怖いままでいるのは、勿体ない
全国大会三回戦。
第四クォーターを前にして、俺たちは十二点負けていた。
相手は、今年の優勝候補筆頭。高さがある。速い。外も入る。守備も固い。何より、強いチーム特有の余裕があった。
第三クォーター終了のブザーが鳴り、俺たちがベンチへ戻ると、誰も口を開かなかった。聞こえるのは、荒い呼吸と、タオルで汗を拭う音。体育館いっぱいに響いている歓声が、やけに遠く感じる。
俺は膝に両手をつき、床を見ていた。
脚が重い。相手のエースに三クォーター張りついて、太ももはもう張っていた。
俺は点を取る選手じゃない。ドライブで観客を沸かせることもなければ、試合を決めるようなスリーポイントを何本も沈めるわけでもない。
俺の仕事は、相手の一番嫌がるところにいることだった。
抜かれても追う。ボールに食らいつく。ルーズボールが転がれば床へ飛び込む。誰も触りたくないようなボールを拾う。
そういう選手だった。
監督がホワイトボードを持ったまま、俺たちを見回していた。
何か言おうとしていた。
その前に、俺は口を開いた。
「みんな、怖い?」
何人かが顔を上げた。
隣に座っていた先輩が、少し眉をひそめる。
「……何が」
「いや、この試合」
返事はなかった。
でも、その沈黙だけで十分だった。
俺だって怖い。ここで全国大会が終わること。何もできないまま負けること。自分のせいで失点すること。最後まで追いつけないこと。
いくらでも怖かった。
だから、少し笑った。
「俺、昔めちゃくちゃ怖がりだったんですよ」
「今?」
「今じゃないです」
少しだけ、誰かが笑った。
「犬が怖くて、雷が怖くて、高いところも怖くて、自転車にも乗れなくて」
「自転車?」
「転ぶじゃないですか」
「そりゃ転ぶだろ」
「だから怖かったんです」
また少し笑いが起きた。
俺は続けた。
「あと、野菜も怖かったです」
今度は、はっきり笑われた。
「それはもう怖いじゃなくて嫌いなだけだろ」
「ピーマンとか結構怖いですよ」
「知らねえよ」
さっきまで重たかったベンチの空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
俺も笑った。
だけど、本当にそうだった。
子どもの頃の俺にとって、世界は怖いものばかりだった。
犬は噛むかもしれないし、雷は落ちるかもしれない。自転車に乗れば転ぶし、高いところからは落ちる。知らない人に話しかければ怒られるかもしれないし、やったことのないことは、失敗する気しかしなかった。
だから、できるだけ何もしなかった。
そんな俺を見て、じいちゃんはある日言った。
「お前、つまんねえ人生になりそうだな」
小学三年生の夏だった。
「何で?」
「怖がってばっかりだからだ」
「だって怖いものは怖いじゃん」
「そうだな」
じいちゃんはあっさり頷いた。
俺は少し拍子抜けした。てっきり「怖がるな」とでも言われると思っていたからだ。
「じゃあ仕方ないじゃん」
「仕方なくはない」
「何で?」
じいちゃんは麦茶を一口飲んでから、ようやく俺を見た。
「怖いままでも、やれることはある」
その時の俺には、何を言っているのかよく分からなかった。
でも次の日、じいちゃんは補助輪を外した自転車を俺の前に置いた。
「乗れ」
「無理」
「乗ってから言え」
そうして、じいちゃんの妙な教育が始まった。
*
自転車には、やっぱり何度も転んだ。
膝を擦りむいて、肘を打って、そのたびに「もうやらない」と言った。それでもじいちゃんは翌日になると、何事もなかったように自転車を庭先へ出した。
「もう一回」
「昨日転んだじゃん」
「知ってる」
「痛かったんだけど」
「知ってる」
「じゃあ何でやるの」
「昨日より一回多く乗れるかもしれんからだ」
