番外編三 槍術と秘めたる想い(2)
* * *
スレイヤたちがユングリガ家に滞在するようになってから、そう日を置かずに、リディスとスレイヤは気兼ねなくお喋りをする仲になっていた。面倒見のいいスレイヤと一人っ子で誰かに甘えたかったリディスにとっては、お互いに求めている人物だったのだろう。
その様子を見ていたオルテガやフェルたちが、思わず姉妹のようだとこぼしてしまうほど仲が良かった。
スレイヤたちの旅の話をリディスは熱心に聞いていた。彼女から紡がれる言葉により、目の前に色鮮やかな情景が浮かんでくる。
「外の世界って素敵ですね……!」
リディスが目を輝かせて発言するが、スレイヤは視線を下げて首を横に振った。
「いいえ、そうでもないのよ。今まで私が言っていた内容はいい面だけ。苦労したこともたくさんある」
「たとえばどんなことですか?」
スレイヤは軽く口元を左手で押さえた。
「わかりやすい例を言えば、食かな。私はもともと内陸に位置している村に住んでいたから、魚料理とかほとんど食べたことがなくて。生臭さとかに慣れるのには随分と苦労した。あとは奇抜な香辛料を使ってくる村での食事は、なかなか食が進まなかったわね」
「そうなんですか。食事が合わないと大変ですよね」
「それと治安が悪いところが多い」
スレイヤが姿勢を正して、リディスのことを正面から見据えた。
「この町はとても安全なところよ。ミスガルム王国と同じくらい、いやそれ以上に治安がいいと思う」
「王国よりも……?」
「そう。王国よりも卑しい人が少ない。だから外の世界に夢見て出ても、幻滅するだけだと思う」
叱咤しているわけではない。諭しているだけである。しかしリディスにとっては、まるで怒られているような感覚に陥った。外の世界に興味を持ち始めたが、それを真っ向から否定されてしまった。
沈黙が続く。気まずい空気が漂っている中、ある時刻を示す置時計の鐘の音が鳴った。スレイヤは時刻を確かめると、すっと立ち上がった。手には魔宝珠が握られている。
「今日も素振りですか?」
スレイヤは一日に数回素振りをしている。リディスが起床した時には、既に朝の素振りを終えた後だ。彼女は亜麻色の髪を揺らして応えた。
「ええ。スピアは日常では使わない筋肉を動かして使っているから、常に馴らしておかないと」
「毎日何度もする必要はあるんですか?」
庭に向かって歩き始めるスレイヤの背中を、リディスは追っていく。
「密度が濃ければ必要ないわね。回数を増やしているのは、体を動かす時間を作りたいっていう意味もある」
開かれた庭に出ると、スレイヤは魔宝珠からスピアを召喚した。彼女の背よりもやや長いスピアである。
それを両手で握りしめると、スレイヤを包み込んでいた空気が変わった。
張りつめた雰囲気。声をかけようにも躊躇う空気。
スレイヤは軽く目を閉じてから開くと、鋭い目つきでスピアを前に突き出した。スピアが文字通り風を切る。
彼女はそれから止まりもせずに、滑らかに動き出す。
前進しながら突きをする。両手でスピアを回しながら、それに応じて体も動かしていく。
素振りをしているはずである。だがリディスの頭の中に浮かんだ感想は、「美しい」というものだった。
洗練された動きを見ていると、まるで一つの演舞を見ているような気持ちになる。
スレイヤの姿をリディスは手を軽く握りながら、ただじっと見つめていた。
* * *
「ねえ、お父様」
「何だ、リディス」
オルテガの書斎の片付けを手伝いながら、リディスは父親の顔を見ずに口を開いた。
スレイヤたちは詰め所に行き、自警団の人たちと合流してシュリッセル町の巡回にあたっている。町の中をくまなく巡回すると一日はかかるため、陽が暮れるまでは帰ってこないだろう。そのため今の屋敷には書斎にいる二人と、掃除をしているマデナしかいない。
「最近私をあまり町の外には出してくれませんよね。どうしてですか?」
「リディスを連れて行く用事でもなかったからだ」
「本当ですか? 町の外が危なくなっているからではないのですか?」
本を掴もうとしていたオルテガの手が直前で止まった。
「町の中は結宝珠で守られているため、モンスターの被害はほとんどありません。けれどその結界から外れた地域に出れば……」
「リディス」
オルテガの声が大きく聞こえた。顔を上げると、リディスの方に体を動かしている。
「お前の言うとおりだ。町の外にモンスターが増え始めている。少しでも危険から遠ざけるために、お前を置いていっている」
「そんなに酷いのですか?」
「少なくとも十年前よりは悪化している」
「なら、お父様も極力町の外に出るのを控えた方がいいのではないですか? 今の町は定期的に開かれる集会での取り決めによって町を動かしていますが、お父様は町の顔。もし何かあった場合には……」
「そうなった場合はお前が町の顔になればいい。町の自治に関してはそのうちお前もわかってくるだろう」
