7‐12 隠れ人の住まう場所(2)
フリートたちは道中モンスターと遭遇することなく、馬を走らせることができていた。ミディスラシールとメリッグの結界だけでなく、ケルヴィーに仕える風の精霊シルが風を操作することで、不自然な流れを作らないよう配慮してくれたためだ。モンスターは五感を使って人間たちを感じ取る。特に風の流れには敏感なものが多かった。
フリートの経験に基づく判断によれば、アスガルム領民が扱う精霊召喚は効率が良く、ミディスラシールが使用する精霊の力よりも無駄がなかった。心の底から考えを通じ合うことで、最小の力の入れ方で最大限の力を発揮できるのかもしれない。
昇りきった陽を背に、五頭の馬は大地を駆けて行く。目の前に森が現れようとも躊躇うことなく突入した。視界が悪くなり、先頭を走っていたスキールニルがやや速度を落としたが、着実に前へ進んだ。近くに川があるのか、せせらぎが微かに聞こえてくる。状況が状況でなければ、ゆっくり休みたい場所だった。
しばらく森の中を駆けていると、ケルヴィーが速度を落とすよう指示してくる。それに従い徐々に遅くしている途中で、一軒の小屋が見えてきた。その小屋に誰かいるのか、窓に人影が映っていた。
やがて小屋の前に到着すると、ケルヴィーは馬から降り、木製のドアをノックした。
「おはようございます。昨日の夕方に連絡を入れた、ケルヴィー・ドナウと申します」
「――合い言葉は」
ドア越しから低い男の声が聞こえてくる。ケルヴィーはドアを二回連続して叩くのを三回続け、口を開いた。
「レーラズの樹に希望は灯る」
そう言葉を発すると、ドアが開き、中から一人の中年の男性が現れた。無精ひげを生やした巨体の彼の腰には剣が二本帯びている。
「急ぎの用事とはいえ、無茶しながら来やがって。大丈夫だったか?」
「強力な結界を張る優秀な人たちが一緒でしたから、大丈夫でした」
男の視線が馬から降りたフリートたちに向けられる。視線が合うと、皆は軽く会釈をした。
「礼儀正しそうな奴らだな。……さて、この馬たちを世話するんだな。どれくらいの期間だ?」
「早くて半日。あの方の状態によっては一晩跨ぐかもしれない」
「最近あまり調子は良くないって聞いているから、長めに考えておこう」
「よろしくお願いします。――皆さん、手綱をこの人に渡してください」
ケルヴィーの指示にフリートたちはてきぱきと従う。全員が手渡したのを確認すると、彼は森の奥を指した。
「これから少しだけ徒歩で移動します。目的の場所には馬を置いておく場所がないもので」
「ケルヴィー、こちらの方も君と同じ?」
ルーズニルがちらりと男を見て尋ねると、二人は首を縦に振った。
「彼は趣味で狩猟をしながら、こっちの小屋にいるんだ。馬の扱いにも慣れているから、少しの間なら預かってくれる」
「何やら急ぎの用らしいし、ケルヴィーの知り合いなら引き受けてやるよ。さあ、とっとと行きな」
男にせかされながら、ケルヴィーは森の先へ向かった。フリートたちは彼の背中を追いかける。
森の中に住まう狩人の存在もよく聞く話だ。他の領民出身だと言われても、誰も疑わないだろう。
一方、男は軽い口調で発している言葉とは裏腹に隙がなかった。もしかしたらこれから行く場所の番人を兼ねているのかもしれない。
森を抜けると、波の音が聞こえてくる。行く手を遮っている壁を何度も激しく叩きつけていた。
「――海?」
「そう、ヨトンルム領の東側にある海だよ」
リディスの呟きにケルヴィーが腰に手を当てて答える。崖から先は一面青々とした海が広がっていた。
すべての生き物の始まりの場所であると言われている海――、しみじみと見るとこみ上げてくる思いがある。
ケルヴィーは崖の傍まで寄ると、指で真っ直ぐ下を示した。そこには美しい砂浜がある。しかし下まで降りる階段などはない。どうすればいいかわからず、一同はその場で途方に暮れていた。
「ケルヴィー、どうするつもりだい?」
「――シル!」