意味が分からなかった。
でも、結局乗った。
ある日、いつものように自転車を漕いでいた。じいちゃんが後ろを支えていると思っていたから、怖いながらもペダルを踏めていた。
ところが、ふと振り返ると、じいちゃんはずっと後ろにいた。
「じいちゃん!」
「前見ろ!」
慌てて前を向いた。
その瞬間、気づいた。
俺は一人で進んでいた。
怖かった。転ぶかもしれない。それでも、自転車はちゃんと前へ進んでいた。
その日、初めて一人で家の前を一周した。
じいちゃんは何も褒めなかった。ただ玄関へ戻りながら、
「乗れたな」
とだけ言った。
俺はその言葉が、妙に嬉しかった。
*
野菜も苦手だった。
特にピーマンが嫌いだった。
苦いし、匂いも嫌いだし、何よりあの濃い緑色がどうしても駄目だった。夕飯に青椒肉絲が出た日、俺は皿の端にピーマンだけを綺麗に避けていた。
じいちゃんは、しばらく黙ってそれを見ていた。
「食わんのか」
「無理」
「なんで」
「怖い」
「野菜が?」
「うん」
じいちゃんは箸を置いた。
そして俺の皿からピーマンを一つつまみ、そのまま俺の口元へ持ってきた。
「口開けろ」
「やだ」
「開けろ」
「無理!」
「噛まんぞ」
「そういう怖さじゃない!」
顔を背けると、じいちゃんの手も一緒についてきた。
「じいちゃん、やめて!」
「食ってから嫌いになれ」
「もう嫌いだよ!」
「食ってないだろ」
「前に食べた!」
「いつ」
「覚えてない!」
「じゃあ食え」
逃げ場がなかった。
結局、半泣きで口を開けた。
ピーマンが入る。
苦い。
やっぱり苦い。
眉間にしわを寄せながら何度か噛んで飲み込むと、じいちゃんが聞いた。
「死んだか」
「死んでない」
「じゃあもう一個」
「なんで!?」
その日、俺はピーマンを三つ食べた。
好きにはならなかった。
でも、それ以降「怖い」とは言わなくなった。
*
次は犬だった。
近所の家に、大きなゴールデンレトリバーがいた。
今思えばかなり人懐っこい犬だったけれど、当時の俺には、牙を持った巨大な獣にしか見えなかった。散歩中に向こうから歩いてくるだけで、道の反対側へ逃げた。
そんな俺を、じいちゃんはわざわざ犬のいる家へ連れていった。
「触ってこい」
「無理」
「噛まん」
「噛むかもしれないじゃん」
「そうだな」
「じゃあ無理じゃん」
「でも噛まないかもしれん」
意味が分からなかった。
俺はじいちゃんの服を掴んだ。
「一緒に来て」
「嫌だ」
「なんで」
「お前が触るんだろ」
じいちゃんは少し離れた場所に立った。
俺は動けなかった。
犬は尻尾を振っていた。
一歩近づく。止まる。また一歩。
犬が鼻を鳴らした。
逃げたくなった。
それでも、少しずつ手を伸ばした。指先が震えていた。
犬は俺の手の匂いを嗅ぎ、それから舐めた。
舌は湿っていて、鼻先は冷たかった。思っていたよりずっと温かい生き物だった。
俺は恐る恐る頭を撫でた。
犬は目を細めた。
その帰り道。
「怖かったか」
じいちゃんが聞いた。
「怖かった」
「触れたな」
「うん」
「じゃあ次からは、今日より少し怖くない」
それだけだった。
*
雷も怖かった。
遠くで鳴るだけで布団に潜った。
じいちゃんは、そんな俺を雷雨の日に縁側へ座らせた。
「落ちるよ」
「落ちるかもしれんな」
「家に入ろうよ」
「ここから見る方が綺麗だ」
俺は理解できなかった。
雷のどこが綺麗なんだと思った。
空が一瞬だけ白く光る。少し遅れて、低い音が腹の奥まで響く。
怖くて、じいちゃんの服を掴んだ。
じいちゃんは何も言わなかった。ただ空を見ていた。
何度目かの稲妻が、夜空を端から端まで裂いた。
その時、ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
綺麗だと思った。
