3‐4 抗うための一歩(1)
航海は予定通り進み、昼もだいぶ過ぎた時間帯となっていた。
潮風がリディスの金色の髪を揺らしている。海鳥も一緒に飛んでおり、とても穏やかな時間を過ごしていた。
「気持ちがいいね」
ルーズニルがにこにこした表情で話しかけてくる。亜麻色の少し長めの髪は縛られているため、髪が乱れることはない。
「私、海を見るのは初めてなんです。だからなんだか新鮮で」
「ミスガルム領のシュリッセル町は内陸に位置しているから、海に行く機会はなかったようだね」
「そうなんです。そもそも町から出る機会もほとんどなかったので、町を出てからは毎日がとても刺激的です」
「それは、それは……。連れ出してくれた彼らに感謝しているの?」
「はい、もちろんです」
リディスは笑顔で首を縦に振る。そして船の隅で顔色を悪くしている黒髪の青年と、その脇で溜息を吐いている銀髪の青年を見た。
旅に出て辛いことも経験したが、今まで経験したことがない素敵な風景を見たり、多くの人々と出会ったり、非常に充実した日々を過ごしている。せっかくなら辛いことよりも楽しいことを思い出として残したかった。
リディスは風を感じながら空を見上げ、両手を広げて深呼吸をした。
「こうしてほっと息がつけるのは久々です。ムスヘイム領では色々ありましたが、この澄み渡る空を見れば少しは忘れられそうです」
「火の魔宝珠の事件だね」
「はい……。あの、ルーズニルさんは心当たりありませんか? 魔宝珠を執拗に求める人たちの存在を。珍しい魔宝珠を奪って、それを売りさばこうという様子ではなかった気がします。それならば何を目的で動いているのか……。背景が見えないのではっきり言えませんが、また同じことが繰り返される気がします」
「繰り返される可能性は高いだろうね。だからヨトンルム領に注意喚起に行くんだ」
ルーズニルは船の縁に寄りかかり、目を細めて空を見上げた。
「相手側がどこまで僕たちの動きを把握しているかわからないけど、リディスさんたちも狙われる対象になっているのは――薄々勘付いているよね」
瞬間、殺気を感じたリディスは即座に空に目を向けた。どこまでも続く青い空、浮かんでいる白い雲、しかしその隙間から影のようなものが垣間見える。リディスは若草色の魔宝珠を掴んで、ショートスピアを召喚させた。船全体に結界が張られているが、おそらく役には立たない。
「もう戻れない日々が幕を開けるのね」
メリッグが険しい顔をして、すぐ近くにまで寄ってきていた。
「魔宝珠を巡る――いえ、レーラズの樹を探し求める戦いが始まるわ」
殺気を発しているものが目視で確認できるようになった。人間の大きさ以上あるモンスターが十羽ほどこの船に向かって飛んでくる。
鷲のように非常に大きな羽、体は獅子に似ており、人の首など簡単に噛み砕きそうな嘴を持ち合わせた――グリフォンが飛んできた。
船での攻防は、甲板内でしか動けない人間より、空を自由に飛んでいるモンスターの方が有利に決まっている。先日、川を渡る際に接触した大蛇のモンスターとの戦いが脳裏をよぎった。あの時は水上のモンスターに対して、水の精霊の加護を受けたメリッグが攻撃することで難を逃れた。だが今回の相手は空にいる。
メリッグは焦る様子を見せず、肩をすくめていた。
「一人二羽ってところかしら。嫌ねえ、風系のモンスターなんて。動きが複雑すぎて、私の力で一蹴することができないじゃない」
そう言った次の瞬間、先行していたグリフォンの一匹が凍り漬けにされた。動けなくなった氷の固まりは、真っ逆さまに海へ落ちる途中で還った。
敵が近づいてきたらすぐさま還す――鮮やかな手つきに甲板に集まっていた一同は舌を巻いた。しかし、メリッグの表情は固いままである。
「奇襲はせいぜい一回が限度だわ。あと九羽。さあ、どうしましょうか?」
「襲ってくるのならば還すまでだ。――しかし、やつらは何でこの船に向かってくる? モンスターが意図的に群れを成して、人を襲うなんて聞いたことがないぞ。メリッグ、心当たりでもあるか?」
フリートはメリッグと近づいてくるモンスターを見ながら、言葉を漏らす。
