6‐20 歴史を見守る大樹(3)
* * *
リディスははじめこそ不安な気持ちで光の道を歩いていたが、次第に慣れてきた。フリートがいなかったり、長時間先が見えなければ、平静さを保ち続けるのは難しかっただろう。
ほどなくして出口である別の光が見えてきた。リディスは隣にいる黒髪の騎士を横目で見ながら、その光へと歩を進めた。
やがて別の地に入った瞬間、光は拡散した――。
足が土の上に降り立つ。軽く足踏みをして、足が地についていることを確認すると、リディスはほっと胸をなで下ろした。草木で地面を覆っている、自然溢れる空間に辿り着いたようだ。
視線を正面に戻すと、青々とした葉で覆われている、非常に大きな樹がそびえ立っていた。何百年、いや何千年も生育しているような大きさである。少し離れたここからであれば全体を見渡せるが、近くに行けば視界は緑で埋め尽くされるだろう。誰もが感嘆の声を漏らしそうな雄大な風景だった。
「この景色、どこかで見たことがあるような……。ねえ、フリート、どう思う?」
隣にいた青年に話しかけたが、そこには誰もいなかった。目を大きく見開く。
「フリート、どこに行ったの? フリート!」
辺りを見渡しながら必死に呼びかけるが、返答はない。
「光の中では一緒にいたのに。……ここに来る瞬間に違う出口に出てしまった? そんな、どうしよう……」
この地にモンスターはいないと言っていたが、当たり前のように隣にいた青年がいなくなると、急に心細くなる。ここで待っているべきか、それとも進むべきか。
二つに一つのことを考えていると、突風が吹いた。その風は樹に向かって吹き抜けていく。リディスは自然とそちらに視線が向いていた。するとその樹の傍で何かが動いているのが見えた。
フリートだろうか。それともさっきの声の主だろうか。
リディスは勇気を振り絞って、おそるおそる樹に向かって歩き始めた。進む度に草木が音をたてて踏まれていく。花が咲いている部分は避け、草木も軽く踏む程度に抑えて進む。
近くに来ると、樹が想像以上に大きいものだとわかった。横幅は非常に長く、反対方向まで移動するのに何十分もかかりそうである。
「たしかここら辺にいた気がするんだけど……」
きょろきょろしながら樹の周りを歩いていると、他の誰かが草を踏む音が聞き取れた。
「フリート……!」
リディスは踵を返して、その人物に駆け寄ろうとする。だが顔を見た瞬間、思わず立ち止まった。
現れたのは微笑んでいる銀髪の青年。物腰は柔らかで優しい声音で呼びかけられる。
「リディスちゃん……?」
リディスのことを〝ちゃん〟付けする人間など、思い当たる人物は一人しかいなかった。
ずっと会いたく、これからすることを止めたいと思っている青年が目の前にいる。
しかし、突然の再会に驚いてしまい、リディスは顔を硬直したまま動くことができなかった。
「リディスちゃんだよね? どうしてここにいるの?」
首を傾げて寄ってくる。彼が浮かべる笑みは、心の底から出しているものなのだろうか。
「ロカセナこそ、どうしてこんなところにいるの?」
彼は自分のことを狙っている人物だ。二人だけでいるのは非常に危険である。フリートと早く合流をしなければとリディスは思うが、足がなかなか動かなかった。着実に距離は縮まっていく。
「僕は光に導かれて来ただけだよ。僕に伝えたいことがあるって言われてね。だから安心して、今日はリディスちゃんをどうこうするつもりはない」
「女性の声に呼ばれたの?」
「そうだよ。僕もフリートも扉を開ける者だから」
「フリートも?」
思わず聞き返すと、ロカセナはばつが悪そうな顔をした。
「知らなかったのか……。メリッグさんあたりは勘付いているから、ぽろっと言ったかと思ったけど」
「どういうこと?」