*
それから、じいちゃんのやることは少しずつ大きくなった。
知らない店へ一人で買い物に行かされた。山へ連れていかれた。川を渡らされた。高い場所へ登った。初めて会う人に道を聞かされた。
そのたびに怖かったし、そのたびに逃げたかった。
でも、一度やってしまえば、次に同じことをするときは、ほんの少しだけ怖くなかった。
怖いものが消えていったわけじゃない。
怖さの向こう側に何があるのか、少しずつ分かるようになっていった。
そして、小学六年生の春。
夕飯を食べている時だった。
じいちゃんが味噌汁をすすりながら言った。
「パスポート取るぞ」
俺は箸を止めた。
「何で?」
「海外行くから」
「誰が?」
「俺とお前」
「何で?」
「行きたいから」
あまりにも普通の顔で言うから、最初は冗談だと思った。
でも、じいちゃんは本気だった。
数か月後。
俺は、本当に飛行機の中にいた。
*
離陸する前から怖かった。
シートベルトを何度確認したか分からない。
機体が滑走路を走り始める。速度が上がる。体が座席に押しつけられる。
そして、地面が離れた。
窓の外で町が小さくなる。家が小さくなる。道路が細い線になる。
俺は肘掛けを握りしめていた。
「落ちない?」
「知らん」
「知らないの?」
「俺が飛ばしてるわけじゃない」
「怖くないの?」
「怖くない」
隣でじいちゃんは新聞を読んでいた。
いかにも余裕そうだった。
けれど、しばらくして気づいた。
じいちゃんは、ずっと同じページを開いている。新聞を持つ指も、ほんの少し震えていた。
「じいちゃん」
「なんだ」
「怖いんでしょ」
「怖くない」
「手、震えてる」
「寒い」
「暑いよ」
じいちゃんは黙った。
俺は初めて、じいちゃんをじっと見た。
「本当は怖い?」
しばらくして、じいちゃんは小さく息を吐いた。
「まあ、少しな」
驚いた。
何でも平気だと思っていた。
じいちゃんは、世界で一番怖いものがない人だと思っていた。
「怖いのに乗るの?」
「ああ」
「何で?」
じいちゃんは新聞を畳んだ。
「乗らなきゃ、見られないものがあるからだ」
それだけ言って、窓の外を見た。
俺も見た。
雲があった。
地上から見ていた雲を、今度は上から見ていた。
真っ白な雲が、どこまでも続いていた。
*
初めて見たアルプスは、思っていたよりずっと大きかった。
写真でも映像でも何度も見ていた。
でも、本物は全然違った。
空が近かった。
白い峰がいくつも連なり、青い空の下に、雪の線が鋭く伸びていた。風が草を揺らし、遠くでは牛の首につけられた鐘の音が小さく鳴っていた。
空気は冷たくて、吸い込むと肺の奥まで綺麗になるような気がした。
俺は何も言えなかった。
じいちゃんも、何も言わなかった。
二人でただ立っていた。
飛行機は怖かった。知らない国も怖かった。言葉も分からなかった。
それでも、ここへ来なければ、この景色は見られなかった。
それだけは分かった。
*
旅は、一度では終わらなかった。
次の年も、その次の年も、じいちゃんは俺を連れ出した。
ある時は、グランド・キャニオンへ行った。
赤茶けた大地が、どこまでも続いていた。
大地が巨大な爪で引き裂かれたみたいに深く落ち込み、その向こうにも、さらに向こうにも岩壁が続いていた。
見たことのない景色だった。
地球が巨大すぎて、自分なんてそこに落ちた埃みたいに思えた。
崖の近くまで行こうとして、足が止まった。
下から風が吹き上げてくる。
谷底が遠い。
吸い込まれそうだった。
「無理」
俺は言った。
じいちゃんは振り返った。
「そうか」
それだけ言って、先へ歩いていった。
「待ってよ」
「ここにいるぞ」
「怖い」
「見れば分かる」
俺は動けなかった。
じいちゃんは少し先に立って、景色を見ていた。戻ってこなかった。手も差し出さなかった。
