【第二十七話 生まれ変わり】
男が自爆スイッチに手をかけた瞬間、船体は爆風と共に巨大な炎の塊となった。私の体は重力を忘れた花びらのように宙を舞い、紺碧の水面に叩きつけられる。
――そして全ては真っ暗になった。
バババ…というヘリのローター音と共に目を覚ました。開いた瞼の向こうには、太陽の光にキラキラと照らされた白砂が広がる天国……否、美浜の海岸が広がっていた。
――そうか、私は生き延びたのだ…ふと目線をあげると、海上保安庁なのか警察なのかヘリが遠ざかっていくのが見える。そして、人の声もする。とっさにお腹を気遣いながら腕の力だけで鉛のように重い体を引きずり、目の前のテトラポットの隙間にねじ込む。その時、下半身の感覚がないのに気づいた。お腹の子が生きているのか分からない……だがまだ生きている可能性が1%でもある以上、生き延びないと。
「とにかく隠れないと…」
素手で穴を掘る。…そう、訓練で敵から身を隠すに穴を掘れと教えられていた。そこで夜まで見つからなければ、闇に紛れて自力で東京に戻れるはず…せめて警察署まで…。だが掘れども、砂の穴は作ったそばから崩れていく。その時…
――カチャ!頭上で金属音が鳴った。
「動くな。動いたら撃つ」
砂浜に映る人影が、震えるもう一人の影に銃を向けている。
「闇夜に紛れて逃げようとしてもムダ。ここは一般人が入れない場所だから」
――見つかった。北朝鮮の人間?それとも?
「黒田百合子で間違いないな?」
――静かに頷いた。声の主は…女性?
「…結局、あの船で生き残りはあなただけみたい。死に損ないってやつ?」
「命だけは…勘弁してください。お腹に子どもがいるんです…」
「殺人兵器がまさかの命乞い?散々人を殺めてきたくせに…大丈夫、自分でキリがつけられないんだから私が始末してあげる」
涙がこぼれた…
「お願いします。殺さないで…」
「ダメよ。あなたの人生はココでおしまい……黒田百合子……いや、金山智子」
「!?」
そのまま、すぅーと意識が遠のき世界は真っ暗になった。
目を覚ますと、そこには真っ白で無愛想な天井が威圧するように立ちはだかっていた。……体を起こそうとすると手足に冷たい感触が食い込み、反動で体をベッドに叩きつけた。私の四肢と腰は強力なバンドでベッドに拘束されていた。首だけを起こし周囲を見渡すと…その足の向こうにスーツ姿の女性が立っていた。
「はじめまして、目が覚めた?」
「…ここは?」
「警察病院よ。あなた、運良く原発の敷地名に流れ着いたの…じゃなきゃ先に仲間に見つかって殺されてたかもしれない」
「警察病院?」
「そう。自己紹介がまだだったわね。私は…警視庁公安部外事二課。仮に鈴木直子とでも名乗っておこうかしら?」
――彩花が怪訝な表情を浮かべた。
「…公安部外事…って何?」
直子さんは静かに答える。
「日本で暗躍する海外勢力の監視を主に行う部署よ。特に私は、北朝鮮が覚醒剤の密輸に関与している疑いをもっていて、重点的に調べていた。そして例の親不知の現場近くで女性工作員と思われる焼死体に出会った」
「黒燕の遺体だ…」
「えぇ…身元を調べようとしても所持品は丁寧に消えていて…唯一、彼女がしていた指輪が一点もののペアリングだったの。そこからたどって同居人の黒田百合子=真理の存在に行き着いた」
「銀座で2人がお揃いで買った指輪…それが母さん=黒燕=直子さんを繋げたんですね」
直子さんは静かに頷いた。美咲は感慨深い顔をする。
「真理を守って欲しいって黒燕のメッセージだったのかもね」
警察病院の一室に大の字で固定された私は惨めな格好で、仰向けにされたままいくつかの質問に答えた。だが頭の中では雄一と美咲の事で頭がいっぱいだった。質問が50つ目を超えたとき、痺れを切らして逆質問した。
「あの…雄一と美咲は…?私の家族は無事なんですか?」
「家族?」
「そうです」
「家族だなんて笑っちゃうわね。あなたたち工作員にとっては、ただの偽装工作の道具でしょ?」
「…そのはずでした。だけど…心配で」
「…?」