質問を追加する前に、オルテガは再び片付けを始めていた。
背中を見ると、幼い頃におぶってもらった背中よりも小さくなっていることに気付く。リディスが成長したのもあるが、オルテガ自身が少しずつ歳をとっていることも要因としてはあるのだろう。
比較的小柄な父親。彼の背骨が曲がってくるのも、遠い未来のことではないのかもしれない。
オルテガは本の束を机の上に置くと、窓の外を見た。
「リディスはずっとこの町にいればいい。外の世界は王様や外の者たちが対処してくれる。お前はただ――リディス・ユングリガとして、私の跡を継いでくれればそれでいい」
有り難いくらい大切にされている、父親の本音を聞いた。
だが、却ってそれがリディスの決意を固めるきかっけになるとは、オルテガは思ってもいなかっただろう。
翌朝、早起きしたリディスは動きやすい服装に着替えて、朝の空気を吸っていた。冷たくも爽やかな空気が体の中に入ってくる。朝の柔らかな太陽の光は起きたばかりの人間にはとても優しいものだった。
後ろから草を踏みしめる音が聞こえる。振り返ると、目を丸くしたスレイヤが歩み寄っていた。
「リディス、おはよう。まだ陽が昇ったばかりよ? どうしたの?」
「スレイヤ姉さん」
自分の中で姉とも認めたスレイヤに向かって、リディスは一歩踏み出した。揺るぎのない視線で彼女を見る。
「私に槍術を教えてください」
「……え?」
「モンスターを還すために使っているスピアを、自由自在に操る槍術を私に教えてください!」
言葉を付け加えて再び発した言葉を聞いたスレイヤは、目をすっと細めた。柔らかな雰囲気が消え、傍にいる者を寄せ付けない雰囲気を僅かに出していた。
「本気?」
「はい」
「理由を教えてちょうだい」
軽く腕を組んだスレイヤから、リディスは視線を逸らさなかった。
「強くなりたいからです。護られる存在でいるのは嫌だからです」
「一般論ね。武器を持とうという者はたいていそういう理由を述べる。けれども己の非力さと現実を知って、武器を下ろす者も少なくない。その理由だけでは、私は首を縦には振らない。……私を納得させるだけの理由があれば、教えてあげてもいいわよ」
そう言ったスレイヤは背を向けて、リディスがいる方向とは別の場所に歩み出す。その歩みを止めるかのように、リディスは背中に言葉を投げつけた。
「籠の中で大切に育てられるのは嫌なんです! 外の世界も知らず一生を終えても、楽しくありません」
「そうかしら。外の世界を知っても楽しい思いをすることは少ないわよ。だから貴女をその世界から遠ざけているんでしょう、オルテガさんは。素敵な親の愛じゃない」
「それがむしろ私には重荷なんですよ! お父様に何かあったら、私は絶対に後悔する。強くなかったから置いていかれた自分を一生恨む!」
スレイヤの足が止まった。リディスは彼女と出会った頃のことを思い出す。
「あの時、私、スレイヤ姉さんに助けてもらって、本当によかったなと思いました。でも、同時に自分は弱い存在なんだなって見せつけられたんです。外の世界に出られなくても、せめてお父様や町の人たちを護れる人間になりたい。――最近、モンスターが強くなっているんですよね? それならいつか町に大量のモンスターが侵入してくる可能性がある。その時に備えて、私は強くなりたいんです」
スレイヤがちらりと顔だけリディスの方に向ける。彼女の表情はやや陰りが見えた。
「親が子を思うのと同時に、子は親のことを大切に思うわよね。私も兄さんも同じ想いを抱いているわ……」
スレイヤは表情を緩めると、リディスに近づいてきた。そして頭から足下までじろじろと見られる。
「わかったわ、リディス」
リディスの顔がぱっとにこやかになった。スレイヤはうっすらと笑みを浮かべている。
「ただしスピアを握れるかどうかは、これから次第よ」
「これから……?」
「見たところ筋肉なんてほとんど付いていないじゃない。そんな体でスピアを振り回せると思っているの? スピアに体を持っていかれるわ。……なめないで、槍術を」
スレイヤの視線にリディスはびくりと肩を震わせた。彼女が視線を町の外周に向ける。
「さあ、軽く体をほぐしたら行くわよ」
「どこにですか?」
「走りに行くのよ。基本的な体力は走ればある程度定着する」
「ど、どれくらい走るんですか……?」
体を鍛えるという行為に無縁だった、リディス。おそるおそる聞くと、スレイヤは口元に指を当てて、遠くの方を眺めた。
「朝食までには戻れるかしら……。まあ戻れるように努力はしましょう」
「え……」
朝食までには時計の長針が二周ほど回る。体力に不安があるリディスは、その事実を察すると顔をひきつらせた。しかしこれに付いていかなければ、スピアは握れない。
顔を引き締めて、笑顔で走り始めたスレイヤの後を必死に追いかけ出した。