後日談‐3 静かに擦れ違う関係(3)
ミディスラシールから衝撃的な内容を告げられた後、リディスは肩を落としながら廊下を歩いていた。
ふと立ち止まり、首から下げている鍵の形をしたペンダントを握りしめる。仄かな温もりを感じ、少しだけ心が和らいだ。ヒルダ側がフリートにどのような接近をしてくるかわからないが、彼女たちの狙いや動きが見極められるまでは、下手に動かない方がいいかもしれない。
廊下を曲がり、騎士団の部隊ごとの部屋の前を通り過ぎていると、第二部隊の部屋から出てきた、眼鏡をかけた亜麻色の髪の青年と鉢合わせた。長かった髪は短く切り揃えられたためか、以前よりも若々しく見える。
彼はリディスを見て、笑顔で声をかけてきた。
「リディスさん、お久しぶり。城に来ていたんだね」
「お久しぶりです。ルーズニルさんこそ、いつからこちらに? ヨトンルム領での移動学校は一段落したのですか?」
「そんなところかな。最近は今後の授業内容について検討しているところ。自分も改めて勉強し直したいし、クラルに聞きたいこともあったから、しばらくこっちにいるつもり」
「そうですか。また色々とお話を聞かせてくださいね」
「リディスさんもね。――そうそう、スレイヤがいつ彼との結婚式を開くのか気にしていたよ。お腹が大きくなって、参加できなかったら嫌だとも言っていたね」
リディスは一瞬表情を固まらせた後に首を横に振った。
「それに関しては何も……。用事があるのでここら辺で失礼します」
頭を下げると足早に歩き出し、ルーズニルからそそくさと離れた。
歩いている途中で、質問し損ねたのに気づき、頭を抱え込んだ。ルーズニルの言い方から推測すると、スレイヤは第二子をお腹に宿したいのかもしれない。リディスにとって大切な槍術の師匠だ。彼女に関する見過ごせない情報くらいは、はっきりするべきだった。
自分の頭の回らなさに呆れているうちに、第三部隊の部屋の前に着いた。
軽くノックをしてからドアを開ける。中にいる人はいつもより少なかった。数名いるが気軽に話せる相手はおらず、皆黙々と書類をめくっていた。
リディスは手持ちぶさたにしてその場に立っていると、ドアが開かれ、入ってきた人物と視線があった。
「あらリディス、こんにちは。用件はフリートよね?」
引き締まった体に赤い短髪の女性は、リディスに対して微笑みながら聞いてきた。
「こんにちは、セリオーヌさん。そうです、フリートに用なんですけど……鍛錬場ですか?」
「そうよ。急に鍛錬が入って、私は一足先に戻ったところ。隊長、久々にフリートをしごけて楽しそうだった」
苦笑しながらセリオーヌは言う。カルロットが楽しそうに剣を振っている姿が容易に想像できる。
リディスは手紙が入っている鞄を握りしめながら、ぽつりと呟いた。
「またフリートを外に出させたら、カルロット隊長、ご機嫌斜めになりますよね?」
「姫からの指示ならしょうがないわよ。後々のフリートへの当たりが強くなるだけだから、別にいいでしょ」
「そうだそうだ! 別にいいぞ、二人でどこかに行ったとしても、戻ってくればそれでいい! 戻ってきたら、みっちりしごくからな!」
部屋の中に入ってきた左頬に傷がある男性カルロットは、口元を釣り上げる。一瞬背筋に感じた殺気は気のせいだと思いたい。もし気のせいでなければ、フリートの身に更なる危険が降りかかる可能性がある。危険な任務が少なくなった今日、城内の鍛錬中に大怪我を負ったなど……笑える話ではなかった。
それから少し遅れて騎士たちが続々と入ってきた。誰もが汗をかき、疲れ切った表情をしている。その様子だけでも、激しい鍛錬だったと想像することができた。
ほどなくして人の流れが途切れる。だが、リディスの目的の人物はまだ入ってこなかった。セリオーヌに視線を送ると首を傾げられる。
「片づけ班ではないから、そう遅くならずに戻ってくるはずよ?」
リディスは廊下に顔を出して左右を見ると、左側のある一角で視線が止まった。ヒルダがタオルと飲み物を片手に、笑顔でフリートに話しかけているのだ。渋い顔をしながらフリートはその申し出を断っている。
「また来たの、あの子……」
リディスのすぐ後ろから、微妙に嫌悪がこもったセリオーヌの声が聞こえた。