俺は足元を見た。
一歩、進んだ。
まだ怖い。
もう一歩。
足の裏が妙に冷たい。
風が吹く。
心臓が速くなる。
それでも進んだ。
じいちゃんの隣まで行った。
顔を上げた。
そこから見えた谷は、さっきまでの景色とは違っていた。
大地の裂け目の奥まで光が落ち、遠くの岩壁が赤く輝いていた。
「すげえな」
俺が言った。
「だろ」
じいちゃんはそれだけ答えた。
その時、少しだけ分かった。
怖くない場所から見る景色と、怖い場所まで進んで見る景色は、同じじゃない。
*
別の旅では、滝へ行った。
森の中を歩いた先に、大きな滝壺があった。
白い水が岩を滑り落ち、轟音を立てて水面へ落ちていた。その近くに、飛び込める場所があった。
下を見る。
遠い。
水面が青黒く揺れていた。
「無理」
反射的に言った。
じいちゃんは下にいた。
「無理なら戻ってこい」
そう言った。
意外だった。
いつもなら、やれと言うはずなのに。
俺はもう一度水面を見た。
足がすくんだ。
怖かった。
体が勝手に後ろへ下がる。
戻ろうと思った。
階段へ向きかけた。
でも、途中で止まった。
じいちゃんは何も言わない。
ただ下から俺を見ている。
俺はもう一度、滝壺の方へ向いた。
怖い。
それでも、ここまで来た。
自分から、一歩前へ出た。
足先が岩の端から少しだけ出る。
水の音が大きい。
心臓の音も大きい。
目を閉じた。
いや。
開けた。
そして飛んだ。
一瞬だけ、何もなかった。
地面もない。足場もない。体が空中に浮いている。
次の瞬間、水の中だった。
冷たい。
苦しい。
夢中で水面へ上がった。
顔を出した。
最初に見えたのは空だった。
森の緑の向こうに、青い空があった。
息を吸った。
笑った。
何がおかしいのか分からなかった。
でも、笑った。
じいちゃんも笑っていた。
怖かった。
本当に怖かった。
なのに、もう一度飛びたいと思った。
*
中学生になった。
高校生になった。
その頃には、じいちゃんに連れていかれるだけじゃなくなっていた。
地図を見るようになった。次に行きたい場所を調べるようになった。知らない国の写真を見るたびに、怖いより先に、行ってみたいと思うようになった。
いつの間にか、自転車にも乗れる。犬にも触れる。雷が鳴っても、空を見る。
高い場所は今でも怖い。
飛行機も、少し怖い。
でも、それでいいと思えるようになった。
高校二年の時。
じいちゃんと、マッターホルンを見に行った。
その頃には、じいちゃんは昔より少し歩くのが遅くなっていた。
坂道で、わずかに呼吸が荒くなることが増えた。でも本人は何も言わない。
俺も何も言わなかった。
少しだけ歩幅を合わせた。
夕方。
山々が赤く染まっていた。
白い雪に夕日が当たり、岩肌の影が長く伸びていた。空は青から紫へ変わり始めていた。
風は冷たかった。
けれど、立ち去る気にはなれなかった。
二人で岩に座って、しばらく山を見ていた。
じいちゃんが口を開いた。
「お前がこの世から去る時は、いつか必ず来る」
俺は横を見た。
「急だな」
「急じゃない」
じいちゃんは山を見たままだった。
「俺にも来る。お前にも来る」
「縁起悪いこと言うなよ」
「死ぬことを縁起で避けても仕方ない」
風が吹いた。
草が揺れた。
じいちゃんはゆっくり息を吐いた。
「だからな」
少し間があった。
「記憶に残る人生を歩め」
「誰の?」
「まずは自分のだ」
俺は黙って聞いていた。
「最後に目ぇ閉じた時、思い出せるものがいっぱいある人生にしろ」
じいちゃんが俺を見る。
「何かに恐れたら、この言葉を思い出しなさい」
その目は、昔と変わらなかった。
自転車の後ろを押していた時と、犬の前で待っていた時と、雷を見ていた時と、飛行機で震える手を隠していた時と。
