2‐17 予言と推測の狭間で(2)
フリートが領主の部屋に行くと、やつれた顔で事後報告書を作成しているスルトがいた。その脇にはトルが頭を抱えて報告書を書き進めている。フリートたちが数日前に書いたものと同じだが、まだ書き終えていなかったらしい。
眉間にしわを寄せていたトルは、フリートを見るなり顔を明るくした。
「おう、フリート。もしかして俺の手伝いを――」
「するか馬鹿。自力でやれ。そんなに難しいことではないだろう」
「上手く書けねえんだよ。言葉が出てこないっていうか、文章能力がないっていうか。俺にお前のその知能をくれ!」
「嫌なことだ。せいぜい苦しみながら頑張って書け」
冷たく言い放つと、トルは落胆した表情を浮かべる。項垂れながら、渋々と報告書に視線を戻した。
フリートはスルトに向かい合うと、少しだけ顔を綻ばした。
「スルト領主、リディスの意識が戻りました」
「本当か? 様子はどうだ?」
「はい、元気そうです。体力が戻れば、以前と同じように振る舞ってくれるでしょう」
「そうか、良かった」
憑き物が落ちたような穏やかな表情をスルトは浮かべる。リディスが目覚めたことは、誰もが待ちわびたことだった。
「フリート、傍にいなくていいのか?」
「ロカセナがいるから大丈夫だ。あいつの方がリディスの不安定な心を察してくれるさ」
「それはそうだけどさ……」
トルが躊躇いがちにフリートの顔を覗き込む。その挙動不審さに幾分怪訝な表情になった。
「何が言いたい」
「いや、何て言うか……。集落でさ、ロカセナは静観していたけど、フリートはリディスに危害が及ぶかもしれないと思った時点で駆け寄ったから、その……」
「はっきり言えよ」
トルは少しだけ顔をじろじろと見た後に、わざとらしく溜息を吐いた。
「心当たりがないなら、別にいいや。行動は立派なのに頭の中が空っぽじゃ、一生無理だな。……いや、ただ鈍感なだけか」
「おい、何をよくわからないことを言っている。喧嘩でも売っているのか?」
「俺、食堂に行って、リディスの食事を作ってくるよう頼んできますね」
フリートの言葉をさらりとかわし、スルトに一言残していくと、トルは逃げるようにして部屋から出て行った。
呆気に取られていると、スルトがくすくすと笑っているのに気が付く。理由もわからないまま笑われて、領主相手でも少し不機嫌になる。
「そんなに愉快でしょうか」
「いや、すまない。楽しいやりとりだったもので。それより、トルは今回の戦いで役に立ったのかな?」
「役に立ちましたよ。ガルザとの戦いは相手が強すぎたため、力は発揮できませんでしたが、物事に対する判断などは的確だったと思います。また、他の戦闘ではウォーハンマーによる攻撃で、見事に相手を戦闘不能にさせていました」
余裕がなかったためトルの戦闘はほとんど見ていないが、相手がどれだけの傷で動けなくなったかを見れば、だいたい能力はわかるものだ。
「そうそう、火の精霊の加護を受けたと聞いたが、本当なのか?」
「本当です。あの火の魔宝珠に触れて生きていただけでなく、火の玉を放っていましたから。能力の大小はあるでしょうが、火を召喚できるようになったと思われます」
「それは嬉しい誤算だな」
精霊召喚ができるようになれば、傭兵としての仕事が格段に増える。スルトへの印象もより良くなるだろう。
「しかし、ガルザという男も相当厄介だな。またこちらの魔宝珠が狙われることがあるかもしれない。早急に彼の素性や足取りなどを抑える必要があるな」
それに対しては、フリートも同感だった。誰かに頼まれて火の魔宝珠を執拗に追い求めていた男。攻撃能力は非常に高く、何か打開策がなければ、再び対峙したときは全滅する危険性がある。
「人相や特徴はトルに描かせたのがあるから、それをムスヘイム領だけでなく、ミスガルム領にまで知らせておこう。もし火だけでなく四大元素すべての魔宝珠を対象としているなら、そちら側の土の魔宝珠も危ういかもしれない」
フリートはその言葉を聞きながら、沈痛な面持ちで頷いた。
