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怖いままでいるのは、勿体ない

作者: you
掲載日:2026/10/09

 全国大会三回戦。


 第四クォーターを前にして、俺たちは十二点負けていた。


 相手は、今年の優勝候補筆頭。高さがある。速い。外も入る。守備も固い。何より、強いチーム特有の余裕があった。


 第三クォーター終了のブザーが鳴り、俺たちがベンチへ戻ると、誰も口を開かなかった。聞こえるのは、荒い呼吸と、タオルで汗を拭う音。体育館いっぱいに響いている歓声が、やけに遠く感じる。


 俺は膝に両手をつき、床を見ていた。


 脚が重い。相手のエースに三クォーター張りついて、太ももはもう張っていた。


 俺は点を取る選手じゃない。ドライブで観客を沸かせることもなければ、試合を決めるようなスリーポイントを何本も沈めるわけでもない。


 俺の仕事は、相手の一番嫌がるところにいることだった。


 抜かれても追う。ボールに食らいつく。ルーズボールが転がれば床へ飛び込む。誰も触りたくないようなボールを拾う。


 そういう選手だった。


 監督がホワイトボードを持ったまま、俺たちを見回していた。


 何か言おうとしていた。


 その前に、俺は口を開いた。


「みんな、怖い?」


 何人かが顔を上げた。


 隣に座っていた先輩が、少し眉をひそめる。


「……何が」


「いや、この試合」


 返事はなかった。


 でも、その沈黙だけで十分だった。


 俺だって怖い。ここで全国大会が終わること。何もできないまま負けること。自分のせいで失点すること。最後まで追いつけないこと。


 いくらでも怖かった。


 だから、少し笑った。


「俺、昔めちゃくちゃ怖がりだったんですよ」


「今?」


「今じゃないです」


 少しだけ、誰かが笑った。


「犬が怖くて、雷が怖くて、高いところも怖くて、自転車にも乗れなくて」


「自転車?」


「転ぶじゃないですか」


「そりゃ転ぶだろ」


「だから怖かったんです」


 また少し笑いが起きた。


 俺は続けた。


「あと、野菜も怖かったです」


 今度は、はっきり笑われた。


「それはもう怖いじゃなくて嫌いなだけだろ」


「ピーマンとか結構怖いですよ」


「知らねえよ」


 さっきまで重たかったベンチの空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 俺も笑った。


 だけど、本当にそうだった。


 子どもの頃の俺にとって、世界は怖いものばかりだった。


 犬は噛むかもしれないし、雷は落ちるかもしれない。自転車に乗れば転ぶし、高いところからは落ちる。知らない人に話しかければ怒られるかもしれないし、やったことのないことは、失敗する気しかしなかった。


