3‐1 欠片を運ぶ者達(1)
第三章 闇夜に吹き抜ける風 開始
――――やがてその刻は近づく。
人間たちはモンスターを在るべき処に還す方法――“還術”をいくつもの謎を抱えながら使っている。
謎の一つとしては、在るべき処の詳細が解明されていない点がある。人間たちが住んでいる世界とは別の世界にモンスターはいると言われているが、そこがどのような処なのかはまったくわかっていない。人間たちは自分たちがいる世界からモンスターを遠ざけるために、一種の自己防衛として還術を使っているのだ。
一方、還術と関係があるモンスターについては、興味深い記述が残っている。影や体の一部であるが、今まで見たことがない動物がいたというものだ。
モンスターが人間の前に現れるようになったのは、ドラシル半島の中心にあったレーラズの樹が消えた約五十年前からというのが昔の知見であったが、実はそれよりも前に存在していたという考えに繋がるものでもあった。だが、見間違いだろうなどと難癖を付けられて、その事実は当時認められなかった。
それから数十年経ち、今、人間たちの前に立ちはだかっているモンスターと、その記述の生き物が同一ではないかと言われ始めた。
そして、レーラズの樹が消えたことで出現したのではなく、消えたことでそれまで隠れていたモンスターが人前に出てきたのではないか、と考えられるようになった。
つまり樹が再び現れれば、モンスターの抑止力として働くのではないか――という仮説が今から二十年近く前にヨトルンルム領ミーミル村、通称“知識人の村”で出された。
その仮説を受けて、ミスガルム王国や他の町村でもモンスターだけでなく、レーラズの樹について本格的に調べ始めた。この仮説が真であれば、半島中に衝撃を駆け巡らせることができる――その一心で。
当時、その仮説の追及が最も進んでいたのは、最初に仮説を打ち出したミーミル村だった。しかし、十五年前に村全体を揺るがす大事件が起こり、それ以後ほぼ研究成果は発表されなくなってしまった。
そのため、現在ではミスガルム王国で発表されたものが最新の研究であると公では言われているが、その研究では事実の確証までには至っていない。
* * *
金色の髪に緑色の瞳を持つ少女は、外から漏れる光を浴びながら、銀髪の青年と共にムスヘイム領主の屋敷の廊下を歩いていた。照らされ方によっては金色の髪はさらに輝きを増すため、非常に高貴な人物にも見える。すれ違った人の中には、思わず足を止める者もいたほどだ。
二人の前方から、少し長い亜麻色の髪を結んでいる青年が歩いてきた。丸縁の眼鏡をかけている理知的な青年は、二人を見るとにこりと微笑む。
「こんにちは、リディスさん、ロカセナ君。もう出歩いても大丈夫なのかい?」
「おかげさまで。熱も下がって、傷も塞がり、食事も以前と同じくらいの量をとれるようになりました。ルーズニルさんが持ってきた薬が良かったんだと思います」
「それは褒めすぎだよ。手厚い看護のおかげじゃないの?」
にやにやしながらロカセナをちらりと見ている。リディスは笑いながら適当に受け流した。
スルトの屋敷に戻って以来、リディスが一人になることは決してなかった。フリート、もしくはロカセナのどちらかが必ず傍におり、万が一の場合に備えていた。とても有り難いことだが、気を使われ過ぎてしまい、逆に申し訳なくも思う。
ルーズニルに対しても、なかなか顔向けができない日々が続いていた。リディスの容態が回復でき次第、ヨトンルム領ミーミル村に向かうことになっているため、ここ数日はヘイム町で足踏み状態。会う度に謝罪を言わなければ気が済まなかった。
「すみません、出発が遅くなってしまい。予定でしたら、こんなはずでは……」
「予定でも何日かはここに滞在するつもりだったから、謝らないで。これを見てごらんよ、今日の戦利品」
そう言うと、丸々と太った布袋を持ち上げた。揺らすと何かがぶつかりあう音がする。小物でも多数入っているのだろう。
「村の皆に贈ると喜ぶんだ。滅多に外に出ない人たちだから、こういうのが物珍しいんだって。集めるのに時間がかかったから、これから移動の準備を始めるよ。――三日後に出発しようと思うんだけど、どうかな?」
「大丈夫ですよ。フリートにも伝えておきますね。ではまた」