「モンスターが意図的に襲ってきたところに、あなたたちは居合わせたことがあるんじゃなくて?」
「俺たちが今までに?」
フリートはグリフォンを凝視すると、はっと顔色を変えた。
「モンスター掃討をしに、森の中に行った時――……!?」
ロカセナが淡々と補足を加えた。
「この前の掃討戦でも似たようなことがあったね。もしその時と同様のことが言えるのなら、人間がモンスターを召喚して、僕たちのことを襲っている可能性がある。おそらくガルザの仲間たちかな。彼が欲しかった欠片を持っているのは、僕たちだから」
リディスは思わず自分が持っていた火の魔宝珠の欠片に触れそうになったが、寸前でフリートが止めてくれた。フリートは忌々しく舌打ちをする。
「まったく性質が悪いな。こっちが襲われたくない時にやってくるなんて。――ロカセナ、この襲撃を乗り切れば、今回の航海は無事に終えられると、お前は思うか?」
「これを乗り切ればどうにかなると思うよ。一度に十羽のモンスターを召喚し、召喚者から離れた海上に向かわすのは、非常に難しい。つまり召喚した後、召喚者はしばらく休む必要がある。だからこれを凌げれば楽しい航海が待っているはずだ」
「……同感だ」
「あと、僕が思ったこととしては、こいつらは単純な指令しか受けていないんじゃないかな。欠片を奪え――と。複雑な指令は召喚者にさらに負担がかかるからね」
ロカセナの冷静な指摘に、リディスはごくりと唾を飲み込み、スピアを強く握りしめる。
トルはウォーハンマーを手にして、空を睨み付けた。
「モンスターがどうして狙っているとか、詳しいことはわからねえけど、とにかく全部倒せばいいんだろう! 俺はモンスターに関してはまったく無知だから、還すときは頼んだぞ」
今まで人間しか相手をしていないトルにとっては、今回の戦闘は大きな意味を持つことになるだろう。
また、欠片を持っている二人目の人物として、彼の動きも注視しなければならない。
リディスは欠片を持つ三人目の持ち主にそっと視線を送った。
「僕なら大丈夫だよ」
そう言うとルーズニルは光沢を放った薄緑色の魔宝珠を取り出した。
「奪われてはいけないけれど、それよりも生き残ることを前提に動いてね。生きていればどうにかなるよ」
揺れ動く船の上で、ルーズニルが魔宝珠に力を込める。緑色の光が発されると、口を大きく開いた。
「万物には大いなる流れがある。風はすべてのものに流れを与える。さあ風の魔宝珠よ、我が想いに応えよ。――召喚、風の精霊!」
解除の呪文と同時に上空に竜巻が発生した。それはグリフォンの方へ伸びる。移動した竜巻はグリフォンの陣形を乱し、散り散りにさせた。
風が弱まると、肩ほどの長さの緑色の髪が特徴的な小さな可愛らしい少女――風の精霊がでてきた。絵で見たことはあったが、実物を見るのはリディスにとって初めてである。
「あら、精霊召喚ができるなんて、凄いじゃない」
「お褒めの言葉をありがとう。でも僕の力はこっちが専門ではない。船上という身動きが取りにくい場を考えると、精霊を召喚した方がいいと判断しただけだよ」
ルーズニルは風の精霊によって作り出された、多数の風の刃をグリフォンに向かって投げつけた。ほとんどかわされたが、何本かは体に突き刺さっている。リディスたちのことを敵と見定めたグリフォンたちは、迷うことなく六人に向かって滑降してきた。
リディスの直近の護衛にはロカセナが付いた。フリートは積極的に攻める側に回る。
メリッグとルーズニルが後方から精霊魔法で援護、そして近寄ってきた相手にはフリートとトルが迎え撃つという態勢が、何も言わずとも自然とできあがっていた。積極的に攻める方ではないが、前衛気味のリディスとロカセナはその中間に位置している。
船上にはグリフォンから逃げようと舵をきろうとしている船長や、結宝珠の様子を見るために支柱を登る船員もいた。
結宝珠による結界はまだ破られていない。このまま逃げ切れれば杞憂に終わるが――おそらく無理だろう。
近づいてきたグリフォンが一羽、結宝珠に向けて鋭い爪を向けた。迷いのない行動に目を見張る。結界が張られていれば、中にある宝珠の在り処はわからないはずだ。それにも関わらず正確な位置を突き止めている。誰かがモンスターにそこを狙えと命令したに違いない。