 だから、できるだけ何もしなかった。


 そんな俺を見て、じいちゃんはある日言った。


「お前、つまんねえ人生になりそうだな」


 小学三年生の夏だった。


「何で?」


「怖がってばっかりだからだ」


「だって怖いものは怖いじゃん」


「そうだな」


 じいちゃんはあっさり頷いた。


 俺は少し拍子抜けした。てっきり「怖がるな」とでも言われると思っていたからだ。


「じゃあ仕方ないじゃん」


「仕方なくはない」


「何で?」


 じいちゃんは麦茶を一口飲んでから、ようやく俺を見た。


「怖いままでも、やれることはある」


 その時の俺には、何を言っているのかよく分からなかった。


 でも次の日、じいちゃんは補助輪を外した自転車を俺の前に置いた。


「乗れ」


「無理」


「乗ってから言え」


 そうして、じいちゃんの妙な教育が始まった。


 *


 自転車には、やっぱり何度も転んだ。


 膝を擦りむいて、肘を打って、そのたびに「もうやらない」と言った。それでもじいちゃんは翌日になると、何事もなかったように自転車を庭先へ出した。


「もう一回」


「昨日転んだじゃん」


「知ってる」


「痛かったんだけど」


「知ってる」


「じゃあ何でやるの」


「昨日より一回多く乗れるかもしれんからだ」


 意味が分からなかった。


 でも、結局乗った。


 ある日、いつものように自転車を漕いでいた。じいちゃんが後ろを支えていると思っていたから、怖いながらもペダルを踏めていた。


 ところが、ふと振り返ると、じいちゃんはずっと後ろにいた。


「じいちゃん!」


「前見ろ!」


 慌てて前を向いた。


 その瞬間、気づいた。


 俺は一人で進んでいた。


 怖かった。転ぶかもしれない。それでも、自転車はちゃんと前へ進んでいた。


 その日、初めて一人で家の前を一周した。


 じいちゃんは何も褒めなかった。ただ玄関へ戻りながら、


「乗れたな」


 とだけ言った。


 俺はその言葉が、妙に嬉しかった。


 *


 野菜も苦手だった。


 特にピーマンが嫌いだった。


 苦いし、匂いも嫌いだし、何よりあの濃い緑色がどうしても駄目だった。夕飯に青椒肉絲が出た日、俺は皿の端にピーマンだけを綺麗に避けていた。


 じいちゃんは、しばらく黙ってそれを見ていた。


「食わんのか」


「無理」


「なんで」


「怖い」


「野菜が?」


「うん」


 じいちゃんは箸を置いた。


 そして俺の皿からピーマンを一つつまみ、そのまま俺の口元へ持ってきた。


「口開けろ」


「やだ」


「開けろ」


「無理!」


「噛まんぞ」


「そういう怖さじゃない!」


 顔を背けると、じいちゃんの手も一緒についてきた。


「じいちゃん、やめて!」


「食ってから嫌いになれ」


「もう嫌いだよ!」


「食ってないだろ」


「前に食べた!」


「いつ」


「覚えてない!」


「じゃあ食え」


 逃げ場がなかった。


 結局、半泣きで口を開けた。


 ピーマンが入る。


 苦い。


 やっぱり苦い。


 眉間にしわを寄せながら何度か噛んで飲み込むと、じいちゃんが聞いた。


「死んだか」


「死んでない」


「じゃあもう一個」


「なんで!?」


 その日、俺はピーマンを三つ食べた。


 好きにはならなかった。


 でも、それ以降「怖い」とは言わなくなった。


 *


 次は犬だった。


 近所の家に、大きなゴールデンレトリバーがいた。


 今思えばかなり人懐っこい犬だったけれど、当時の俺には、牙を持った巨大な獣にしか見えなかった。散歩中に向こうから歩いてくるだけで、道の反対側へ逃げた。


 そんな俺を、じいちゃんはわざわざ犬のいる家へ連れていった。


「触ってこい」


「無理」


「噛まん」


「噛むかもしれないじゃん」


「そうだな」


「じゃあ無理じゃん」


「でも噛まないかもしれん」


 意味が分からなかった。


 俺はじいちゃんの服を掴んだ。


「一緒に来て」


「嫌だ」


「なんで」


「お前が触るんだろ」


 じいちゃんは少し離れた場所に立った。


 俺は動けなかった。


 犬は尻尾を振っていた。


 一歩近づく。止まる。また一歩。


 犬が鼻を鳴らした。


 逃げたくなった。


 それでも、少しずつ手を伸ばした。指先が震えていた。


 犬は俺の手の匂いを嗅ぎ、それから舐めた。


 舌は湿っていて、鼻先は冷たかった。思っていたよりずっと温かい生き物だった。


 俺は恐る恐る頭を撫でた。


 犬は目を細めた。