「集中力が途切れるから、あれだけ口を酸っぱくして、鍛錬中やその前後には来るなと言ったのに。……フリート、女の子の扱いがよくわからないから、上手く距離を置けていないのよね」
「そんなに頻繁に足を運ばれているのですか?」
「常識がないくらいにね」
セリオーヌは盛大に溜息を吐く。彼女の後ろでは、腕を組んだカルロットが眉間にしわを寄せて立っていた。
「いい加減にどうにかしろ。見ているだけでいらいらしてくる。俺の視界から消えさせろ」
「まあまあ隊長、相手はあの貿易商のお嬢さんなんですよ? フリートの立場からすると、邪険に扱えないんです。もう少しだけ目を瞑ってやってください」
セリオーヌは宥めるよう言うが、カルロットは聞く耳持たずに、依然としてむすっとした表情をしていた。
リディスはセリオーヌの耳元に口を寄せた。
「隊長、機嫌がすこぶる悪いようですけど、何かあったんですか?」
「前に模擬戦をしている最中にフリートが飛ばされた時があって。激しい飛ばされ方だったけど、フリートは白旗挙げていないし、私たちから見ても動ける状態だったから続行していたの。そしたら彼女が飛び込んできて、『こんなに酷い怪我を負っているのに、まだ続けるんですか!』みたいなことを言われて模擬戦は中止。これから盛り上がるってところで止められて、隊長はお冠なの」
「ああ、なるほど……」
追いつめられたときこそ、人は真の力を発揮するとカルロットは言っている。それを楽しみしていたのに、目の前でその場面を奪われたら、怒りを抱くのは当然だった。
納得していると、突然カルロットがリディスに鋭い視線を向けてきた。思わず姿勢を正す。
「おいリディス、とっととフリートと結婚しろ。そうしたらすべて丸く収まる」
「は、はい!? 何を突然!」
まさかカルロットからそのような発言が、しかも直球すぎる言葉がでるとは思ってもいなかった。
顔を真っ赤にして立ち尽くしていると、さらに続けてきた。
「あいつが騎士団から出て行くのは寂しい。けどまあ、そっちの町で強い自警団でも作ってくれれば、俺のところの隊と手合わせするっていう楽しみも出てくるから、俺はいいと思っている」
「話の筋が読めないのですが……」
「お前とくっつくってことは、婿に入るってことだろう? フリートは兄貴が嫁さんをもらっている次男坊で、お前は町を納める父を持つ一人娘。当然の成り行きだろ?」
「ですから、話が飛びすぎて、理解しきれないのですが……」
リディスは顔をひきつらせながら辛うじて返す。部屋の中にいる多くの騎士たちが、カルロットの言葉に耳を傾けている。中にはにやけている者までいた。明らかにこちらの話の展開を楽しんでいる。
ここは早々に部屋を去った方がいいと思っていると、ドアが大きく開かれ、もう一人の当事者が現れた。
「リディス、入り口で突っ立っているな、邪魔だ。座って待っていろ」
「その言い方はないんじゃない? 遅いなと思って待っていたのに。大怪我でもしたかと心配したのよ!」
淀みなく言いきると、フリートは罰が悪そうな表情をした。リディスを心配させてしまったという申し訳ない感情を抱いたからか、それとも誰かと立ち話をして遅れたという、きまりが悪い表情なのか――。
二人で黙り込んでいると、お互いの頭に大きな手が乗せられた。
「痴話喧嘩はやめておけ。笑いの種にされたいのか?」
「誤解を招くような言い方はやめてください、隊長!」
躊躇わずに発せられたフリートの言葉は、リディスの胸に突き刺さった。
いつもと同じように返しているが、今日はやけに鮮明に聞こえた。
照れ隠しではなく、本当のことを言っているのではないだろうか。
カルロットは二人の顔の間に割り込むと、まずフリートに顔を向けた。
「さて、ここで通達だ。フリート、とりあえずお前、明日は休みだ。状況が状況なら、数日休んでも構わない」
「はい?」
「帰ってきた早々で悪いが、リディスと一緒にお前の相棒に手紙を渡してこい。場合によっては連れてきてもいい。俺が許す」
「手紙を渡しに行くのはわかりますが、連れてくるのはどうして……」
フリートがちらりと部屋を見渡す。その発言を聞いて、ほとんどの者が驚いた表情をしていたが、嫌悪の表情を浮かべている者が数名いた。