ルーズニルの問いを受けたケルヴィーがある名を呼ぶと、彼の隣に小さな風の精霊シルが現れた。彼女は少々不機嫌そうな顔で、フリートたちを見渡す。
「ケル兄も含めて九人。三回に分けてもいい?」
「モンスターもいないし大丈夫。いいよ、ゆっくりと確実によろしく」
ケルヴィーがルーズニルとメリッグ、そしてトルを先に進ませる。シルが両手を前に掲げると、予告もなく三人の足が地面から離れた。
目を丸くするルーズニルとメリッグに、きょろきょろと辺りを見渡すトル。シルが操る風により、宙に浮かび上がらせられたのだ。三人は崖の先まで移動させられると、そこから少しずつ降下していった。
フリートたちはそれを上から見守る。三人を包むかのように微かに風が渦巻いていた。
トルは未だに慌てふためいており、それに気づいたメリッグが背中を強く叩いた後に、彼の服をそっと摘んだ。トルは別の意味で驚いており、目を瞬かせながらそっぽを向いている彼女を見つめている。ルーズニルはその二人の様子をにこにこしながら眺めていた。
ほどなくして三人は無事に砂浜に降り立つことができた。そこでシルは一息吐く。
ミディスラシールは一連の様子を眺めて、感嘆の声を漏らす。
「能力がある人がいないと、下には降りられませんね。普通の人なら間違いなく海に落ちます」
「すみません、警戒心が強すぎて。ですが、今まで領民たちがされたことも、わかってあげてください」
「……わかっているつもりです。私も幾度となく血筋や育ちの関係で、危険な目にあいましたから」
ミディスラシールはフードを脱ぎ、金色の髪を露わにした。風によって巻かれた美しい髪がなびかれる。
「ある意味、貴女もおれたちと似たような立場なのかもしれませんね」
一休みしていたシルが再び手を前に広げると、今度はミディスラシールとスキールニル、そしてセリオーヌが砂浜へ降りていった。一度見た光景であるため、特に驚きもせずフリートたちは眺めていた。
「ケルヴィーさん、砂浜に到着した後はどうするんですか?」
リディスは聞いたが、彼は微笑んだままだった。辿り着くまでには、まだいくつかの行程があるらしい。
ミディスラシールたちを降ろし、シルの体力が再び回復すると、最後にフリートとリディス、そしてケルヴィーがシルを伴って降りていく。宙を浮いているのに戸惑いはあったが、隣にいる娘がそっと寄り添ってきたため、別の意味で緊張してしまった。下を見ればトルがにやついた表情で見ている。なぜか非常に気に食わない。あとで一度ぶん殴ろうかと思い、フリートはぎゅっと握り拳を作っていた。
砂浜に降りると、リディスはすぐに離れ、一面に広がる海を眺めていた。今まで見た海よりも青く澄んでいる。思わず足を止めて、じっくり見てしまうのも当然だろう。
全員が同じ場所に揃ったところで、ケルヴィーは海に沿って砂浜の上を歩き始める。だが、すぐに海に阻まれて、行き止まりになってしまう。そこで少し待っていると、前方から小舟が迫ってくるのが見えた。
先ほどの小屋で会った男性のような屈強な体格の男が二人乗って、竿を使って小舟を動かしていた。ケルヴィーが軽く手を振ると、前方にいた男が手を振り返す。そして静かに砂浜に舟を付けた。
「ケルヴィー、これで全員か?」
「そうです。さあ、皆さん、乗ってください。目的の場所はこの先です」
揺れる小舟にいそいそと乗り込む。フリートもそれに続いて乗ろうとしたが、一瞬足がすくんでしまった。どれくらいの時間乗るかは定かではないが、かなり揺れそうなのは目に見えている。リディスに軽く背中を叩かれると、すぐに我に戻った。彼女はくすりと笑って先に乗り込む。むっとしつつ、フリートも乗り込んだ。
全員が乗ると、小舟はゆっくり動き出し、崖に沿って移動し始める。
思った以上に揺れなかった。この舟とこの波であったが、以前領同士を移動する際に乗ったものよりも体感的には楽であった。前方を担当している男を見ると、横にうっすらとだが靄がかかっている。
「水の精霊のおかげね。私の目にははっきりと見えるわ」
