3‐12 夕陽に沈む黒き大地(2)
井戸から現れたサハギンにはフリートが先行して向かったため、リディスは腰を抜かしている少年の元にショートスピアを召喚してから駆け寄った。
「大丈夫!?」
少年は震えながらこくこくと首を縦に振る。ざっと見たところ、怪我をした様子はない。
胸を撫で下ろしていると、少年がリディスのいる方を見て目を見開いた。
水が地面に滴る音が耳に入ってくる。背後から殺気を感じるや否や、リディスは半回転しながら立ち上がり、スピアを水平方向に突き出した。もう一匹いたサハギンが、スピアの先端に触れる前に立ち止まる。
だが、すぐにサハギンは銛でリディスを突き刺そうとしてきた。それを跳ね返し、逆に突きを仕返す。サハギンは後退しつつも、すぐに前進して攻めてきた。
次にリディスは連続で突きを入れて牽制をかけるが、サハギンの銛はリディスの隙をついて狙ってくる。ショートスピアと銛が交わると、甲高い音が響いた。
フリートが来るまで時間稼ぎを試みようかと考えていた最中、サハギンの動きが突然止まった。手を頭上に掲げ、何やら口をごにょごにょと動かし始める。
その光景を見て、身がすくむ思いがした。あの口が止まる前に、早々に還さなければ。
徐々に浮き上がってくる恐怖をかき消すように、サハギンの後ろに回った。
脳内に流れる惨劇を見たくはないが、それ以上に目の前に広がる悲劇を見たくない。
「魔宝珠は樹の元へ、魂は天の元へ」
今まで躊躇っていた還術をする上での詠唱文を流れるように紡ぐ。
「生まれしすべてものよ、在るべき処へ――」
サハギンが振り向く前に、ショートスピアを心臓に向けて、リディスは叫んだ。
「還れ!」
声と同時にスピアが急所である心臓部へ突き刺さる。
すぐに身体が動くのもままらないほどの、叫びや残像でいっぱいになる――そう覚悟した。
だが、サハギンが黒い霧となって消え始めても、その現象は起こらなかった。
「え、ええ?」
混乱する中、しばらく見る余裕がなかった、還っていくモンスターの様子を眺める。断末魔を叫びながら、黒い霧となり、風と共に消えていく。その様子はなぜか物寂しく感じられた。
後に残ったのは、沈みゆく夕陽のみ。それをリディスは呆然と眺めていた。
「リディス、大丈夫か!?」
意識を元に戻したのは、フリートの声だった。彼は剣を納めず、リディスの元に駆け寄ってくる。彼の表情を和らげるかのように、リディスは微笑んだ。
「私は大丈夫よ。もうモンスターの気配はないようね」
「ああ。あとで井戸にも結界を張ってもらおう。まさか地下水を通って来るとは……。それよりもリディス」
すぐ傍にまで来たフリートにリディスは見下ろされる。
「大丈夫ってどういう意味だ。お前が言っていた例のあれ……耐えきれるようになったのか?」
「あれを耐えきれる時が来たら、私も血に飢えている時になるでしょうね。……実は今ね、還しても何も起こらなかったの」
「……何?」
「だから普通に還せたのよ!」
嬉しいはずだが、腑に落ちない点が多すぎて、リディスは狼狽しながらフリートを見る。彼も同様に困惑した表情を浮かべていた。
「その現象自体がなくなったのか? 次からも普通に還せるのか?」
「わからない。また発生する可能性もあると思う」
「どうしてそう思う」
「この前還した時と今日では、私自身の身に変わったことはないから。原因や解消要因がわからなければ、なくなったとは言えないでしょう……」
喜びたいのを一心に押さえて、リディスは厳しく自分に言い聞かせる。この日を待ち焦がれていたはずなのに、皮肉にも戸惑いの感情の方が喜びを上回っていた。
夕陽によって影が鮮明に映し出される。それを見て二人以外にもう一人この場に存在していることを思い出した。リディスはフリートの脇を通り、少しだけ表情が柔らかくなった少年に近づく。
「君、大丈夫?」
「う、うん。さっきいた変なのはもういないの?」
「ええ、還したから大丈夫よ。ただ、結界が張られて落ち着くまでは、井戸に近づかない方がいいかも。また同じようなモンスターが出てくるかもしれない」
「そんな……。きれいな水が採れる場所だから来ていたのに……」
「次に襲われた時、誰かが助けてくれる保証はないのよ。安全のためにも控えてね」
俯いている少年が立ち上がるのを、リディスは手を差し出して手伝う。彼の傍には桶が転がっていた。
「家まで送るよ。どこに住んでいるの?」
「おい!」
フリートが制止の意味を込めて、険しい表情で声を発すると、少年はびくりと肩を震わせた。
だがリディスはフリートの声を聞き流す。余所者が関わるのは望まれていない土地だが、恐怖で動けなかった少年を置いていくわけにはいかない。
リディスは少年の横に付いて歩き、フリートも溜息を吐いて、渋々と後ろにつこうとした時だった。
「アレキ!」
怒気が含んだ声が投げかけられた。少年の視線が地面から正面へ移る。その視線の先には路地から出てきた、息が上がっている三十代半ばくらいの男性が立っていた。
「お父さん!」
アレキと呼ばれた少年は、父ダリウスに向かって走る。ダリウスは彼と再会すると両腕を使って抱きしめた。
「急にいなくなるから、心配したんだぞ」
「ごめんなさい。すぐに戻るつもりだったから……」
「何をしていたんだ?」
「井戸水を――」
視線が井戸の方に向かれた。必然的にその視線上にいるリディスたちも見ることになる。リディスの髪の色を見るなり、ダリウスの眉間にしわが寄った。ミーミル村でほとんど見られない髪の色は、明らかに余所者だということを示していた。
彼は視線を逸らし、まるでリディスたちの存在などなかったかのように、アレキに話しかける。