ロカセナはリディスに向かって歩いてくるが、何もせずに通り過ぎた。肩越しから彼の声が聞こえてくる。
「扉を開ける人物は二人いるらしい。予言ではアスガルム領民の血を引く人間と、その時期に一番近くにいた人と言われている。つまり一人は僕で、もう一人は――フリートだよ」
「どうしてフリートが! だって扉を開けるってことは……」
「リディスちゃんを樹に捧げるってことだ」
躊躇いもなく言われ、リディスは動揺した。その隙にロカセナがすぐ後ろに寄り、そっと抱きしめてくる。
捕らえようというほどの力はなく、優しく包み込むような感触だった。背中から直に伝わる温もりに、どことなく懐かしさがこみ上げてくる。
「ロカセナ……」
以前も抱きしめられたことはあった。リディスがムスヘイム領で精神的にも肉体的にも追いつめられている時に、彼は少しでも負担を減らそうとしてくれたのだ。彼の胸の中でらしくもなく泣いたことが思い出される。
「ねえ、僕と一緒に行こうよ。フリートと一緒でも、何もわからないうちに全部終わっているよ。そんなの嫌だろう? 同じ人生なら、すべてを知ってから納得して終わりたいじゃないか」
優しい声で諭してくる。ほんの少し抱きしめる力が強くなった。
「そうね、真実はすべて知るべきだと思う。でも――私の人生が終わることは確定なの? 生き続ける術はないの?」
必死に抗うための言葉を述べるが、ロカセナはリディスが辛うじて作った一縷の望みを一瞬で捨て去った。
「ないよ。リディスちゃん自身が一番わかっているだろう。最善の方法は自分が犠牲になることだって」
その言葉は繋ぎ止めていたリディスの心をもぬけの殻にするには充分だった。
視界が急に変わった。ロカセナがリディスを半回転させて、顎を持ち上げる。
「君はそういう運命なんだよ。嘆く必要も、泣く必要もない。諦めよう。僕が最後まで一緒にいてあげるよ」
ロカセナの唇がゆっくり近づいてくる。脱力しきった体では抵抗する気すら起きない。
すべて身を任せよう――そう思ったが、脳裏に金髪の女性と黒髪の青年の顔が横切った。二人ともロカセナのことを大事に思っている人たち。
リディスは反射的に右手を上げた。
乾いた音が鳴り響く――。
ロカセナは信じられないという顔つきで、視線を戻した。彼の左頬が赤く腫れている。
「どうしてだい、リディスちゃん?」
「間違っている、ロカセナ。魔が差したからといって、心の底から愛していない相手にそんなことしないで」
「何を言っているんだい? 僕は――」
手がリディスに伸ばされる途中で、腹の底から声を出した。
「私はミディスラシールじゃない、リディスよ!」
ロカセナの手が触れる直前で止まった。立ち尽くしている彼に言葉を投げつけていく。
「この前キスしたのは、フリートに見せつけるためだって言っていた。でも今回はいないし、私のことを恋愛対象として見ていないんでしょう。ならなぜ、そんなことをしようとするの? それは私がミディスラシールという女性と似ているからじゃないの!?」
「どうしてここで姫の名前が……」
嘘の笑顔も取り繕う余裕もないのか、彼は明らかに動揺していた。リディスは感情のままに考えをぶつける。
「だって、ロカセナはミディスラシール姫のことを――」
そこまで言って、リディスは草花の中で立ち尽くしている黒髪の青年と視線があった。彼はおおいに顔をひきつらせている。
リディスは自分がロカセナに迫られていたことを思い出した。彼が一歩踏み出せば確実に捕まえられる位置にまだいる。頭に血が上っているフリートが見たら、焦るか、怒るかのどちらかだ。
彼は肩を震わせながら、近づいてきた。怒っている。
「ロカセナ、お前……!」
今にも殴りそうなフリートを止めるために、リディスはロカセナの横を軽々と抜けて、慌てて駆け寄った。