メリッグは笑みを浮かべて、精霊がいる場所を眺めている。小舟が波によって揺れないように精霊が加減してくれているようだ。
すべての精霊召喚において、人並以上の能力を持つアスガルム領民。ほんの少しだけ加護を受けているフリートとは、精霊の使いこなし方には雲泥の差があった。
しばらく移動すると小さい洞窟の入り口が見えてくる。波によって作られた海蝕洞のようだ。そこに向かって小舟が移動していく。
「おい、あれを通るのか!?」
トルが立ち上がりそうな勢いで言うと、ルーズニルが目を細めて洞窟の入り口を見た。
「入り口は狭いけれど中は比較的広いと思う。あれは波によって作られる洞窟でね、波の強さは先端部でより強くなるから、見た目よりも中には空間があるんだよ」
「へえ、そういう構造になっているのか。じゃあ中に入っても安心だな」
トルがほっとした表情で小舟の上に再び腰を下ろした。
入り口に近付き、ケルヴィーがポケットから取り出した光宝珠を、二人のアスガルム領民は首からかけている宝珠に光を灯す。男たちが体を屈めながら洞窟に入り込むと、小舟の周辺以外は暗くなった。光宝珠がなければ進行方向にあるものは到底見えないと思われる暗さだ。
周囲にある波は納まりを見せ、静かに小舟は水の上を滑っていく。陽が入ってこないため、肌寒く感じた。
ほどなくして前方に別の光が見えてきた。どうやらあそこが船着き場のようだ。
男たちが速度を遅め、その船着き場に小舟を寄せる。微かな音を立てて止まると、ケルヴィーに促されてフリートたちは降りた。
船着き場にはまた別の男性がいた。彼とケルヴィーが話していると、洞窟の奥から小さな光が近づいてきた。光は小刻みに揺れている。誰かが光宝珠を持っているか、首からかけているのだろう。
その人物がフリートたちの目の前に現れたとき、一同は大きく目を見開いた。隣にいたリディスは、あまりの驚きに口に手を当てて、小さな声すら漏らしている。
「お待ちしていました」
まだ声変わりも終えていない、中性的な声を持つ少年。外見からして十歳くらいだろう、物怖じしない声が印象的だ。それ以上にフリートたちが強く惹かれたのが、柔らかな銀色の髪とある人に似た容姿であった。
「僕の顔に何か付いていますか?」
大勢の人に見つめられた少年は、訝しげな表情を向けてくる。その姿も彼とよく似ていた。
「いえ、すみません。貴方と似た人を見たことがありまして……」
ミディスラシールが詫びをいれると、少年は淡々と返してきた。
「銀色の髪の人は珍しいですから、それで似ていると思われたのではないですか? ――ミスガルム城の関係者たちですよね。奥にお待ちしている方がいらっしゃいますので案内します。ついてきてください」
少年に促されて、フリートたちは洞窟の奥に向かって歩き始める。
銀色の髪はたしかに数は少ないが、それでも雰囲気が似すぎていた。まるで幼き日のロカセナを見ているような錯覚に陥る。彼の少年時代をもっともよく見ていたフリートは、ロカセナと目の前にいる少年との違いを躍起になって探しながら歩き出した。しかし、探せば探すほど、むしろ似ている部分の方が目についてしまう。周囲に目を尖らせる姿、一歩距離を置いている様子。ここまで似ている人、他人でいるだろうか。
洞窟の中を進んでいると、途中でフリートたちを興味深そうに見ながらすれ違ったり、物陰から覗いている人たちが多数いた。その視線は好奇なものから警戒しているものまで様々で、長い期間この洞窟の中に外部の人間を入れていなかったことが予想できる。
武器を持って今にも飛び出しそうな人もいたが、ケルヴィーやシルが目で制すと、渋々と退散していった。
非常に狭い空間であるため、襲われたら満足に剣などは振れないだろう。むしろ剣は振るわず、受けるのみに徹したほうがいいのかもしれない。アスガルム領民の数が少ない状況になってしまったのは、不可抗力とはいえ、ミスガルム城側に責任はある。その件に関していつかは責を負うべきではないかとフリートは思った。