲鳴に近い声を上げる。部屋にいた人が何事かと振り返ってきた。フリートは慌てて二人を庇うように立つ。リディスの瞳は震えていた。
「どうしてそんなことを……!」
メリッグはリディスを見ながら腕を組み、深々と溜息を吐いた。
「――全部冗談。真に受けないで。そういう男が現れたらとっとと逃げるわよ」
リディスの表情が緩む。メリッグは左手をあごに添えて、彼女のことを見下ろした。
「私は自分よりも年下の貴女の方が心配だわ。子供好きの不審者も最近はいるようだから、気をつけなさいよ」
「子供って、どういう意味ですか!」
口を開いたリディスをメリッグは無視し、フリートに深い紫色の瞳を向けた。
「我を失って、たった一つの目的を遂行しようとする人ほど、一番危ないわ。ほんの少しの気の緩みがすべてを左右する――覚えておきなさい」
「あ、ああ」
フリートはメリッグからの助言を受け止める。そしておもむろに懐中時計を取り出して、時間を確認した。まもなく誕生日会の幕が開けるだろう。そしてほぼ同時並行で始まる皆既月食。
何事もなく終わるのが理想的だが、今までの経験を振り返ると、何も起こらないほうがむしろ不自然だ。
フリートは腰から下げているショートソード、そしてバスタードソードを召喚できる、緋色の魔宝珠を見て、いつでも戦闘態勢に入れる状態だということを確かめた。
外を見れば、赤い光を発していた陽は沈み、黄色い満月が昇り始めている。
やがて多くの人がバルコニーに集い始めた。