ずっと同じだった。
「怖いままでいるのは、勿体ない」
目の前には、赤く染まった山があった。
俺はその景色を、たぶん一生忘れないと思った。
*
「……っていう話です」
そこで、俺の回想は終わった。
ベンチに戻る。
仲間たちは、しばらく黙っていた。
やがて一人が小さく笑った。
「野菜怖かった奴に言われてもな」
それにつられて、何人かが笑った。
「いや、野菜は今も少し」
「克服してねえじゃん」
今度は、みんなが笑った。
さっきまであれほど重かった空気が、少しだけ軽くなった。
俺も笑った。
立ち上がる。
脚は重い。
肺も苦しい。
相手は強い。
十二点差。
残り十分。
怖くないわけじゃない。
負けるのは怖い。
全国大会が終わるのも怖い。
この先、何もできずに終わるのも怖い。
でも。
「怖いままでいるのって、勿体なくないですか」
誰かが笑った。
「だからさ」
俺はコートを見た。
「死ぬ時に思い出すくらいの十分にしましょうよ」
ブザーが鳴った。
俺たちは立ち上がった。
*
試合には負けた。
七十八対七十四。
十二点あった差は、最後には四点になっていた。
俺は最後まで、相手のエースに張りついた。
何度も抜かれた。何度も追った。床にも飛び込んだ。
最後の一本だけ、俺にボールが来た。
打った。
外れた。
それで、俺たちの全国大会は終わった。
*
体育館の外へ出ると、夕方の空気が汗ばんだ体に冷たかった。
仲間たちはまだ中にいた。
泣いているやつもいた。黙っているやつもいた。
俺も悔しかった。
死ぬほど悔しかった。
でも、不思議と逃げたとは思わなかった。
壁にもたれて、スマホを取り出した。
じいちゃんに電話をかける。
三回目の呼び出し音で出た。
『おう』
「負けた」
『そうか』
「四点差」
『惜しかったな』
「最後、俺が打った」
『入ったか』
「外した」
『そうか』
それだけだった。
慰めもしなかった。
よくやったとも言わなかった。
昔からそういう人だった。
少し黙ってから、俺は言った。
「でもさ」
『うん』
体育館を振り返る。
中から、まだ歓声が聞こえていた。
「たぶん、死ぬ時に思い出すわ。この試合」
しばらく返事がなかった。
それから、電話の向こうでじいちゃんが笑った。
『なら、いい試合だったな』
「うん」
本当に、そう思った。
負けた。
悔しい。
もっとやれたかもしれない。
あのシュートが入っていたらとも思う。
それでも、今日のことはきっと忘れない。
少しして、じいちゃんが言った。
『で』
「何?」
『次、どこ行く』
思わず笑った。
「また行くの?」
『当たり前だ』
「もう結構行ったじゃん」
『世界全部見たか』
「見てない」
『じゃあ行くぞ』
俺は空を見上げた。
夕焼けが広がっていた。
「今度は俺が決めていい?」
『好きにしろ』
「めちゃくちゃ遠いとこ」
『行けるうちに行っとけ』
「じいちゃんも来るんだよ」
『分かってる』
少し笑った。
怖いものは、まだたくさんある。
行ったことのない場所も、やったことのないことも、負けることも、失敗することも、知らない世界へ踏み出すことも。
たぶん、これから何度でも怖くなる。
怖いものがなくなったわけじゃない。
むしろ、世界が広がるほど、怖いものだって増えていくのかもしれない。
でも、怖かったからこそ覚えている景色がある。
怖かったからこそ、踏み出した一歩を覚えている。
飛行機の窓から見た雲も。
アルプスの白い山々も。
グランド・キャニオンの赤い大地も。
滝壺から見上げた青い空も。
夕日に染まるマッターホルンも。
そして今日の体育館も。
きっと、最後まで忘れない。
だから、また行こうと思う。
まだ見たことのない景色を見に。
怖いままでいるのは、勿体ないから。




