2‐15 煌く想いを火に込めて(3)
リディスの顔色は先ほどと変わらず悪いが、呼吸ははっきりしている。トルは躊躇いなく彼女に触れると、驚くくらい簡単に腕を握れた。すると彼女を包んでいた火の幻影はなくなった。
ほっとしつつも、すぐさま脈を取り、生きていることを確認する。疲労による発熱、刺された肩、そして外との空気を拒絶する火に包まれた。いつ死の淵に足を突っ込んでもおかしくなかったが、幸いにも命に別状はないようだ。
しかし、安堵するには程遠い戦況であり、モンスターが激しく動くことで発生する地響きや、剣が弾き合う音は未だに絶えない。
トルがフリートの方に顔を向けると、彼一人でガルザに果敢に立ち向かっていた。だが後退する際に踏み違えたのか、仰向けに倒れそうになる。容赦なくガルザは剣を向けたが、体を捻らせながらかわし、致命傷を負うことだけは免れた。
フリートに加勢しなくては――、そう思うがトルの力量では足手まといになり、一瞬でガルザに戦闘不能にさせられるだろう。メリッグの戦闘はどうかと考えたが、あのモンスターに接近戦を試みるのは難しそうに見えた。
このままフリートにもメリッグにも加勢はできないのだろうか。
『火の加護を受けているのよ。それを使おうとか思わないの? やり方は武器召喚と同じよ、想像しなさい』
トルの脳内に火の精霊の声が響く。その言葉に従い、頭の中にあるものを思い浮かべる。それはすぐに具現化し、掌に小さな火の玉が現れた。
フリートに斬りかかろうとしているガルザの頭に向かって、トルはそれを投げつけた。ガルザは飛んできた火の玉を見て驚愕の表情を浮かべたが、慌てずに剣圧で消し去る。立ち止まり、トルに向けて舌打ちをした。
「てめえ、もう少しなんだから、勝手にしゃしゃり出てくるんじゃねえよ!」
「それはこっちの勝手だろう! 危険なときに助太刀するのが仲間だ!」
そのような言葉、今まで言ったことがあっただろうか。
傭兵としての仕事はたいてい一人で行い、複数名でも単発のものが多かった。またトルには心の底から笑って過ごせる友達も、温かい食事を用意してくれる家族もいなかった。つまり他人と同じ時間を過ごすことはほとんどなかったのだ。
だが、今回は短くも濃密な時間を過ごしている。だから思わず仲間と叫んでしまったのだ。
ガルザは血が付いた剣を振り払うと、鼻で笑った。
「そうか。ならその大切な仲間を真っ先に殺してやろう」
視線が辛うじて立っているフリートの方に向いた。
瞬間、トルの脳内に火の精霊の声が流れた。言われた通りに手と口を動かし、見よう見まねで数個の火の玉を具現化させ、ガルザに投げつける。しかし、それらは意図も簡単にかき消されてしまった。
相手の間合いに飛び込んで武器を振りかざす時間がない今、数打ち当たれと言わんばかりにひたすら召喚して投げる。すぐにトルの体力は激減し、立つのもままならないほど呼吸が上がっていた。
召喚、特に精霊召喚は召喚者の能力に大きく左右される――昔、ぼんやり教えてもらったことが、今更になって記憶に蘇ってくる。トルは自分の不甲斐なさを感じて歯噛みした。
ガルザがフリートに近づく中、メリッグからの牽制で何度か氷の刃が放たれるが、すぐに溶けてしまう。彼女も体力が減少しており、長時間具現化するのも厳しいようだ。
メリッグ側の戦闘を見ると、二匹の狼のうち月の印が額にあったモンスターの足下は氷漬けにされていた。致命傷を与えて還すことは無理でも、足止めはできたのだろう。
けれどもそれ以上、彼女が何かをすることはなかった。常に余裕があったメリッグだが、今は眉間にしわを寄せて、苦しそうに立っている。綺麗な紺色の長い髪や服が埃まみれになっても、それを気にする素振りは見せなかった。
圧倒的な力を持った鳶色の髪の死神が、フリートに向かって歩いていく。彼はそれから逃げることなく、むしろ剣先を持ち上げて待ち構えていた。
隙がまったくないわけではなかった。
それが今なお、フリートの戦意を喪失させていない理由の一つである。
しかし状況は圧倒的に不利。メリッグやトルからの援護を受けても、状況は好転しなかった。視界の片隅にいる相棒や奥にいる金色の髪の少女が、辛うじて生きていることを目視で確認する。
左肩の痛みの影響で腕が麻痺しつつも、右手で持っていた剣に左手を添えた。
(おそらく終わる時は一瞬だ。それを上手く逆手に取れば、勝機はあるはずだ)
フリートからは前に出ず、相手の動きを伺っていると、シミターを持ったガルザは足を止めた。
「よくここまで耐えたな。それなりに楽しかったぜ。これで終わりだ。――じゃあな」
その言葉と同時に、ガルザは視界から消えた。
だが慌てることはない。短時間でも濃密に剣を合わせていたおかげで、彼がどちらから来るかの癖は読み切っていた。右から攻めてくるはずだ。
しかし彼の気配を再び感じた時、それは左から迫っていた。
(今までの動きはすべて囮か! 気づくのが遅すぎた!)