 その帰り道。


「怖かったか」


 じいちゃんが聞いた。


「怖かった」


「触れたな」


「うん」


「じゃあ次からは、今日より少し怖くない」


 それだけだった。


 *


 雷も怖かった。


 遠くで鳴るだけで布団に潜った。


 じいちゃんは、そんな俺を雷雨の日に縁側へ座らせた。


「落ちるよ」


「落ちるかもしれんな」


「家に入ろうよ」


「ここから見る方が綺麗だ」


 俺は理解できなかった。


 雷のどこが綺麗なんだと思った。


 空が一瞬だけ白く光る。少し遅れて、低い音が腹の奥まで響く。


 怖くて、じいちゃんの服を掴んだ。


 じいちゃんは何も言わなかった。ただ空を見ていた。


 何度目かの稲妻が、夜空を端から端まで裂いた。


 その時、ほんの少しだけ。


 本当に少しだけ。


 綺麗だと思った。


 *


 それから、じいちゃんのやることは少しずつ大きくなった。


 知らない店へ一人で買い物に行かされた。山へ連れていかれた。川を渡らされた。高い場所へ登った。初めて会う人に道を聞かされた。


 そのたびに怖かったし、そのたびに逃げたかった。


 でも、一度やってしまえば、次に同じことをするときは、ほんの少しだけ怖くなかった。


 怖いものが消えていったわけじゃない。


 怖さの向こう側に何があるのか、少しずつ分かるようになっていった。


 そして、小学六年生の春。


 夕飯を食べている時だった。


 じいちゃんが味噌汁をすすりながら言った。


「パスポート取るぞ」


 俺は箸を止めた。


「何で?」


「海外行くから」


「誰が?」


「俺とお前」


「何で?」


「行きたいから」


 あまりにも普通の顔で言うから、最初は冗談だと思った。


 でも、じいちゃんは本気だった。


 数か月後。


 俺は、本当に飛行機の中にいた。


 *


 離陸する前から怖かった。


 シートベルトを何度確認したか分からない。


 機体が滑走路を走り始める。速度が上がる。体が座席に押しつけられる。


 そして、地面が離れた。


 窓の外で町が小さくなる。家が小さくなる。道路が細い線になる。


 俺は肘掛けを握りしめていた。


「落ちない?」


「知らん」


「知らないの?」


「俺が飛ばしてるわけじゃない」


「怖くないの?」


「怖くない」


 隣でじいちゃんは新聞を読んでいた。


 いかにも余裕そうだった。


 けれど、しばらくして気づいた。


 じいちゃんは、ずっと同じページを開いている。新聞を持つ指も、ほんの少し震えていた。


「じいちゃん」


「なんだ」


「怖いんでしょ」


「怖くない」


「手、震えてる」


「寒い」


「暑いよ」


 じいちゃんは黙った。


 俺は初めて、じいちゃんをじっと見た。


「本当は怖い?」


 しばらくして、じいちゃんは小さく息を吐いた。


「まあ、少しな」


 驚いた。


 何でも平気だと思っていた。


 じいちゃんは、世界で一番怖いものがない人だと思っていた。


「怖いのに乗るの?」


「ああ」


「何で?」


 じいちゃんは新聞を畳んだ。


「乗らなきゃ、見られないものがあるからだ」


 それだけ言って、窓の外を見た。


 俺も見た。


 雲があった。


 地上から見ていた雲を、今度は上から見ていた。


 真っ白な雲が、どこまでも続いていた。


 *


 初めて見たアルプスは、思っていたよりずっと大きかった。


 写真でも映像でも何度も見ていた。


 でも、本物は全然違った。


 空が近かった。


 白い峰がいくつも連なり、青い空の下に、雪の線が鋭く伸びていた。風が草を揺らし、遠くでは牛の首につけられた鐘の音が小さく鳴っていた。


 空気は冷たくて、吸い込むと肺の奥まで綺麗になるような気がした。


 俺は何も言えなかった。


 じいちゃんも、何も言わなかった。


 二人でただ立っていた。


 飛行機は怖かった。知らない国も怖かった。言葉も分からなかった。


 それでも、ここへ来なければ、この景色は見られなかった。


 それだけは分かった。


 *


 旅は、一度では終わらなかった。


 次の年も、その次の年も、じいちゃんは俺を連れ出した。


 ある時は、グランド・キャニオンへ行った。


 赤茶けた大地が、どこまでも続いていた。


 大地が巨大な爪で引き裂かれたみたいに深く落ち込み、その向こうにも、さらに向こうにも岩壁が続いていた。


 見たことのない景色だった。


 地球が巨大すぎて、自分なんてそこに落ちた埃みたいに思えた。