やがて結宝珠の様子を見ていた船員の悲鳴と同時に、船を覆っていた結界は破られた。
結宝珠の傍にいた船員はバランスを崩し、甲板に落下する。しかしルーズニルが発生させた突風のおかげで、落下速度は抑えられ、怪我を負うことなく甲板に降り立つことができた。
船長はありったけの声を使って、危機を知らせる。
「結界が破られた! 船から離脱の準備を! ……畜生、どうしてモンスターがここを襲ってくるんだ。最近は凶暴化しているから、気を付けろって言われていたが、海に浮かんでいる船までわざわざ飛んでくるか……!?」
「船長さん、しゃがんで!」
拳を握りしめている船長に向かって、リディスは叫ぶ。腰を低くした彼の頭上を一羽のグリフォンがかすめていった。
リディスは反撃に突きを入れるが空を切る。モンスターを睨み付けつつ、ロカセナは船長を起こした。
「僕たちが対処しますから、できるだけ船内に避難してください」
「あんたたちが!? 大丈夫なのか、こんなに大量のモンスターを!」
「ミスガルム城の騎士や優秀な召喚術士がいます。船は沈めませんので、僕たちを信じて下がってください」
半島内でも有名なミスガルム城の肩書きはこの船上でも有効だったのか、船長はその言葉を聞くと、少しほっとしたような顔つきになる。そして船員たちをできるだけ中へ追いやり始めた。
これで船上にはリディスたちと、舵を取っている二人の船員と船長だけになった。周りを気にせず、自由に動くことができる。誰かを護りながらでは、注意力が散漫となってしまう。乱戦になりそうな場合は、攻撃ができない人を下げるのは定石だった。
今までリディスは護られる立場だったが、今回は極力他人の手は借りたくない。
スピアの切っ先を持ち上げて、グリフォンを真正面から見据える。
残り九羽になったグリフォンのうち、一羽がリディスに向かって突っ込んできた。フリートが剣を振って牽制した。
しかし、その隙にもう一羽が横から入り込んでくる。予想外の方向からの相手に、リディスは体をびくりと震わせた。動きが止まったリディスをロカセナは腕を引いて移動させる。
トルは襲ってくるモンスターに対し、ウォーハンマーを振り回していた。
「ちょこまか動くな、この野郎!」
飛び回る相手との交戦は初めてなのか、眉間にしわを寄せて非常にやりにくそうに動いている。
フリートはバスタードソードを両手で持ち、呼吸を整えていた。金切り声を立てて向かってきたグリフォンの軌道から数歩横にずれる。擦れ違い際に左羽を傷つけた。動きが鈍くなったところを見逃さず、羽の根本を切り裂く。逆側からやってきたトルが、勢いよくウォーハンマーを振り降ろして、右羽に傷を負わせた。
流れるように足を動かし、フリートは正面に移動して声を発する。
「魔宝珠は樹の元へ、魂は天の元へ。――生まれしすべてものよ、在るべき処へ――」
脳天をめがけて、思い切り突き刺した。
「還れ!」
グリフォンの悲鳴と共に、黒い霧が現れ、空の中へ消えていく。それを見届けることなく、フリートは次なる相手に向かった。
「すげえ……。あの速さの相手をぎりぎりまで引き寄せて、反撃しながら還した」
トルがフリートの動きの一部始終を見て、感嘆の声を漏らす。
当初はかなりの苦戦が予想されていたが、既に状況は変わり始めていた。各々は武器を握り直して、空を見上げる。
「さて、僕も皆が少しでも楽に攻撃できるよう、頑張ろうかな。――風の精霊」
ルーズニルが呼ぶと、近くを飛んでいた風の精霊が寄ってきた。
「グリフォンの羽を中心に風の刃を突き刺してくれ」
こくりと頷き、風の精霊は頭上に浮かび上がった。風の精霊は目を瞑って横に一回転すると、彼女を取り囲むようにして、風でできた大量の刃が現れた。刃はモンスターめがけて一直線に落下する。その勢いのまま羽を貫通させた。
つんざくような悲鳴が聞こると、場慣れした男たちの行動は早かった。
フリートは動きが鈍ったグリフォンを二羽還し、ロカセナもすぐ傍に迫っていた一羽を確実に急所を狙って還す。トルが弱らせたものは、フリートが軽く一斬りして還していった。
