嵐の一夜
電気を消した後、悠樹は末嗣に背を向けて、できるだけ壁の方に身を寄せた。
台風接近のニュースが流れると「不謹慎だけどワクワクする」などという声を聞くことがある。
時に人の命すら奪いかねない災害だというのに、そんな感情を抱くのは実に不謹慎だ。
とは言え、ひょっとしたら明日休校になるかもしれない、そう思うとちょっとばかりテンションが上がる。悠樹にも身に覚えがある感情だ。
だが今回ばかりはさすがに、そんなお気楽な気持ちに到底なれなかった。
暗闇の中、耳を澄ませば背後で人の気配と息遣いがかすかに聞こえる。
一つのベッドに男女が一緒。
もちろん相手がそうと知らないので、悠樹の妄想に過ぎない。だがそれでもいつバレるかもしれない、そんな危機感と相まって、なにやら胸がドキドキしてくる。
ちらりと肩越しに振り返ると、いくぶん闇に目が慣れて暗がりの中に末嗣の顔が見えた。
身じろぎしたのが伝わったのか、閉じていた瞳がぱちりと開く。
「なんだよ」
「え? や、別に。頼むからさ⋯夜中に寝ぼけて抱きついたりすんなよな」
半ば本気で心配事が口をついて出たのだが、冗談だと思ったのだろう。その言葉に末嗣から小さく笑う気配がした。
「ばーか」
つられて悠樹もヘラリと笑う。笑って再び背を向ける。笑ってみせたのは精一杯の強がりだ。動悸はいっこうにおさまらない。
聞こえてやしないだろうかと、そんなありえないことまで考えてしまう。
今夜はきっと眠れそうにない。そう思いつつ形だけでも悠樹は目を閉じた。
(大丈夫。バレやしない)
幸か不幸か、悠樹はこの年になってもまだ初潮を迎えていない。医学的には十八歳まで大丈夫と聞いたことがあるので、そのままにしているが、そのせいか女性としての発達も止まったままだ。
中学二年生の時に一度だけ、男子に胸を見られてしまったことがあったが、相手はいっこうに気にもしなかったぐらいなのだ。
これはもう祖母の執念――いや生霊がとり憑いているに違いない。
ことは六歳の時。
双子の兄が亡くなった、あの時からこの偽りの生活が始まった。
祖母は長男教という古い考えの持ち主で、兄をたいそう可愛がっていた。
しかも母が二度と妊娠できない体になってしまってからは異常なくらい兄に執着を見せた。
双子のもう一人は妹だった。名前は泉。兄の名前が悠樹だった。
双子の兄妹はその日、川で溺れた。
妹が息を吹き返した時、兄はもうとっくにこの世を去っていた。
川に流された兄の遺体は行方不明になったまま、その後数日の大捜索にも関わらず、見つかることはなかった。
祖母は兄を諦められなかった。そしてついに川で助かったのは兄の方だと言ってはばからなくなった。
当時、祖母は兄を失ったショックの為か一時ボケたも同然の時期があった。
祖母は兄の死を受け入れられなかった。受け入れる代わりに事実から目を背けることを選んだ。
それもあったのだろう。両親は妄想に囚われた祖母の希望を叶えようとした。
どのような手段を用いたのか、祖母は行方不明になったのは実は妹だったと事実を塗り変えてしまった。つまり、兄ではなく泉の行方不明者届けを出したのだ。
本来なら泉を守るべき両親は、この祖母を説得するどころか今もなお言いなりだ。当時たかだか六歳の子供が太刀打ちできるはずもない。
事の顛末を明かして誰かに助けを求めるよりも、両親や祖母に兄としての生活に慣れさせられる方が早かった。
おかげでここまで男らしく育ってしまい、今もなんら変な噂が立つこともない。
もちろん大人たちの苦労も並大抵ではなかっただろう。学校の身体測定、水泳、体育の着替えなど、少しの失敗で全てが露見する恐れがあるのだから。
おかげで修学旅行は常に不参加だったし、何度か転校も経験している。
そこまでして泉を兄に仕立てようとする祖母はもうずっと狂っている。
今夜は眠れないだろうと思っていた悠樹だが、緊張が緩んだ途端、いつの間にか眠りに引き込まれていた。
次に目が覚めた時、部屋は真っ暗闇に包まれていた。辺りはシンと静まり返り、かえって静寂が耳に痛いくらい。
たいてい朝までぐっすりな悠樹は、なぜ途中で目が覚めてしまったのだろうと、モヤのかかった頭でぼんやり考える。
少し遅れて背中に温もりを感じたものの、再び訪れた眠気に抗えず目蓋を閉じようとした――途端。
腹に回された二の腕に気づいてギョッとする。これにはさすがの悠樹も一気に眠気が吹っ飛んだ。
普段から寝汚い悠樹だが、一応誰かに抱きつかれれば起きるぐらいには生物としての生存本能はちゃんと備わっていたらしい。
妙な感心をしながら、そうっと自身に巻きつく腕に触れる。背後からすっぽりと悠樹を抱え込むその腕は、当然ながら大型肉食獣ならぬ井上末嗣のものだ。
(やっぱり寝ぼけたか)
これだから年頃の男というヤツは油断ならない。眠っていても体は無意識に反応してしまうのだから。
背後の友人を起こさないよう注意しながら、ひとまず体に巻きつく手を引き剥しにかかる。
あともう少し――。
とその時、あろうことかほどいた手が再び腹の真ん中で組み直されるのを悠樹は呆気に取られながら見た。
まだ寝ぼけてんのか。一回体を離した方がいいか?
腹に腕を張りつかせたまま身を起こす。いや起こそうとしたところで、悠樹の目論見はあえなく阻まれた。身体に回された腕にグッと力が込められ、強引にシーツの上に引き戻されたからだ。
(え?)
思わず背後を振り返ると、そこにはまっすぐこちらを見る末嗣の眼差しがあった。
まさか寝ぼけて、いない…?