「わかった。それなら早く水を汲んで家に帰ろう」
「で、でも……あそこの井戸は危ないって、お姉ちゃんが……」
アレキからリディスの話題に出ると、ダリウスは仕方なく二人を見て、警戒した口調で尋ねてきた。
「どういうことでしょうか。井戸が危ないとは……。もしかして何かしたのですか?」
顔が引きつり、飛び出しそうになったフリートを、リディスはとっさに手で制した。そして呼吸を落ち着かせて、不穏な空気が漂う中、一歩だけ前に出る。
「説明不足のようで申し訳ありません。先ほど、息子さんがその井戸から現れたモンスターと遭遇した場に私たちは居合わせました。急いで還術を行いましたので、大事には至っていません。今、モンスターはいませんが、そのモンスターによって水が汚れている可能性があります。また、水を汲み上げている際に再びモンスターが現れない保証はありません。ですので結界を張ってから水を汲まれた方が良いと、息子さんにはお伝えしました」
丁寧に説明をしたつもりだが、ダリウスの顔はしかめたままだ。リディスが話している内容を信じていないようにも見える。
一応忠告はした。それ以後、どうするかは彼ら次第だ。
「モンスターが村の中に現れるなんて、あるわけ――」
「本当だよ!」
怒鳴り散らされそうになったところを、アレキの声が割り込んできた。ダリウスだけでなく、リディスたちまでもが驚く。
「二本足で立っている全身鱗のモンスターが、細長い棒を持って井戸から現れたんだよ!」
「おい、アレキ、何を吹き込まれ――」
「僕、動けなくて、もうだめかと思ったところに、お兄ちゃんとお姉ちゃんが還してくれたんだ! すごくきれいな還し方だったんだよ……本当に」
「……わかった。モンスターが存在し、還したことは信じよう、何かがいた痕跡もあるからな」
サハギンの歩いたところは、未だに地面が濡れている。
「しかし、もしかしたら、あの人たちがモンスターの手引きを――」
リディスは目くじらを立てているフリートを必死に押さえ、残っている手をぎゅっと握りしめた。
耐えるしかない。ここで力任せの行動に出れば後に必ず響く。
だが、ダリウスの言葉を遮るかのように、場に一線が貫かれた。
「いい加減にしてよ!」
子どもの叫び声が空気を一転させる。
「どうしていつも他の人を悪者みたいに言うの。どうして僕のことを信じてくれないの。あの人たちはいい人たちだよ。僕のことを助けてくれたんだよ!?」
アレキの必死の説得に、ダリウスの表情は変化し始めた。息子の声を信じるべきか、自分の想像に従うべきか、その迷いが顔に表れている。
リディスたちはダリウスの次の言葉を静かに待った。
夕陽が地平線の下に消えていき、かわりに月が地上に顔を覗かせようとしている――。
やがてダリウスは息を吐き出した。
「――君たちはいったいどこから来た」
出された言葉は、リディスたちに向けられたものだった。握りしめていた手を広げて、少しだけ緊張の糸をほどく。
「……ミスガルム領にあるミスガルム王国からです」
リディスが発言すると、ダリウスの表情が一転した。目を大きく見開いて、リディスたちを見てくる。
「ミスガルム城……、もしかしてルーズニルの連れか?」
「ルーズニルさんをご存じなのですか?」
二人が知っている共通の人物の登場により、緊迫していた空気が緩む。
「彼の両親には世話になった。彼自身にも色々と教えてもらっている。……今から聞くのは念のためだ。城の関係者だという証拠はあるのか?」
用心深いのは変わりないが、言い方が少しだけ柔らかくなっていた。今、彼が出した言葉は彼なりの最後の抵抗かもしれない。
フリートは口を一文字にしたまま、騎士団員の身分証をポケットから取り出した。何も書かれていないそのカードに力を込めると、文字を浮かび上がってくる。ダリウスは少し近づいて、それをじっくり見た。
「……ミスガルム騎士団第三番隊所属、フリート・シグムンド……か」
「読めるんですか?」
浮き上がった文字は古代文字である。普通の人なら辞書なしですらすら読める文字ではない。
「それなりに読める方だ。この地で深く勉強する場合には、古代文字を読まざるを得なくなるからな。古代文字で書かれたものは、嘘はつかない。――どうやら本物みたいだな。疑って悪かった。大変失礼なことをして、申し訳なかった」
そう言って頭を深々と下げられる。突然の態度の変わりように、リディスたちの方が慌ててしまう。
「いえ、気にしていませんよ。ここは村人との交流が難しいところだと聞いていましたので……」
「難しい……か、確かにそうだな。信じるよりも真っ先に疑ってしまう傾向があるよ」
頭を上げたダリウスは、視線を村の内部に向けた。
「私たちの家はここから少し歩いたところにある。時間があれば寄っていかないか? お礼もしたいし、ルーズニルがなぜ戻ってきたのか気になる」
リディスは微笑みながら頷いた。
「村の方々とお話ができるのなら、願ってもないことです。お時間はありますので、是非。私はリディス・ユングリガと申します」
「私の名はダリウス・トロイア、息子のアレキだ。念のためフードを被ってから、私の後に付いてきてくれ」
フードという単語に一瞬首を傾げると、フリートがリディスの頭を軽く叩いた。ずっと被っていないことを思い出し、慌てて深々と被り直す。金髪は目立つから――どこにいっても同じ状況に溜息が出そうだ。
リディスたちはダリウスたちのすぐ後ろに近づいたが、特に嫌な素振りをされることはなかった。アレキと視線が合うと、嬉しそうな顔をされる。リディスは「ありがとう」と彼に向かって囁いた。