しばらくの静寂…顔は見えなくても鈴木直子が不思議がっているのは分かる。
「どうなったかは言えない」
「そんな…会わせてもらえませんか?…雄一に、美咲に、…伝えたいんです。お腹に赤ちゃんがいるって、美咲…お姉ちゃんになるんだよって」
「それは出来ない。もし生きていたとしても」
「…!?」
「あなたの旦那さんにも嫌疑がかかっている。もし工作員の仲間だとすれば、あなたと会う事でどんな口裏合わせや証拠隠滅が行われているかわからないでしょ。それに本当に一市民だとしたら余計に会わせるわけにはいかない……なぜなら、法的に黒田百合子は死んだ事になっているから」
そういうと一枚の新聞記事を見せた。見出しには「美浜沖で沈没事故か?死者数名」とある。漂流した外国漁船がエンジントラブルで出火という内容になっている。
「漁船…エンジントラブル…?」
「政府は公式には不審船と認めてない。そんなのが平気で領海侵犯してるなんて大パニックになるからね。…でも大事なのはココ」
記事には「女性を含む死者数名」と書かれてある。
「この記事を見れば北朝鮮側は女性=黒田百合子は死んだものだと思って、これ以上追いかけてくることはない」
そういうと、私のお腹を指さした。
「日本国民である家族と、これから日本国民になるその子を守るためにも、あなたには死んでもらわないと。もちろん法的に」
「…はい」
そうだ。私は人さらいの手伝いをし、家族を危険にさらした…そんな人間が、家族に会いたいなどと人並みの幸せを望むなんて許されるわけがない。神様が私を生かしたのは、ただ罪のないお腹の子を守るため…
「あなた、本気?工作員として失格ね」
私は泣いていた。知らず知らずのうちに大粒の涙をボロボロとこぼしていた。もう雄一にも美咲にも会えない、会うべきでないのだ…その表情に鈴木直子はあっけにとられた表情をしている。
「呆れた…工作活動の道具のつもりが情が芽生えちゃったってわけね」
「…はい。私はずっと逃げ出したかった。ただの家族になりたかった。黒燕もです。彼女も…」
「もしも…」
「…?」
「もしも、あなたが本気望むなら夫や娘ともう一度暮らす方法は全くなくはない…」
「え!?」
「時間はかかるだろうけど、北朝鮮の工作員を駆逐すれば、家族に危険がないと言いきれるようになれば、また一緒に暮らせるようになる」
「…それはつまり、私に日本警察の協力しろと?」
静かにうなづく。とっさに北朝鮮にいる母や、生きているか分からない弟の事が頭に浮かんだ。
「協力出来ないと言ったら?」
「…」
冷たく無言を貫く。私だけでない、家族の立場も危うくなるというメッセージだ。
「…この鉄格子の中で、死んだも同然の幽霊として生きるのかどっちを選ぶ?」
ーー他に選択肢はなかった。
「やらせてください」
「…本気なのね?」
「はい」
「じゃあ、改めて絶対守るべき条件は3つ。
一つ目、黒田百合子の名前を捨て全くの別人として生きる事。
二つ目、安全が確保されるまで夫や娘と直接の接触を持たない事。
三つ目。24時間、私のそばを離れない事。離れる場合はどこにいるか報告する」
私は、公安によって用意された架空の戸籍、渥美真理を名乗った。
――ここで警察から用意された名前が渥美真理だったのだ。
1980年代初頭、ソウルオリンピックの開催が決まり、北朝鮮は妨害のため活動を活発化させていた。そこで私は監視下の官舎から鈴木直子にアドバイスし、日本に潜む工作員たちを発見・駆逐する役目を担った。
「まず接線ポイント、つまり密入国場所を徹底的に塞ぎます」
地図にバツ印をつけていく。
「さらに暗号を解読していくためのチームを作ります。暗号は定期的に変わりますが、ピアノの旋律のようにある種の連続性・法則性があります。そこから解読の糸口を掴みます」
他にも、偽造パスポートのクセ、工作員の協力者の特性、資金の流れなど知りうる情報は全て伝えた。それをもとに公安は工作員や協力者を炙り出した。
「あなたのおかげでかなりの成果が出てるわ。ありがとう」
「はい…でもこのペースではキリがない…」