フリートは目前に迫った死を覚悟した。
その時、黒髪を揺らす風が吹いた。ほんのり生温い、湿気を帯びた風が。
瞬間、ガルザとフリートの間に火柱が立った。ガルザは慌てて離れる。
「次から次へと邪魔が……。今度は誰――」
洞窟を見渡すと、ガルザはある一点で止まって、目を丸くした。フリートもその先を見て思わず言葉を零す。
「リ、リディス……?」
金色の髪の女が、誰の支えもなく立っていた。発熱や出血等により、起き上がるのは困難なはずである。さらに目を見張ったのは、色鮮やかな金色の髪が輝きを増したことだ。品が良く、可愛いよりも美しい容姿を持つ女。白色のワンピース、そして薄らと赤く彩られた空気をまとっているのを見ると、まるで人外のもののように見えてしまう。
見とれている一同の前で、女は静かに微笑んだ――。
途端に穏やかな雰囲気を壊す叫び声が、洞窟内に轟き渡る。
「何だこれは! あ、熱いな、消えろ!」
声の主に顔を向けると、ガルザの右腕に炎が燃え上がっていた。叩いて消そうとするが、威力が衰える気配はない。しかしすぐに前触れもなく消えた。彼がほっとしたのも束の間、他の部位に同様の現象が起こる。
腕、足、腰、指先、足元等に火は移り、しばらく続いた結果、ガルザは全身に多数の軽度の火傷を負うことになった。負傷した影響で、スコルとハティのモンスターは姿を消している。
「畜生、舐めたまねをしやがって。女だからって、手加減なんかするか!」
『これ以上事を荒立てるのならば、私も容赦はしません』
リディスの口から出た声質にフリートは違和感を抱く。いつもより落ち着いており、声の高さがやや低い。
声は似ているが――別人の声だ。
フリートは警戒して見ると、その視線に気づいた彼女は軽く頭を下げた。
『すみません、フリート。少々リディスの体をお借りしています。彼を追い払い次第、私は消えましょう』
「は、はい。それよりも……」
あなたは誰ですか――。
その言葉を発する前に、ガルザがシミターを持って、憤怒の形相を向けていた。
「おい待て。オレを無視するとはいい度胸だな! もう皆殺しに――」
『すべてのものよ、在るべき処へ――還れ』
リディスがそっとガルザのシミターを指で示すと、そこから炎が舞い上がった。あまりの熱さに彼はシミターを落とす。地面に付く前に、それはその場から消えてしまった。
ガルザは再び召喚しようと声を発するが、何も出てこなかった。睨み付けながらぽつりと呟く。
「おい、何をした」
『ここは神聖な地。本来なら争いを禁止している場です。そのためこの地にある召喚したものを、在るべき処に還させて頂きました』
フリートは視線を下ろすと、手に持っていたバスタードソードが消えていることに気づく。トルのウォーハンマーも消えていた。手元とリディスに視線が交互に移動する。だが彼女は何も答えず、ガルザをじっと見つめていた。
今、ガルザの攻撃手段は携帯している短剣しかない。一方、リディスに乗り移っている者は、遠く離れたところから炎を発せられる。それらを見て、さすがに分が悪くなったと感じたのだろう。ガルザはじりじりと後ろ歩きで入口に移動しつつ、一同を鋭い目つきで見た。
「魔宝珠の欠片はまた今度だ。フリート、次会ったら、もっと楽しい死闘を繰り広げようぜ。あばよ」
それだけ言い捨てて、ガルザはフリートたちに背を向けて洞窟から出て行った。
あとに残されたのは、満身創痍の五人の若者たちだけだった。
ガルザの後ろ姿を見届けて、殺気が感じなくなったことを実感すると、フリートはリディスのもとに駆けつけた。輝いていた金色の髪が落ち着きを見せ始めている。彼女に憑りついていた何かが消えようとしているのかもしれない。
彼女が元通りになるのは嬉しいが、その前に聞かなくてはならなかった。
「待ってくれ、貴女は誰なんだ!?」
フリートが息も荒々しく吐き出しながら尋ねると、どことなく儚げな笑みを浮かべられた。
『――すべてが揃う際、その刻は訪れる。どのような展開になるかは、予言を用いても当てることはできないけれど、その時は彼女の隣に必ずいてあげてください』
