8‐22 扉を閉じる鍵
ミディスラシールを抱えて移動しているスキールニルに駆け寄ると、彼女は肩で呼吸しながら目を開けた。
「どうしたの、リディス……」
「ミディスラシール姫、詠唱文が書かれた紙、もう一枚持っていますよね?」
うっすらと開いていた目が僅かに開いた。リディスは感情をいれずに事実を述べる。
「ロカセナの持っていた紙が、光の線の攻撃によって消失しました」
ミディスラシールは苦悶に満ちた表情で、ポケットに手を突っ込む。その状態で数瞬止まり、躊躇いながら封筒を一通引き抜いた。封が切られているそれをじっと見つめている。
リディスは踏み出し、それを彼女の手から抜き取った。ミディスラシールの手が空を切った。
呆然としている彼女から一歩下がり、中身を取り出す。古代文字で書かれている上に、現代の言葉による訳が立体的に浮き上がっていた。軽く触れてもその文字は消えない。何らかの召喚が施されているようだ。
リディスはさらに一歩下がり、ラグナレクの様子を盗み見た。ミディスラシールは顔をひきつらせる。
「何をするの、リディス。私も一緒に……!」
「これから行うことは一人でも不可能ではないので、他の人の力添えがなくても大丈夫ですよ」
「けど、そんなことしたら……!」
「ミディスラシール姫は城に戻って、国王様たちと今後について再び作戦を練ってください。貴女は生き続けて、民の幸せを考えるべき人なんですよ」
「貴女だって町長の跡継ぎで、上に立つ者でしょう!」
「そうですね。でも運命には逆らえません」
「運命に逆らってこそ、導ける未来もあるはずよ!」
ミディスラシールは起きあがろうとするが、痛みが全身に走ったのか、すぐにぐったりとし、スキールニルの腕の中に大人しく収まった。
彼女と話したかったことはたくさんあるが、時間がない。
背を向けると、背中越しから涙声で言葉をかけられる。
「……ごめんなさい……」
リディスはちらりと視線をやると、静かに笑った。
「――今までありがとう、お姉ちゃん」
その場から走り去り、ミディスラシールたちの姿が小さくなってから、リディスは紙を広げてゆっくり歩き出した。ロカセナから受け取ったものと、自分のポケットから取り出した四つの石がそれぞれ浮かび上がる。一組はリディスを囲むようにして四方に移動し、もう一組はスピアの先端の周りに移動した。
リディスは右手でスピアを、左手で紙を持って読み始める。
「遠い、遠い昔から――世界創世の時代から存在し、人々に恩恵を与えている樹があった」
一般的に人々に言い伝えられている文から始まる詠唱文。自然と親しみが感じられる文章だ。
黒髪の青年がリディスの行動を見つつ、ラグナレクが召喚したモンスターを次々と還していた。全身傷だらけで動くのも困難なほどだが、彼は剣を振っている。リディスはそれを一瞥して、くぼ地の中心部に進んだ。
「それは魔宝樹と呼ばれ、そこから生み出される宝珠を人々は受け取り、使い終わった宝珠は樹に還していた」
詠唱文というよりも、誰かが後世のために樹のことを伝えるために書き綴った文のようだ。一度考えを正すことで、未来を正しく捉えて欲しいのかもしれない。
「一方、精霊たちは樹から力をもらい、その力を人々に加護として分け与えていた。土の精霊は温もりある土を、風の精霊は柔らかな風を、火の精霊は暖かな火を、そして水の精霊は冷たい水を――。それらの恩恵を人々は感謝しながら感じ取っていた」
フリートは一通りモンスターを還すと、右足を軽く引きずりながら寄ってくる。リディスの周りで光を放っている欠片が浮かんでいるのを見て、困惑した表情を浮かべていた。
「……だが時をへて、穏やかな環境を脅かすものが出てきた」
リディスは恐れもせずラグナレクを見る。
「恩恵を受け続けるためには、そのものをこの大地から隔離せねばならない。扉の先に追いやらねばならない」
ラグナレクの視線がリディスに向かれる。そしてそれが軽く指を動かすと、光の線が出た。だがその線はリディスを護る四つの欠片によって跳ね返された。
今まで表情を見せなかったラグナレクが、初めて目を見開いている。
「創世の時代から存在する魔宝樹より創られし扉よ、在りし日を取り戻すために、今こそ開け――!」
リディスははっきり言い放つと、半開きだった扉が開き始めた。ラグナレクは微動だにしなくなる。
開き出すと同時に、胸にずきりと痛みが走った。口を噤んで、漏れそうになる声を押し込める。
「おい、リディス、何をするつもりだ?」
険しい顔をしたフリートが近づいてくる。
「何って……未来を作るための道作り?」
口元を緩めたが、フリートは固い表情で問い返す。
「その未来にお前はいるのか」
「愚問すぎるわよ、その問いは」
リディスは平静を装いながら、呆然と立ち尽くしているフリートの横を悠々と通っていった。
詠唱を終え、扉を開いてラグナレクの動きを止めれば、あとは最後段階のみである。