「立派よ。もう30人も挙げてる」
「いえ、日本に潜伏する工作員は少なくとも1000人以上。しかも日本にはスパイを取り締まる法律がないので、不法滞在か書類偽造の罪でしか摘発できない。リスクがないからすぐ次が来る。まるで賽の河原です…」
「完全に駆除できないなら、せめて活動を止めましょう」
「…活動を止める?どうやって?」
「工作員の資金源、覚醒剤の密輸ルートを絶つ」
「ですけど捕まえるのは現行犯じゃないと…この広い日本海のいつどこで取引するか分からないのにどうするつもりですか?」
「一つだけ切り札があるわ」
「…!!…もしかして“ヤマ”ですか?」
「あなた…その存在を知っていながら、あの家を買ったの?」
私は頷いた。
「北朝鮮の工作員ならその存在は周知の事実です。ですが、所在地を知ったのは本当に偶然でした」
「そんな公安の巣窟に自ら飛び込んでくるなんて…なめられたものね。けど、そこまで家族を守りたかったって気持ちは理解できる」
少し直子の表情が和らいだのを感じた。
鈴木直子の口ぶりから家族が生きていると確信した私は本格的に工作員の掃討作戦に乗り出した。
「ヤマからコリアンボート情報発令」
新月の夜、日本海上で不審な電波を発する船を片っ端から捕捉し、全国各所から海上保安庁の監視艇へ臨検を呼びかけた。こうして不審船を一網打尽にし、密輸ルートに大打撃を与えた。
そして、1983年の冬、私は男の子を出産。宏樹と名付けた。
「この子を必ず雄一と美咲に会わせる」
私は赤ちゃんを抱えながらも仕事に邁進した。そして…「ママ!」
未だにその目標は叶わず、彼はもうすぐ2歳になる。
「ごめんね、寂しかったね?もうちょっとでパパとお姉ちゃんと暮らせるからね…きっともうすぐ」
泣き虫っ子で寂しがり屋で帰るといつも抱きついてきた。そんな顔を見ると申し訳なくなった…泣きはらした宏樹の顔に頬をすり寄せた。
「あなたは、あなたの夢を見て…。自由の国で、自分の人生を選びとって」
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――美咲は不思議そうな顔をする。
「ちょっと待って!さっきから出てくる”ヤマ”って何ですか?」
「ヤマは、公安が秘密裏に運用していた対北朝鮮の通信の傍受機関のことよ」
「あ、ほんとだ。スマホで調べたら出てきた!でも都市伝説っぽい書き方だけど」
「いいえ、実在したわ。携帯が本格的に普及して電波暗号が廃れ始める2000年の12月まで稼働していたの。しかもその所在地がココ、日野市の多摩丘陵の上、ちょうどこの前の坂をのぼった場所…」
「という事は、母さんは工作員でありながら公安のお膝元に住んでいたって事?」
直子さんは頷いた。
「だって、自分が捕まる可能性だってあるじゃん」
「灯台下暗しって言葉もあるしね。それに真理は、工作員の非情さをよく知っていた。だから彼女にとって怖いのは警察じゃなくて北朝鮮の方だった。だからあえて彼らが近づきにくい場所に家を買ったのよ」
母さんは、手記にはまるでたまたまあの家を見つけたかのように書いてるけど…実際は多摩丘陵のどこかにあると踏んで調べていたかもしれない。そして、梅園の展望台で見つけたアンテナがまさにそれだと気づいた。その後、道迷いを装って物件を物色していた。唯一無二の土地を探すために…」
――僕は空しくなった。母はココまでして北朝鮮の影から家族を守ろうとした。だけど結局、一緒に暮らす事はおろか会うことすら叶わなかった。
「なんで?おかしくない?」
「…ん?」
「だって、さっきの話だと密輸ルートは壊滅させたって…それで工作員の活動を阻止できれば一緒に暮らしてもいい約束だったじゃん?」
「たしかに“ヤマ”の効果は絶大だった。一時はほぼ壊滅まで追い込んだ。だけど北朝鮮の新勢力はすぐに新技術を取り入れて対策してきたの」
「対策?」
「80年代になると衛星電話やGPSが普及するようになった……コレを使えば事前に受け渡し場所を決めずとも、傍受の心配なく海上で会話して、歩インポイントで待ち合わせられる。ヤマじゃ手に負えなくなったの」
