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烏有に帰す その3

 外門と内門の間、壁に凭れるように建てられた小屋で一人の男が椅子に座っていた。


今日は仕事が特段無い。それはこの門に来る人間の絶対数が少ないためでもあるが、彼に大した仕事が任されていないからでもある。


人間を入国させる為に書類の読み書きは、もっと頭のいい人が外門近くに建てられた小屋の中でやってくれる。内門を開ける権限も腕力も彼にはない。

彼の仕事はただ外門に来た人間を小屋の方へ向かわせることと、同僚が小屋から連れてきた人間を通すために外門を開くこと。小屋の人間の出勤と退勤の為にも外門を開ける。それだけだ。


前回の占い師の時が異例だったが、それでも彼は大して頭を使う必要はなかった。前々から同僚や上司から優しく易しく言い伝えられていた通りに紙とインクを動かすだけで良かったのだ。


仕事内容はあまりに簡単で少なかったが、仕事場は充実していた。屋根があり、壁があり、物を入れられる棚があり、椅子がある。人一人が寝転べば椅子を置けなくなるのではないかという狭い空間だったが、男には十分だった。ただひとつ不満があるとしたら、チェストの中の紙とインクを使う機会が少なすぎるために劣化が激しいということだった。


男はじっと座っていた。足元に兜がひとつ、転がっていた。防除のためではない。そういう手荒なことは外の小屋の同僚が、更に切羽詰まったときは別の門からの援軍がしてくれる。

端的に言えばただの飾りである。金属で作られてはいるもののところどころ錆びているし、もとより酷くちゃちかった。おそらくその辺の街路樹の枝にすら耐えられぬだろう。これは近所に住む物好きの爺さんに貰ったものである。その頃男は貰えるものは何だって貰おうという精神を携えていた。今はそうでもないが、その爺さんはとっくに死んでいる。


「暇、だなぁあ」男はそう呟いた。


暇。これがこの易しく優しい仕事の唯一の問題点であった。基本的にこの部屋に書類以外の活字を持ち込むことは許されない。そもそもこんな仕事に就くような人間は本を買うような金も頭も持ち合わせていなかったが。


しかし男は今の今まで暇だと強く感じて口にすることはなかった。男の回りきらぬ頭にはずっとむかしのおもいでが回っていたからだ。

では何故今男は暇を実感したのか。それは昨日ここを訪れた、黒髪の占い師にある。


桜川(さくらがわ)隼大花(はやたか)


前世、この男の死の遠因となった男である。


この男は前世も頭と身体が弱かった。しかも生まれ落ちた環境が酷く、惨くでろくでもなく生き延び続けていた。さんざ奪われ続けながら。


奪われ続けた弱者はある日、奪い返す、ということを発見した。それは、奪う、ということの発見でもあった。そしてそれは『能力』の発現だった。


奪われることしか教えられなかった子どもは、奪うことしか知らずに姿形のみ大人になった。


彼は能力を用いてひたすらに奪い続けた。その名が闇に囁かれるまで。悪魔の耳に届くまで。

そして彼は白砂星青(しらすなせいしょう)という悪の権化に見初められ、甘言に乗せられて桜川隼大花らを殺すために意気揚々と向かったところ散々な返り討ちに遭ったのだ。主に殴ったのは隼大花であるが、無論彼は悪人ではない。いくらか骨が折れた、文字通りの骨折、その程度で済ませた。


ただ桜川隼大花らは知らなかったのだ。正当に病院にかかれない人間がいることを。


男の愚かさはその後に重なる不運で嵩増しされることとなった。かかった闇医者の藪加減。なけなしの金で買った痛み止めが何であったか。左手の人差し指が折れてさえいなければこなせた仕事。優しい面をした人間の悪意。

野垂れ死に。文字通り野に垂れて死んだのだ。

苦しみとそれ以上の屈辱。晴らしたい、晴らしたいと思いながら死んだ。




「おい!帰ろう!」外門からの声で男ははっと回想から帰った。

「は、はぃい」男はよろよろと椅子から立ち上がり、外門を開ける。


「おつかれさまですう」男は年下の同僚の背に声をかける。同僚は振り返り、お疲れ!と明るく叫んで前を向き帰っていった。結婚したばかりの彼が男には少しばかり眩しく見えた。

年寄りの上司が他の同僚幾人かを連れて男に声もかけずどこかへ行ってしまった。男はしばらく立ち尽くし、やがて深々と頭を下げた。

「おつかれ、さま、です」


男はとぼとぼと寮までの道を歩く。黒い動物を模した置物を飾った窓がある角を曲がると、食堂が見える。

「おーい!あんたぁ!」店先から肥った女性が声を張り上げて呼んだ。この食堂のおかみさんである。別にそこまで声高でなくとも聞こえるし毎日のことだから男もわかっているのだが、このひとはいつも大声で呼ぶ。

「今日の夜食べるとこあるの?お代はいいからさ、おなかすいたでしょう?」走り寄る男に女性は北と南を知らない子供に道を教えるような優しい声で早口にまくし立てる。

「食べていきなよ」このおかみさんは毎日善意で身銭を切ってこのみじめな門番もどきに朝と夜食べさせてやっている風にしているということを男は知っている。この店が上からいくらか貰っているということも。

「ありがと、ざいますう」しかし男は礼を言う。


「おなかいっぱい食べるのよ」置かれた皿のスープは温かい。パンは穀類の香りがする。

この食卓には事実しか置かれていないのだ。

男は再び礼を言うと、スプーンを持った。木で作られたそれは年月によって過剰な丸みを帯びていた。


店先の方でわっと歓声が上がった。しかし自分には関係ないことだ、と男は黙々と咀嚼を続ける。食べながら感想を言おうとすると口からこぼれるということをこの男は知っていた。


「隣いいか?」

事実を嚙みしめる男の隣に座ったのは、長い黒髪の男だった。

「久方振りだな、レイヴン」

桜川隼大花その人だった。


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