ラグナレクをこの身を使って封印しても、この地に魔宝樹がない状態で、どの程度安寧の時を過ごせるかはわからない。ただ、少なくとも今、ここで傷つき、倒れている人たちを回復させる時間くらいは確保できるだろう。
足を踏み締めながらラグナレクに近づいていくと、突然右腕を力強く握りしめられた。
リディスが振り返ると、黒髪の青年が左手で握りしめ、首を横に振りながら主張していた。
行くな――と。
その訴えるような黒色の瞳に、リディスはいつから惹かれたのだろうか――。
出会った頃から口を開けば喧嘩ばかり。こちらが無茶をすれば怒るくせに、彼が無茶して怪我をしたのを心配してもそっぽを向く。人への指摘が多すぎて、面倒な人だと感じた時期もあった。
しかし彼のそのような態度は、他人への思いやりと、誰も死んで欲しくないという思いの裏返しだったのだ。
努力して手に入れた強さを兼ね備えている彼に、当初は認めてもらいたく、また迷惑をかけたくなくて日々必死だった。スピアの技術も中途半端、還術もロカセナの力とはいえ、ほとんどできなくなった時もあった。
だが還術をするのが精神的に厳しくても、相手がどんなに格上であっても、考えを巡らせて自分ができる最大限のことをしていった。
やがてその行動が認められ、背中を護ると言われた時は、どれほど嬉しかっただろうか。
そして同時にはっきり気づいた。
リディスの運命を切り開いてくれた彼のことが、誰よりも大切であるということを。
だからこそ、生き続けて欲しい――。
今回、扉を開けてラグナレクを封印するのは、この大地の未来を護るためと言っておきながら、本当は彼の未来を護るという、とても個人的なものだった。
そんな彼もリディスの未来を護るために必死に考え、戦ってくれている。その覚悟を無駄にしないために、共に生きる道を探ろうとしていた時もあった。しかし、それも限界である。
フリートに強く腕を掴まれているため、なかなかふりほどけない。それならば嫌でも隙を作らせるまでだ。
リディスは反転し、フリートと真正面から対面する。思い留まったと感じたのか、一瞬ほっとした表情をしている彼を見てから、一歩近づいて胸元に入り込んだ。
驚いている彼の右肩に左手を添え、背伸びをする。
そして顔を寄せて、彼の唇を自分の唇でそっと塞いだ。
どちらかの血が流れ込んだのか、二人にとっての初めての口づけは血の味となった。
ゆっくり離すと、目を大きく開いているフリートの姿があった。魂が抜けかかっている彼の手から逃げることなど容易である。右腕を振り払い、左手で軽くフリートを突き飛ばした。
そこでようやく我に戻ったフリートは手を再び伸ばす。だが、すでに数歩下がっていたリディスの体を掴むことはできなかった。
「待てリディス! 俺は……お前に言いたいことが……!」
「言わなくていいよ。その言葉は飲み込んで。そして私のことは全部忘れて」
瞼の裏が熱くなるが、少しでも安心させるために微笑を浮かべる。
言葉を探しているフリートを見ながら、一歩、一歩着実に彼から離れていく。
今まで過ごした記憶が唐突に蘇ってくる。それを振り払うかのように、首を横に振った。
フリートはよろめきながら歩きだす。
「お前のことを忘れるなんて、俺には一生できない。だって俺に正しい道を示してくれたのは、お前だから。――俺にとっての道標は、お前なんだよ!」
リディスの頬に一筋の涙が流れた。
もはや彼と対面し続けるのも辛い。震える唇を必死に動かす。
「……違うよ、フリート。道を示したのは私だけじゃない。みんなの力があってこそだよ。むしろ――」
最後の想いを伝えるために、はっきりと口を開いた。
「フリートが私の運命の扉を開けてくれた。貴方の光が私をここまで導いてくれた。たとえどんな結果であろうとも、私は貴方と出会えて幸せだった。本当に今までありがとう。――さようなら」
背を向けて、流れ出る涙を誰にも見せないようにしながら走り出した。
スピアを握りしめ、目の前に意識を集中することで、気を紛らわせようとする。だが流れる量は変わらない。はちきれそうになる想いも変わらない。
悲しみを抱きながらも、目的を遂行するためにリディスは走った。
すぐそこにラグナレクと黒い空間を覗かせている扉がある。
四大元素の欠片によってスピアの先端に力が集まりだし、切っ先は光り輝き始めた。
「一緒に行こう、ラグナレク。私も一緒にいるから寂しくはない。人間たちの不幸を共に背負おう」
勢いを付けて飛び出し、ラグナレクの腹部にスピアを突き刺した。
激しい光がまずリディスの視界を奪い、その後周囲を包み始める。ラグナレクの姿が見えなくなるが、刺さっている僅かな感触だけが頼りだった。
いつの間にか涙は乾き、出会った多くの人々の顔が脳裏を横切っていく。
最後に現れたのはトルやメリッグ、ルーズニル、そしてミディスラシールやロカセナ、フリートだった。
共に旅をし、意見をぶつけ合い、死闘をかいくぐってきた顔ぶれ。もはや会うことは二度とないだろう。
最後に思い出せて良かったと思いながら、リディスの意識も光に包まれていった。