さらに海上保安庁の船でも追いつけないほど強力なエンジンを積んだ工作船で密輸を拡大、再び莫大な資金を得た工作員たちは活動を活発化させた。そして追い打ちをかけたのが、1987年の大韓航空機爆破事件。実行メンバーだった金賢姫は、日本人女性のフリをして暮らしていた…真理と似た境遇だった事が政府の態度を硬化させた。
「それで家族の再会は叶わなかった…」
直子さんは、美咲を見つめて応える。
「美咲さん、私はあなたが現れた時に正直、ここに真理がいたらどれほど喜んだろうと思ったわ。でもその裏側に蠢くであろう存在を考えると素直に受け入れられなかった。ごめんなさい」
「そんな風に言わないでください…私の考えなくとった行動が子どもたちを危険に晒した。後悔してます」
すると健人が呟く。
「でもこうして再会出来たんだからいいじゃん」
――僕は再び、メモに書き加えた。
【分かったこと】
・吉田智子→金山智子→黒田百合子(明華)→長瀬百合子→渥美真理、母は名字も名前も変えながら、日本人から北朝鮮工作員、そして警察の協力者と数々の人生を渡り歩いてきていた。
・母と長瀬雄一の間に生まれた娘が長瀬美咲。長瀬美咲の子が彩花と健人。つまり彩花と健人は母の孫であり、僕は叔父である
・警察は父 長瀬雄一らの身の安全を守るため妻 百合子は死んだと伝え、会わせなかった。結果、長女 長瀬美咲と2人で暮らした。だが実際のところ百合子は生きており、渥美真理と改名。その時、お腹にいた僕と暮らした。
・鈴木直子(偽名)は公安職員で、母を監視しながら協力関係も築いた。
・さっき家を襲った黒づくめの男たちはおそらく北朝鮮の工作員だろう。
【分からないこと】
・なぜ警察も北朝鮮もこの家を欲しがるのか?家にあがって何を探していたのか?→”ヤマ”の近くであることが関係??
・家で負傷していた男たちを攻撃したのは誰か?…仲間割れか?元から敵同士なのか?
……やはり、家にまつわる部分は依然として謎が多い。それとまだ解決しきれてない疑問が一つある…その答えはこの先に??手記の続きをめくり始める。
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私は、9年ぶりに雄一と美咲と過ごした多摩丘陵の一軒家に戻った。バブルを経て周辺はかなり開発されたがこの家の周囲だけは時が止まったように静かだ。
ガチャ!
鍵を開けて玄関をあがる。少し埃っぽいような、でも懐かしい匂い…居間の長年ワックスがかけられずガサガサした床板をそっと撫でてみる。雄一と、週末に一生懸命張った板。その釘の一本一本、継ぎ目の一つ一つが愛おしい…そうだ、ちょうどコレが最後に張った一枚。完成した日はすき焼きを食べて…美咲の妊娠を知った。
カラカラ…
縁側の方から戸を開ける音がすると庭からキンモクセイの香りが流れ込んだ。鈴木直子はその香りを思う存分吸い込むと、庭に興味津々の宏樹のためにサンダルを並べた。
「宏樹くん、お庭出てみる?」
「うん」
そのまま勢いよく駆けていく後ろ姿に、幼児だった美咲が重なった。そっとピアノに掛かったクロスを取り、鍵盤の蓋を開いて指で弾く…ポロンとなる音は調律されず音階がズレているが、きれいだ。
「追いかけっこよ」
「キャ~!」
庭ではしゃぐ宏樹の声に合わせて弾く。あなたと弾き語ったなごり雪を。
――私のピアノを好きと言ってくれた雄一に届いて欲しいな。随分集中していたせいか、気がつくと庭はもう遊び飽きたという風にじっと宏樹が覗いていた。
「僕も弾きたい」
「うん、コッチおいで」
週末は、宏樹と一緒に日曜大工をした。不慣れなせいか一緒に作った椅子はとても不器用で、脚が少しガタガタする…あぁ、あなたがいないとダメだなって思いながら、でもそんなガタガタの椅子は私の宝物になった。週末には、直子も呼んで宏樹の大好物の手作り餃子や、家庭菜園の野菜で作ったキムチを食べた。
次は棚を作ってみた。…この中にどんな思い出を詰めよう?