 崖の近くまで行こうとして、足が止まった。


 下から風が吹き上げてくる。


 谷底が遠い。


 吸い込まれそうだった。


「無理」


 俺は言った。


 じいちゃんは振り返った。


「そうか」


 それだけ言って、先へ歩いていった。


「待ってよ」


「ここにいるぞ」


「怖い」


「見れば分かる」


 俺は動けなかった。


 じいちゃんは少し先に立って、景色を見ていた。戻ってこなかった。手も差し出さなかった。


 俺は足元を見た。


 一歩、進んだ。


 まだ怖い。


 もう一歩。


 足の裏が妙に冷たい。


 風が吹く。


 心臓が速くなる。


 それでも進んだ。


 じいちゃんの隣まで行った。


 顔を上げた。


 そこから見えた谷は、さっきまでの景色とは違っていた。


 大地の裂け目の奥まで光が落ち、遠くの岩壁が赤く輝いていた。


「すげえな」


 俺が言った。


「だろ」


 じいちゃんはそれだけ答えた。


 その時、少しだけ分かった。


 怖くない場所から見る景色と、怖い場所まで進んで見る景色は、同じじゃない。


 *


 別の旅では、滝へ行った。


 森の中を歩いた先に、大きな滝壺があった。


 白い水が岩を滑り落ち、轟音を立てて水面へ落ちていた。その近くに、飛び込める場所があった。


 下を見る。


 遠い。


 水面が青黒く揺れていた。


「無理」


 反射的に言った。


 じいちゃんは下にいた。


「無理なら戻ってこい」


 そう言った。


 意外だった。


 いつもなら、やれと言うはずなのに。


 俺はもう一度水面を見た。


 足がすくんだ。


 怖かった。


 体が勝手に後ろへ下がる。


 戻ろうと思った。


 階段へ向きかけた。


 でも、途中で止まった。


 じいちゃんは何も言わない。


 ただ下から俺を見ている。


 俺はもう一度、滝壺の方へ向いた。


 怖い。


 それでも、ここまで来た。


 自分から、一歩前へ出た。


 足先が岩の端から少しだけ出る。


 水の音が大きい。


 心臓の音も大きい。


 目を閉じた。


 いや。


 開けた。


 そして飛んだ。


 一瞬だけ、何もなかった。


 地面もない。足場もない。体が空中に浮いている。


 次の瞬間、水の中だった。


 冷たい。


 苦しい。


 夢中で水面へ上がった。


 顔を出した。


 最初に見えたのは空だった。


 森の緑の向こうに、青い空があった。


 息を吸った。


 笑った。


 何がおかしいのか分からなかった。


 でも、笑った。


 じいちゃんも笑っていた。


 怖かった。


 本当に怖かった。


 なのに、もう一度飛びたいと思った。


 *


 中学生になった。


 高校生になった。


 その頃には、じいちゃんに連れていかれるだけじゃなくなっていた。


 地図を見るようになった。次に行きたい場所を調べるようになった。知らない国の写真を見るたびに、怖いより先に、行ってみたいと思うようになった。


 いつの間にか、自転車にも乗れる。犬にも触れる。雷が鳴っても、空を見る。


 高い場所は今でも怖い。


 飛行機も、少し怖い。


 でも、それでいいと思えるようになった。


 高校二年の時。


 じいちゃんと、マッターホルンを見に行った。


 その頃には、じいちゃんは昔より少し歩くのが遅くなっていた。


 坂道で、わずかに呼吸が荒くなることが増えた。でも本人は何も言わない。


 俺も何も言わなかった。


 少しだけ歩幅を合わせた。


 夕方。


 山々が赤く染まっていた。


 白い雪に夕日が当たり、岩肌の影が長く伸びていた。空は青から紫へ変わり始めていた。


 風は冷たかった。


 けれど、立ち去る気にはなれなかった。


 二人で岩に座って、しばらく山を見ていた。


 じいちゃんが口を開いた。


「お前がこの世から去る時は、いつか必ず来る」


 俺は横を見た。


「急だな」


「急じゃない」


 じいちゃんは山を見たままだった。


「俺にも来る。お前にも来る」


「縁起悪いこと言うなよ」


「死ぬことを縁起で避けても仕方ない」


 風が吹いた。


 草が揺れた。


 じいちゃんはゆっくり息を吐いた。


「だからな」


 少し間があった。


「記憶に残る人生を歩め」


「誰の?」


「まずは自分のだ」


 俺は黙って聞いていた。


「最後に目ぇ閉じた時、思い出せるものがいっぱいある人生にしろ」


 じいちゃんが俺を見る。