にこやかな笑みを浮かべると、ルーズニルも笑って返してくれた。
出会ってから十日ほど経過して彼についてわかったことは、ロカセナと似ている部分が何点かあるということだ。優しく、穏やかな雰囲気を持ち合わせており、一緒にいるだけでこちらの表情も思わず緩んでしまう。
だが、何かが決定的に違う気がすると、フリートは言っていた。細かい言葉遣いや雰囲気から総合してそう思ったらしいが、今のリディスには感じ取れなかった。
ルーズニルと別れ、引き続き歩を進めて裏口に向かう。外の風景が視界に入ってくると、汗を流して活発に動いている青年たちの姿が見えた。
裏庭に出ると、黒髪の青年フリートが模擬剣で赤茶色の髪のトルが持っているウォーハンマーをちょうど弾き飛ばしたところだった。そしてフリートは躊躇なく切っ先をトルの喉元に突きつける。剣先は尖っていないため、血が流れることはない。しかし、フリートの勢いに圧倒されたトルは完全に萎縮していた。結んでいたバンダナが不恰好に緩んでいる。
「大きく振りかざした後の行動が遅すぎだ。もっと持久力と素早さを身に付けろ。時間が経過するにつれて、手元がお粗末になり過ぎている」
「そこまで言わなくてもいいじゃないか……」
「そっちから稽古してくれって、頼んできたんだろう。助言くらい有り難く受け取れ」
フリートは剣を鞘に納めて振り返ると、偶然にもリディスと視線が合う。一瞬で怪訝な顔をする彼に向かって手を振るなり、口を大きく開かれた。
「お前……どうして出歩いているんだ! 大人しく寝ていろ!」
「なっ……! 会うなりいきなり失礼ね! お医者さんに『もう大丈夫、むしろ体力を戻すことに専念するべきだ』って言われたのよ!」
「あのなあ、どれだけ衰弱していたと思っているんだ。もう少し様子を見――」
「その台詞を三日前に言われて、余計に二、三日も大人しくしていたじゃない! ……自分の体のことは、自分が一番わかっている。フリートにとやかく言われる筋合いはありません!」
リディスがきっぱり言い切ると、両肩にぽんっと手が乗せられた。
「まあまあ、落ち着いてよ、リディスちゃん。あのねフリート、ちょっとお願いがあって。稽古とか素振りをしながら、リディスちゃんの傍にいてくれる? 僕、これから少し町に出たいんだ」
「なんだ、そういうことか。別に大丈夫だぞ。行ってこい、ロカセナ。……なあ、最近、町に出ることが多いが、何かあったのか?」
「たいしたことではないけど、少し気になることがあって。あ、これは個人的な興味だから、変に期待させていたらごめんね、リディスちゃん」
リディスは軽く首を横に振った。気持ちを察しての心遣いが嬉しい。自分の身に起こっていることに関する情報が、そう簡単に得られないのはわかっていた。
ロカセナがその場から去っていくのをリディスは笑顔で見送った。
途端、激しい音が耳に入ってきた。視線を再びフリートたちに戻すと、トルが胸を激しく上下させて、大の字で仰向けになっている。フリートは涼しい顔をして、タオルで汗を拭っていた。直前の彼らの攻防を見ていないため詳細はわからないが、おそらく隙を突いたトルがフリートの返り討ちにあい、地面に叩きつけられたのではないかと推測できる。
不利な条件を与え、隙まで突いたのに、これほどの大差が付けば、さすがのトルでもやる気が削がれてしまうだろう。
「フリートも容赦がないのね」
「これでもまだ優しい方だ。俺の隊長を見てみろ。疲れていても、休憩する時間なんか与えてくれないぞ」
「ああ、そうだったね……」
リディスは苦笑いをして、城にいるカルロットの存在を思い出していた。
陽が昇り出している時間帯、外にいるだけで汗をほんのりとかいてしまうくらい、ヘイム町は既に暑い。
リディスは首元にある魔宝珠に手を触れた。召喚の言葉を発すると、切っ先が銀色に輝くショートスピアが出現する。それを両手で握りしめた。久々の感触に思わず笑みがこぼれる。
「何をするつもりだ?」
「素振りよ、素振り。傷も塞がったし、もう大丈夫。体を動かすついでよ」
フリートが止める前に彼から離れる。周囲に誰もいないことを確認して立ち止まり、呼吸を落ち着かせた。
ショートスピアを持ち上げ、地面と平行にする。そして目に力を入れて、勢いよく前に突き出した。正面に何度か突き出した後に、上下左右にスピアを振っていく。足も手の動きに応じて動かした。