四つの領に分かれているドラシル半島では、それぞれの領で加護を受けている精霊が違う。
ムスヘイム領では火の精霊の加護を受けており、そのおかげか火に関する能力は秀でている。製鉄業などは最も発展しており、それを他の領に売り込むことで貨幣を得ている。よく騎士団の鍛錬で使用する剣は、この土地の物を使っていた。
ミスガルム領では土の精霊の加護を受けているため、土に関する能力が発達している。最も自然豊かな地域であり、覆い茂った森が広がり、農業や畜産業も盛んな地域だ。
東にあるヨトンルム領では風の精霊の加護を受けている。心地よい風がよく吹いている、過ごしやすい領であるらしい。
最後に北にあるニルヘイム領では水の精霊の加護を受けている。雪で覆われている時期もあり、肌寒く、少し冷たい印象を受ける領だ。メリッグは水の精霊を扱っていることから、この領の出身者の可能性が高い。
四つの領で独自の特色を出している精霊たちだが、それらが宿っている大本の魔宝珠については、フリートでさえ知らなかった。普通に過ごしていれば、知らなくても問題はない内容だ。だが、もしかしたら今回の件のようなことが起こる可能性を危惧して、故意に隠しているのかもしれない。
「土の魔宝珠に関しては、おそらく王や姫が管理していると思いますので、今回の件を伝えれば何らかの対策はしてくれると思います」
「そちらの王族は、優れた術者とよく聞く。私のような間抜けなことはしないだろう」
王の力量はわからないが、姫については召喚した精霊を使い、事を鎮めているところを直に見たことがある。たまたま彼女が外に出てモンスターと対峙した際のことで、ほとんど予備動作がない状態で一瞬で還してしまったのだ。護衛として同行した騎士の面目が丸潰れの時でもあった。それから判断すると、姫がガルザの相手をしても、負けるとは考えにくい。
「そういえばスルト領主、自分たちは何を持って城に帰ればいいのでしょうか。状況によってはリディスの付き添いを一人だけ残して、残る一人は先に戻ります」
何気なく聞いたことだったが、スルトは難しい顔をして机の上にある手紙に視線を落とした。
「そのことなんだが、少し待ってくれないか。まだ数日は動けないだろう」
「わかりました。どうするかお決めになったら、ご連絡ください。ではそろそろ失礼します。お仕事中に失礼致しました」
「こちらこそ癒えていない体で、わざわざありがとう。彼女の状態が落ち着いたら、こちらから顔を出そう」
フリートは一礼して、軽やかとは言い切れない足取りで歩き始めた。扉を開けて閉めると、途端に気分が重くなる。できればもう少し時間を潰したかった。トルがいれば適当にガルザのことについて話でもしようと思ったが、彼はさっさと部屋を出て行ってしまった。肝心な時に役に立たない男である。
少し足を伸ばして飲み物でも持ってこようかと思い、足先を寝泊まりしている部屋ではなく、食堂に向けた。そしてリディスに依然として罪悪感を抱きながら歩き出した。
水差しを持った侍女を伴って部屋に戻ると、リディスは既に眠りについていた。見下ろすと頬に薄らと涙が流れた跡があるのに気づく。だが表情は穏やかで、胸の上下も先ほどよりも大きく、規則正しかった。きちんと眠りについている証しだろう。
水差しを適当なところに置かして侍女を引っ込ませると、フリートもベッドに横になった。それを見計らったようにロカセナは静かに口を開く。
「少しは落ち着いた?」
「何がだ。ただ報告とかをしていただけだ」
「ああ、そうだったね。……まだリディスちゃんの口から、僕たちと離れている間に何があったかは聞いていないけど、おそらく女性としては辛いことばかり経験していると思う。何か言わないと気が済まない性格だってわかっているけど、少しくらい我慢しろよ」
「わかっている……そんなの」
リディスに背を向けて、布団に潜り込む。
「……まあ、僕が落ち着かせておいたから。もう大丈夫だと思うよ」
それはフリートとロカセナの間に、何か決定的な隔たりが生まれたような言葉であった。