勉強テーブルを作ってみた。…宏樹の夢は何?きっと世界に羽ばたく人になるのかな?
日曜大工の腕が少しずつ上達するのが楽しくて、夢中になった。
気がつけば、私と宏樹の一番のコミュニケーションツールになった。
一方で宏樹に、申し訳ないと思う事もたくさんあった。怪しい工作船の情報は昼夜を問わず舞い込んだ。そうなると警察の人に宏樹の面倒を見てもらわないといけない…悲しそうに見送るその顔に心が痛んだ。そして公安が警備してくれているとは言え、いつ北朝鮮が報復に来るのか分からない。だから宏樹の姿が見えなくなると心配になった。一度、押入れの地下壕から見つかった時はパニックになった。だから二度と近づかないように「お化けが出る」と脅したりもした。自由にさせてあげられない…それが心苦しかった。
そして何より…宏樹を家族に会わせてあげたい。美咲が習いたいって言ってたピアノ、教えられるぐらいには腕が戻ってきたのに…雄一と過ごしたこの平屋の一軒家、いつでも住めるように隅々まで修理したのに…家庭菜園の野菜も土壌改良のせいかが出てドンドン美味しくなってるのに。
――だがある日、私の夢は完全に打ち砕かれた。雄一が亡くなったのだ…場所は立川駅。
「警備はつけていたんだけど…一瞬、見失った隙にまさかこんな事になるなんて…」
鈴木さんの絞り出す言葉を頭で理解しようとしても、心がついて行けない。泣きわめく事ができたら少しは楽になれるのだろうか…。そしてすぐに頭をよぎったのは美咲の事だった。
「美咲は…?美咲を引き取らせてもらえませんか?」
「娘さんは、母親は死んだものとして育てられてきた。今さら真実を話しても混乱させるだけよ?」
「…わかりました。自分が母親だという事実は絶対に言いません。だから、一度だけども話をさせてください…」
「ムダだと思うけど…」
鈴木さんや職員らも同席の元、児童相談所の一室に入る。そこにはとても大人びた表情をした女の子がいた。丁寧に会釈するその姿に、雄一は美咲をこんなにしっかり育ててくれたんだ…思わず涙がこぼれた。
「真理…」
「あぁ…ごめんなさい…」
「…何なの、この人?」
美咲は涼しげな目をさらに冷たくした。
「…昔、離ればなれになった娘を思い出してしまって」
「あの…私はあなたの娘の代わりじゃないんだけど?」
「…そ、そうですよね。ごめんなさい」
「美咲ちゃん、言いすぎよ!…すみません、お父さん亡くしたばかりでまだ心の整理が追いついてないみたいで」
美咲は私と一切目をあわせようとしない。
「…美咲さんは…お父さんと暮らしていて…その、幸せだった?」
「は?なんで赤の他人のあんたが、パパのこと聞きたがるわけ?」
「美咲ちゃん!?」
すると美咲は静かに嗚咽し始めた。
「…こないで…」
「…?」
「入ってこないで…そんな家族づらして私たちの関係に…土足で割り込んでこないで!」
「美咲…ごめん…」
思わず名前を呼んでしまった。すると彼女は私を指さした。
「なんで呼び捨て?もう母親気分?申し訳ないけど、私はあんたの子の代わりにはなれない!だったら本人探しなよ…先生、私この人と暮らすのは絶対イヤです!!」
児童相談所の冷たい廊下を歩く。
「ごめん、私たちのせいだわ。雄一さんには、娘にあなたの事情を一切話さないようお願いしてたから」
「…自業…自得です」
その時、神様に言われた気がした。お前のような人間が人並みの幸せなんかを求めるからだ…だから雄一は殺され、美咲も孤独にしてやったんだと。そうだ、私と一緒にいる人はみんな不幸になる…もしかして宏樹だって…ずっと自分の近くに置いちゃダメだ。どこかでそんな風に思うようになった。
――僕の隣で、美咲さんは嗚咽している。