「待ってフリート、殴らないで!」
「あいつ、また何かしたんだろう!」
「してないから、何もしていないから、ロカセナは!」
フリートの視線が、リディスから不機嫌そうな顔をしているロカセナに移動する。彼の腫れた左頬を見て、目を見張った。ロカセナは頬に手を触れると、くすりと笑う。
「手痛くやられたよ。相手がいる女性に手を出すもんじゃないね」
「やっぱりお前、リディスに嫌がることを……!」
今にも駆け出そうとしているフリートを、リディスは全身全霊で止めに入った。
「お願いだから、やめてって! ――フリート・シグムンド、いい加減にしなさい!」
その言葉でようやく我に戻ったのか、握りしめていた拳をほどく。ほっと一息吐いていると、後ろから拍手が鳴り響いた。
「相変わらず仲がいいことで、お二人さん。本当に嫌になるくらい、お互いのことを想っているんだね。まあその幸せな日々も、あと十日ってところかな?」
「どういう意味だ」
「そのまんまだよ。たぶん僕たちの同志の一人が城に顔を出していると思う。親切な人だから、そこで色々と話しているはずだ。内容については、あとで城に残っている人間に聞いてみるといい。残り僅かな時間しかないって気付くだろう」
そしてロカセナは踵を返して、リディスたちから離れ始めた。
「待てよ、ロカセナ!」
慌てて呼ぶフリートに、ロカセナは背中越しから冷たい視線を送る。
「何だいフリート。ここで殺されたいの? でもそれは無理だよ。殺生は禁止って聞いたからね」
「お前は何をしたいんだ? レーラズの樹をこの地に戻して、どうしたい?」
「……っは、ここまで直球で聞いてくるとは。おめでたい奴だ」
ロカセナは鼻で笑って、再び歩き始めようとする。フリートは一呼吸してから、静かに言葉を発した。
「兄貴の意志を継ぎたいのか?」
銀髪の青年は歩くのをやめて立ち止まった。リディスは目を丸くして、フリートを見る。
「お前の兄貴も樹を探していたって聞いた。志半ばで達成できなかったらしいが……」
「どこまで知っているんだ、フリート」
今度は竦み上がるような鋭い視線を突きつけてくる。フリートは怯みもせず、淡々と言葉を述べていく。
「お前の兄さんと接触した人から、その人は樹を探し求めていたということを聞いただけだ。なあ、樹を戻すことで何が起こるんだ? リディスを犠牲にしてまで、やらなければならないことなのか!?」
「――ああ、そうだ。それが僕、アスガルム領民の生き残りがやるべきことなのさ」
葉を揺らす風が吹いていく。金色の髪はなびき、黒色と銀色の髪も小刻みに揺れていた。
風が収まると、ロカセナは背を向けて歩きながら、言葉を吐き捨てた。
「この地に呼んだ女性から話を聞け。それを聞いても、まだリディスちゃんを僕たちに渡すつもりがなければ、全力で奪いにいくから覚悟しろ」
「わかった。全力で止めてやるから、待っていろ!」
フリートは力強く返事をした。希望を見いだそうとしている姿は、悟り始めたリディスには眩しく見えていた。リディスは小さくなっていく背中に向かって、秘めていた言葉を叫ぶ。
「ロカセナ、あの女性は今でもあのピンク色の石のペンダントを持っているわ! お願いだから、彼女のためにも、もう二度と悲しませるようなことはしないで……!」
聞こえたかどうかはわからないまま、彼は何も言わずにその場から去って行った。
これ以上ミディスラシールが悲しむ姿や、ロカセナが手を染める姿は見たくない。少しでもこの思いが伝わればと思いながら、胸の前で軽く右手を握りしめた。
ふと、軽く頭に手が乗せられる。慣れない手つきで撫でられると、唐突に涙が浮かびそうになった。
だが、それを呑み込んで、リディスはフリートと共に樹の周りに沿って歩き始めた。