無理もない。三年前の皆既月食の夜、理由はどうあれ話題に出した人物は、騎士団の何名かに剣を向けた。たとえ将来的に多くの人間を護るために必要な行為だったとしても、その事実は消えないのだ。
カルロットは背後から冷たい視線を感じているはずだが、気にも留めずに話を続けた。
「どのような結末になるかはわからないが、一度会わせる必要があるからだ。――そう思うよな、リディス?」
リディスは思案した後に、首を縦に振った。ある二人の関係を知り、今の彼女の立場を知っていれば、頷けるものだった。
カルロットはミディスラシールの縁談話を知っている。その上で彼を連れてこいと言っているのだ。
話の意図が掴めないフリートはリディスに視線を向けてきた。この場で言うのはさすがに都合が悪い内容だ。
「あとで話すから……。……あの、カルロット隊長、あちらが嫌がった場合には、無理に連れてこなくていいですよね?」
「一種の拒絶の姿勢だから、そのときは構わねぇ。返事だけもらって戻ってこい」
「わかりました。――フリートが大丈夫なら、明日の朝にでも出たいけど、いいかな?」
「ああ、むしろそうしてくれると有り難い。まだ周囲が静かな早朝に出よう」
早口で言う姿は、まるで何かから逃れるかのような言い方だった。
* * *
翌朝、まだ町が朝靄に包まれている中、リディスとフリートは足早に裏門に向かっていた。手紙を携えて東に向かう先にあるのは、魔宝樹があるアスガルム領。そこにいる人間にこの手紙を渡し、場合によっては連れて帰ることになっている。
すっかり一人乗馬に慣れたリディスは、軽く馬を走らせてからフリートのもとに寄った。
「それなりに様になったな。俺に引っ付いて乗っていた時が懐かしいぜ」
「随分昔のことを話題に出さないで」
「一緒に乗れるのも楽しかったんだがな」
髪をかき上げて、平然とさらりと気恥ずかしい言葉を出す。時折でる照れを見るのが好きだった。
だが今日の穏やかな時間は、そう長続きはしなかった。
「フリート様!」
静かな朝にはそぐわない甲高い声が耳に入ってくる。フリートは非常に不機嫌そうな表情で、馬に寄ってきた少女を見下ろした。
息を切らせているヒルダの表情は爛々としている。彼女は布が被せられているバスケットを差し出した。
「軽食でございます。朝早いと伺いましたので、ご飯は食べていないと思い」
「朝食は既に食べた。俺が早いって誰から聞いたんだ?」
怒気を強めて言うが、ヒルダはまったく害さずに返す。
「騎士の方からですわ。色々と教えてくださる親切な方がいらっしゃいますの」
フリートの拳が力強く握りしめられる。セルダはさらにバスケットを近づけた。
「道中、小腹が空いたときにでも……」
「荷物になるだけだ、いらない。……気を使ってくれるのは有り難いが、俺と君では考えが違いすぎる。お願いだからもう――」
「考えが違うのならば、私がフリート様の考えに合わせるよう、努力しますわ。フリート様に気に入ってもらえるよう、頑張りますわ!」
「だからどうして俺なんだ! いつどこで将来を誓い合った? そんな記憶ない。いい加減に俺にかま――」
「愛しています」
簡潔な一言はリディスとフリートの耳にたしかに入った。ヒルダは真剣な表情で頬を赤らめながら、フリートのことを見据えている。彼は視線を逸らさずに見返していた。
やがてヒルダはバスケットを引っ込めると、深々と頭を下げた。
「ご無事の帰城を願っております。お仲間様とお気をつけて」
そのときほんの僅かだが、ヒルダからリディスに意識が向かれる。瞬きしているうちに、その意識は逸らされた。
フリートが馬を歩かせ始めたので、リディスもそれに倣って後を追いかける。ヒルダの視線は未だに背後から感じられていた。フリートは小声でこちらに向かって囁く。
「……悪かったな、朝から」
「別に大丈夫。さあ、早く行こう」
素っ気ない言葉で、努めて平静を装って返す。やがてフリートは門から勢いよく飛び出していった。
陽がゆっくりと上昇する中、二頭の馬が草原を進んでいく。しかしその間隔がいつもより開いていることに、リディスとフリートは気づいていなかった。