「その時の事、よく覚えてる…だけど、本当のお母さんだったなんて…言ってくれなかったら分かんないよ!なんで、今さらなの…」
それを聞く直子さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
宏樹は中学生になった。ある日、人前に出るのが苦手な宏樹が珍しく、英語のスピーチコンテストに出たいと言い出した。それを聞いた時、本気で嬉しかった。やりたい事が見つかったんだって思えた。しかもそのスピーチの内容もとても素敵だった…。
――アメリカに渡り、日本と世界の架け橋になりたい。
日本から遠く離れた自由の国で、自分の夢を叶えて欲しい…全力で応援した。優勝した時には、すき焼きを食べたっけ?うん、家族のめでたい時はすき焼きって決まってる。雄一との約束。
アメリカに旅立つ直前、一緒に行った長野への一泊温泉旅行…まともな写真はお互い照れて一枚も撮れなかったけど、唯一、携帯カメラで残した。2人でグッと顔を寄せて撮ったお気に入りの写真。
成田空港で、別れ際にあなたが言ってくれた言葉。
「母さん、留学させてくれてありがとう。一人だから心配だしちょこちょこ帰ってくるね」
私はその時、とっさに自分が誰かを不幸にしてきた過去を思い出した。だから、今度こそ宏樹にだけは幸せになって欲しいと願った。
「…ダメよ」
「…」
「お母さんは大丈夫だから。その時間は、あなたのために使いなさい。せっかく掴んだ夢なんだから、全力でやりなさい」
「…」
宏樹は少しだけ悲しそうな顔をした。もっといい言い方があったのかな…直子さんと飛んでいくジェット機を見送る。
「宏樹くんがいなくなって寂しくなるわね」
そうだ、これから宏樹とは人生で何度会えるんだろう…でもそれでいい…
「…あの子さえ幸せになってくれればそれでいいんです」
「そう…。ところで警察の仕事やめるんだって?」
「はい、“ヤマ”も閉鎖されましたし、いいタイミングかなと。ほんと、鈴木さんには感謝してます。やりがいのある仕事でした」
「あなたにしか出来ない仕事よ。…でその後は?」
「ちょっと調べたい事があるんで」
「…あら?何かしら」
「まぁ…何かと忙しい人生だったんで、少し日本中を旅しようと思います」
手記はそこで終わっていた。
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「それから14年後、美咲さんの子ども――彩花と健人――が施設に預けられたって連絡が公安に入って…すぐに真理が引き取ったってワケ」
美咲は目を潤ませて彩花と健人を抱きしめた。
「私は母親に酷いことを…そんな過去があったなんて全然知らなくて…もし素直に一緒に暮らしてれば…」
「悪いのは彼女を利用した北朝鮮、そして家族を遠ざけた私たち警察よ」
僕も後悔した。なぜ些細な言葉の掛け違いから母を遠ざけてしまったのだろう…いや、本当に些細な事だっただろうか?…あのホームで見た涙を思い出した。
――立川駅で僕と手を繋ぎ、何度も電車を見送った母…あれは本当に無理心中でないのだろうか?
すると、直子さんの携帯に連絡が入る。
「もしもし…うん、そう…わかった。捜査を続けて」
「どうしました?」
「家の周り、一通り捜索したけど不審な人物は一切、見つからなかったと…」
そうだ。家にいた負傷した工作員らしき男たちは誰にやられたのか?…警察は事件を受けてスグこの一帯を検問封鎖し、周囲の森や藪までローラー作戦で捜索した。だが誰も不審な人物は見つからなかったという。…僕はふとある事を思い出した。
「真理さん、ちなみに負傷者の中に手の甲をケガしている人いました?」
「手の甲にケガ…?いや、聞いてないけど。なんで?」
「…となると逃げているのは、アイツかもしれない…」