素振りというよりも、スピアを持って滑らかに動くことを重点に置いていた。スピアは重心が捉えにくく、日常でその感覚を得ることは難しい。そのためこのような基本的な動作が大切なのである。
とにかく隙なく流れるように――それを意識して、リディスは素振りを続けていく。
その姿にフリートが見入っているとは知らずに――。
やがて一通りの動作を終えると、スピアを地面に突き刺して、持ってきたタオルで汗を拭った。いつのまにか起き上がっていたトルが話しかけてくる。
「ぱっと見だけど、隙がなくて綺麗だな」
「ありがとう。流れるように動けば反撃はされにくいって教えられたの」
「それは武器の種類によるだろうな。俺は小回りのききにくい武器だから、どうしても一撃に集中しちまう」
武器の性質により、攻撃の仕方が変わることはよくある。リディスは槍の中でも比較的軽く短いショートスピアを使っているが、他の槍では非常に長く重いものもあった。もしそれを使う場合は、一発で決める突きに集中せざるを得ない。
カルロットやファヴニールはがっちりした体格であり、それに見合うような両手持ちの重い剣を扱っている。しかし同じ剣士であっても、フリートやロカセナは比較的小柄な体格のため、片手でも扱えるバスタードソードやサーベルを使っていた。
武器に関する細かいことはフリートに聞くのがいいと思い、彼の方に振り向くと視線がぶつかった。
リディスの一連の動作をずっと見られていたらしい。彼の気分を害す行動でもしただろうか。
「何……かな?」
「いや……流れるようにっていうのは、あまり考えたことがなかったから、つい」
意外な発言が飛び出た。フリートほどの実力の持ち主が、そのようなことを考えていなかったとは。
フリートは視線を逸らし、表情を軽く緩めた。
「……その程度の動きなら、あまり体に負担はかからないだろう。対人戦はまだだが、素振りくらいなら許可する」
「ありがとう。もっと動けるようになったら、対人もするからね。ただ、その前に出発しそうだけど……」
「ルーズニルさんから話でもあったのか。いつ出発するって?」
「三日後だって。何を使ってヨトンルム領まで移動するのかな……」
ここに辿り着くまで陸路で移動した。だが、その影響で体調を崩してしまったため、移動には多少心配があった。再び迷惑をかけないためにも、今はできるだけ体力を取り戻す必要があるだろう。
「三日後……だな。わかった」
フリートは腕を組みながら返事をした。
空に浮かぶ真っ白い雲はゆっくり動いている。照りつける日差しは徐々に厳しくなっているが、陽の光の下に来るのは、とても心地がよかった。
ロカセナが昼過ぎに屋敷に戻ってきたのと入れ違いに、フリートはリディスを彼に任せて屋敷のとある客間へ向かっていた。
事前に約束は取り付けていなかったが、運良く彼は部屋に滞在していた。軽くノックをすると、ドアが内側から開かれ、部屋の中に案内される。
「何か用かな? 旅程については、明日皆に話そうと思っているよ」
フリートより少し背の低い青年の背中を眺める。
「その件に関してご相談が。移動手段は何をお考えですか? 海路ですか、それとも陸路ですか?」
ルーズニルは仄かに顔を緩ませた。
「安心して、海路だよ。この領からヨトンルム領は陸路で行きにくいからね。それに人数も随分増えたし」
「人数が増えた?」
「これから僕たちはヨトンルム領に行って、ある物を受け取り、ある物を渡す。それはムスヘイム領の人も同じなんだ」
「よくわからないのですが……」
「端的に言うとムスヘイム領の人も連れていくよう、領主から頼まれたわけ。僕たちと一緒にいた方が安全でしょう。心強い騎士が二人もいるから」
「それは買いかぶり過ぎです」
「そうかな。動きが機敏で、頭も回る剣術が上手い若手騎士なら、部外者からでもいい評価を与えると思うよ」
ルーズニルは書類や本で溢れている机の上にある一通の封筒に手を触れた。それを見下ろしてから、フリートに視線を戻した。
「何事もなければ楽しい遠征になると思うよ。……そうなることを願おう」
「そうですね、良き船旅にしましょう。お忙しい中、失礼しました」
最後に念押しも込めてフリートは言ってから、部屋を出ていった。