「何かに恐れたら、この言葉を思い出しなさい」


 その目は、昔と変わらなかった。


 自転車の後ろを押していた時と、犬の前で待っていた時と、雷を見ていた時と、飛行機で震える手を隠していた時と。


 ずっと同じだった。


「怖いままでいるのは、勿体ない」


 目の前には、赤く染まった山があった。


 俺はその景色を、たぶん一生忘れないと思った。


 *


「……っていう話です」


 そこで、俺の回想は終わった。


 ベンチに戻る。


 仲間たちは、しばらく黙っていた。


 やがて一人が小さく笑った。


「野菜怖かった奴に言われてもな」


 それにつられて、何人かが笑った。


「いや、野菜は今も少し」


「克服してねえじゃん」


 今度は、みんなが笑った。


 さっきまであれほど重かった空気が、少しだけ軽くなった。


 俺も笑った。


 立ち上がる。


 脚は重い。


 肺も苦しい。


 相手は強い。


 十二点差。


 残り十分。


 怖くないわけじゃない。


 負けるのは怖い。


 全国大会が終わるのも怖い。


 この先、何もできずに終わるのも怖い。


 でも。


「怖いままでいるのって、勿体なくないですか」


 誰かが笑った。


「だからさ」


 俺はコートを見た。


「死ぬ時に思い出すくらいの十分にしましょうよ」


 ブザーが鳴った。


 俺たちは立ち上がった。


 *


 試合には負けた。


 七十八対七十四。


 十二点あった差は、最後には四点になっていた。


 俺は最後まで、相手のエースに張りついた。


 何度も抜かれた。何度も追った。床にも飛び込んだ。


 最後の一本だけ、俺にボールが来た。


 打った。


 外れた。


 それで、俺たちの全国大会は終わった。


 *


 体育館の外へ出ると、夕方の空気が汗ばんだ体に冷たかった。


 仲間たちはまだ中にいた。


 泣いているやつもいた。黙っているやつもいた。


 俺も悔しかった。


 死ぬほど悔しかった。


 でも、不思議と逃げたとは思わなかった。


 壁にもたれて、スマホを取り出した。


 じいちゃんに電話をかける。


 三回目の呼び出し音で出た。


『おう』


「負けた」


『そうか』


「四点差」


『惜しかったな』


「最後、俺が打った」


『入ったか』


「外した」


『そうか』


 それだけだった。


 慰めもしなかった。


 よくやったとも言わなかった。


 昔からそういう人だった。


 少し黙ってから、俺は言った。


「でもさ」


『うん』


 体育館を振り返る。


 中から、まだ歓声が聞こえていた。


「たぶん、死ぬ時に思い出すわ。この試合」


 しばらく返事がなかった。


 それから、電話の向こうでじいちゃんが笑った。


『なら、いい試合だったな』


「うん」


 本当に、そう思った。


 負けた。


 悔しい。


 もっとやれたかもしれない。


 あのシュートが入っていたらとも思う。


 それでも、今日のことはきっと忘れない。


 少しして、じいちゃんが言った。


『で』


「何?」


『次、どこ行く』


 思わず笑った。


「また行くの?」


『当たり前だ』


「もう結構行ったじゃん」


『世界全部見たか』


「見てない」


『じゃあ行くぞ』


 俺は空を見上げた。


 夕焼けが広がっていた。


「今度は俺が決めていい?」


『好きにしろ』


「めちゃくちゃ遠いとこ」


『行けるうちに行っとけ』


「じいちゃんも来るんだよ」


『分かってる』


 少し笑った。


 怖いものは、まだたくさんある。


 行ったことのない場所も、やったことのないことも、負けることも、失敗することも、知らない世界へ踏み出すことも。


 たぶん、これから何度でも怖くなる。


 怖いものがなくなったわけじゃない。


 むしろ、世界が広がるほど、怖いものだって増えていくのかもしれない。


 でも、怖かったからこそ覚えている景色がある。


 怖かったからこそ、踏み出した一歩を覚えている。


 飛行機の窓から見た雲も。


 アルプスの白い山々も。


 グランド・キャニオンの赤い大地も。


 滝壺から見上げた青い空も。


 夕日に染まるマッターホルンも。


 そして今日の体育館も。


 きっと、最後まで忘れない。


 だから、また行こうと思う。


 まだ見たことのない景色を見に。


 怖いままでいるのは、勿体ないから。

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