さらに風の刃の攻撃で急所を突かれたグリフォンもおり、結果としてグリフォンは残り三羽となった。
(今回は大丈夫。皆の力を合わせれば還せる)
周りが次々と還していき、残っているモンスターの動向を見ていたリディス。
しかし、その視界には二羽しか映らなかった。首を傾げていると、頭上に大きな影が通り過ぎる。
顔を見上げようとした瞬間、肩が掴まれ、足下が船から離れた。見る見るうちにリディスの体が上昇していく。
「ちょっとやめなさいよ!」
体をばたつかせて逃れようとするが、両肩をしっかり掴まれていて動けない。
「リディス!」
他に二羽残っているにも関わらず、フリートはそれらに背を向け、空を睨み付けた。彼の険しい表情をいつもなら見上げる立場のはずなのに、今回は見下ろす状態になる。他の人たちの驚きの表情も、上からだとよくわかった。
リディスは自分を掴んでいるモンスターを鋭い視線で見た。耳元からモンスターの喘ぎ声が聞こえてくる。鋭い爪や嘴がすぐ近くにあり、いつ襲われるかもしれない恐怖に脅えながらも、スピアはしっかり握っていた。
「ロカセナ、何をやっているんだ!」
「すまない。まさかあの勢いのまま掴むなんて……」
「あれでは手が出しにくいわ。あの高さからだと仮にグリフォンを還せたとしても、あの子が無事に済むかはわからない」
「空にいられたら、俺には無理だ」
「なら、僕の出番かな。けど少し様子を見ないと……」
怒っている人や心配そうな表情を見せている人などが次々に呟きつつ、最終的にはルーズニルが前に出ようとしていた。風の刃でグリフォンを攻撃するつもりだろう。狙いがずれてリディス自身が傷つく可能性もあるが、きっと彼なら上手くやってくれると思っていた。
不意にリディスの首筋が突かれる。何度か続くと、首から下げていた紐を一本嘴に引っかけられた。訝しげに思っていると、それを引っ張り出す。
紐の先にあるのは、ミスガルム城に持ち帰る火の魔宝珠の欠片。リディスの顔色が青くなった。
(ロカセナの言うとおり、このモンスターを操っているのはガルザの仲間? それなら絶対に守らなくちゃ!)
リディスは肩を掴まれたまま、足下が宙に浮いている状態でちらりと上を見る。そしてスピアの先端をグリフォンに向かって突き刺そうとした。だが空を切るばかりで、なかなか当たらない。数回は刺すのに集中できたが、すぐに奪われそうになる魔宝珠を握りしめるので精一杯になっていた。
「ルーズニルさん、あいつ……!」
「わかっているよ、フリート君。まずは落ち着いて、彼女の救出を第一に考えよう」
焦るフリートをルーズニルは落ち着かせる。彼の周りには風が集まり始めていた。もう少しで攻撃態勢が整うだろう。
しかしそれより早く、グリフォンは紐を噛み切った。首の圧迫感は消えたが、今度は瓶を握っているリディスの手を突き始める。
何度も鋭い嘴が手の甲に突き刺さるが、リディスはその突き方にふと疑問を抱く。
このグリフォンは欠片を奪うつもりだろう。それはわかりきったことだ。だが奪い取るのなら、どうして加減をする必要があるのだろうか。奪うだけなら、手首でも噛み切ってしまうのが一番簡単なはずだ。
(もしかして私を傷つけたくない?)
リディスの脳裏にその考えが横切る。理由はわからないが、その可能性は高かった。
ならばそれを利用しないわけにはいかない。火の魔宝珠の欠片を握りしめたまま、すぐ後ろに顔を近づけているグリフォンに思いっきり突きを入れた。
刺さった感触を得たのと同時に、耳元で呻かれる。肩を握られる感触がなくなるなり、空に投げ出された。
僅かだが空中を漂う。次の瞬間、重力に従って落下し始める。リディスを掴んでいたグリフォンは移動していたため、真下は青々とした海だった。
考えもなしに攻撃したことを、途端に後悔した。甲板上ならルーズニルの風によって落下速度を抑えることは可能だと思うが、海上では速度を落としたとしても、結局は海に落ちてしまう。だが、きっと誰かが助けてくれる――と甘い考えを抱いてしまうほど、今のリディスには頼もしい仲間たちがたくさんいた。
ほんの少しの恐怖と期待を込めて、両手で体を抱きしめながら海へ落ちていった。