Part1
今は降り行くべき時だ――金属や
蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる
悲惨の市にまで。私には舵は要
らない。
富永太郎『秋の悲嘆』より
富永太郎は、大正時代の画家詩人である。小林秀雄や中原中也と親交があったことで知られる。
彼は大正十二年十一月、東京が関東大震災の余波で未だ騒然としているなか神戸に赴き、独り上海に渡航した。
上海行きを決めたのは、その年の真夏、仙台での小旅行の最中であった。東京に帰って来た直後から、その計画を周囲に打ち明け、慌ただしく準備を始めている。
家族や友人たちにとって、富永のその話は寝耳に水であった。彼が上海に興味を持っていることすら聞いたことがなかったからである。
富永がなぜ唐突と思える上海行きを決めて、まるで何かに追い立てられているかのように、それをすぐに実行に移したのか、もはや知る由もない――。
蒸気機関車の汽笛が、けたたましく鳴り響いた。
富永太郎は、その音で我に返った。眠っていたようだった。真昼にすとんと意識が途絶えるように眠ってしまうことは、最近ではよくあることだった。
また、あの夢を見ていた、富永は思う。
立て掛けた真っ白なカンヴァスを前にして畳に正座し、悩んでいる自分の姿。だが、絵が描けなくて悩んでいるのではない。思い切って、この秋に日本を離れて上海に渡り、そこで生きていくことにするか、それともこのまま今の、出口の見えない苦しい生活を続けてゆくか、迷いの闇に深く沈んでいる姿なのであった。
富永は、常磐線下りの車内にいる。この列車に乗り、仙台まで行くつもりである。
彼はカンカン帽を脱ぎ、薄手の着物の袖で額の汗をぬぐった。酷い暑さだった。
同居している家族に対して気まぐれを装った、真夏の独り旅は三日目に入っていた。東京から出発し、銚子、高浜と太平洋沿いの町に遊んで、今は仙台へと向かっている。富永のこの旅は、本日のために計画されたことであり、目的を果たすのはこれからなのであった。
夢の中ですら悩んでしまう彼にとっての上海は、ずっと前から魅力的な都市であり続けてきた。先月発行された雑誌に掲載されていた紀行文を読んでからは、もはや囚われていると云ってもよい。その紀行文は、渡航して生活してみようと富永が考えてしまうほど衝撃的な内容だった。
しかしながら、渡航することには不安も付き纏っていた。上海に渡航することによって、昨年から始まった不眠に悩まされ続けるこの日々を、とことんまで追い詰められた現在の苦境を、上海の環境は一息で変えてくれる気はする。だが。失敗してしまうかもしれない。仏蘭西語には自信を持っているが、日本人にそれを教えるだけで、はたして食べていけるものだろうか。そんなぼんやりとした甘い計画で、様々な国の人間が集っている熱気溢れた都市に対峙できるのか。存在をとことん潰されて、逃げ帰ることになるのではないか。またも人生の回り道をすることになるのではないか、そういう思考の迷路に嵌まり、悩み続けていたのだった。
列車の中は、真夏のむっとした湿気と人いきれで、耐えきれない暑さになっていた。
富永は扇子を力任せにあおぎながら、鞄から一通の手紙を取り出した。もう何度も読み返したその手紙を、彼はまたも読み始めた。
もうお會ひしなくなつて、どのくらゐが過ぎたでせうか。ずいぶんと長過ぎて、もうわたくしには貴方様との日々が、まぼろしか何かだつたやうな氣がしております。
突然、こんなお手紙をお出ししたことを、お許しくださいね。貴方様からお預かりしてゐたものが、わたくしは、ずつと氣になつてゐて、やはりお返しした方がよろしいのではないかと思つたのです。
そこでたいへん不躾ではござゐますが、いちど仙臺にいらっしゃっては、いただけないかしら。ご存知の通り、わたくしはこの町を離れることが、できないのでございます。郵便でお送りすることも考へたのですが、なにぶん大切なものですので、お運びする閒に何かあつてはと、やはりこの手でお渡しすべきではないかと思ひ直しました。
もし、こちらにいらしてくださるのなら、日取りと場所を正岡様にお傳へくださいませ。必ずまいります。かしこ。
大正十二年七月五日
笹塚芙美江
富永太郎様
短い手紙を読み終えた富永は、車窓の外で流れている田園の風景を眺めた。青々と直立した稲穂の群れが、こうべを垂れる時を待っていた。
彼は芙美江の懐かしい筆跡を見ただけで、またも心臓の鼓動が早くなったのを感じていた。芙美江を忘れたことはなかった。忘れようとしても出来なかった。彼女の面影が浮かんでくる。しかしそれは、抱えている病の元凶でもあった。
富永は、一昨年、芙美江との不倫事件がきっかけとなって、仙台の二高を退学していた。
彼が持ち歩いている手紙は、その二高時代からの親友、正岡忠三郎を経由して送られて来たものだった。
当然のことながら、芙美江は富永の今の住所を知らない。同封された正岡の手紙には、二高の芝蘭尞を彼女が突然訪ねてきて、この手紙を渡されたのだと書いてあった。そうだとすると、芙美江は随分と思い切った行動に出たことになる。それには何か切迫した事情が裏にあるのだろうと、富永は考えていた。