そう言い、瞳を閉じると、リディスは崩れるように倒れ込んだ。フリートは彼女が地面に着く前に受け止める。直に感じる温もりが、彼女は生きているという事実を教えてくれた。
誰もが全身傷だらけで疲労も抱えているが、皆、生き残れた。
* * *
ガルザとの死闘の後は、スルトに助けられたと言っても過言ではない。
左肩の斬り傷を始めとして全身に傷を負っているフリート、慣れない召喚に精神を使い果たしたトル、平常心を装っているように見えるが、たまにふらつくメリッグ、そして脇腹を斬られ動くことがままならないロカセナといった面子であり、洞窟を出るのも困難な一同だ。
リディスをガルザの手から奪い返したことで、ほっとしたフリートは意識をどうにか保ちながら、今後のことについて思案しているときに、スルトたちが駆けつけてくれたのである。
全員が酷い怪我を負っているのを見て、彼は顔を真っ青にしていた。
「まさか……」
「誰も死んでいませんよ」
フリートはリディスを抱えて座り込んだまま淡々と答える。
「ですが傷を負っているのは事実です。……すみません、リディスと火の魔宝珠は守りきりましたが、俺たち、屋敷まで歩くのは難しそうです」
「いや生きていれば充分だ。――彼らを丁重に屋敷にお連れしろ。医者にも治療の準備をしろと伝えておけ」
スルトがてきぱきと指示をすると、共に付いてきた傭兵たちが一斉に散らばり、次々と怪我人を担ぎ上げる。それを拒否したメリッグ以外は、洞窟の外へ早々に連れ出された。
洞窟の中にはメリッグとスルト、そして数人の傭兵だけが残る。スルトが火の魔宝珠を見ているメリッグに声をかけた。
「お怪我や体調等は大丈夫か?」
「少々無茶をしましたから、長時間立ち続けるのは辛いところです。洞窟の外までは自分の足で歩いていきますが、外に出てからは屋敷まで連れて行って頂けますか?」
「もちろん。ムスヘイム領の危機を救ってくれた一人として丁重に扱おう。その前に少し用を済まさせてもらう」
スルトは彼女の横を通り、大きな火の魔宝珠の前に立つ。深々と一礼してから、小さなナイフを取り出し、躊躇いもなく突き立たる。魔宝珠をナイフで数回叩くと、そこから赤色の欠片が落ちた。それをあと二度ほど繰り返すと、手のひらで包めるくらいの欠片が三つ地面に転がった。それを持ってきた火に耐性がある布に包み込んでポケットに入れ込む。
「なぜ欠片を作るのでしょうか。欠片程度の大きさでも、誰かの手に渡ったら危険と言っていませんでしたか?」
メリッグは領主に核心を突いた質問をする。スルトは魔宝珠から一歩離れた後に、問いを返した。
「その通りだ。だが、状況によっては、やらなければならないのだよ」
「そのやらねばならないこととは、今後ドラシル半島すべてを巻き込んだ出来事と関係があるのでしょうか?」
「予言者なら、それくらい予言したらどうだ? 私は詳しいことは知らないよ」
スルトは持ってきた一枚の羊皮紙を掲げて口を開いた。
「――再び静かな時をお過ごしなされ。そして願わくば、我らの危機の時に再び参上して頂きますように。――今は在るべきところに、お戻りくださいませ」
火の魔宝珠が赤く光輝いた。目をつぶりかけたが、すぐに光はやみ、どことなく暗い印象を受ける魔宝珠に戻った。
「誰かに触れられないよう、封印をし直したのですね」
「解除の呪文も同時に変えた。あの男がこの魔宝珠に触れることはしばらくないだろ」
「でもまた強硬的な手段に出たら、どうしますの? 例えば貴方の命を盾にされたら」
「その時は全力で抵抗する。戦力差があっても、乗り切れる可能性はあると教えてもらったからな」
ふふっと笑いながら、スルトはメリッグに背を向けて洞窟を出る。それを少しつまらなそうな顔で眺めた。
気配を完全に絶っているため、直接的には感じられないが、第六感としてあの火の精霊がすぐ傍にいることは気づいている。
外から流れ込んでくる風が感じ取れるのは、精霊が意図的に流しているからだろう。
「そして彼女らは一歩進んだ。前進の一歩か、後退の一歩かはわからず」
それを魔宝珠に向かって言ってから、メリッグも洞窟を後にした。