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【第二十五話 嘘だらけの結婚生活】


その地味な男は毎月、月末の金曜日午後1時40分に現れる。私はそれをモップ片手に待ち構えた。


「こんにちは!長瀬さん…ですよね?」


「え!あ、はい…なぜ名前を?」


男の名前は長瀬雄一。私が工作活動の隠れ蓑として結婚を目論む相手


「お取引先の方の名前は覚えるよう言われてるので。それに…」


「…?」


「あ、いえ。今日は傘お持ちですね」


「ハハハ…いや、この前はお恥ずかしい姿を…」


「あの…前からずっと思ってたんですが…もしかして昔どこかでお会いしてません?」


「え…!?」


これは私が彼に近づくためのウソ。だが、まるで心当たりがあるかの表情を浮かべた。


「あ、そうだ!長瀬さん、学生時代バンドやってたでしょ」


「えぇ…たしかに」


「やっぱり!その時、私、声かけた気がするな…」


「どうだったかな」


「あ、そろそろ打ち合わせの時間ですよね。お呼び止めしてすみませんでした」


「…あ、あの…今度、少しお時間頂けませんか?」


「…」


「いや、無理なら全然!忘れてください」


「いいですよ。行きましょ、今週末の土曜日」


長瀬のメガネが曇る。私は構わず近くのペンを取り、口座開設の用紙の裏に電話番号を書いて渡した。




長瀬雄一は私と同じ1952生まれで、父親は警察予備隊にいたが朝鮮戦争での機雷掃海中に他界。母も在学中に亡くして奨学金だけで早稲田の商学部を卒業した苦労人。唯一の趣味はギターで、大学時代はバンド活動をしていた。ただ実際に見たことはない…なぜならその頃、私は北朝鮮にいたのだから。




週末、私はかつて黒燕が選んでくれた白いワンピースに身を包んで、有楽町の映画館で合流した…タイトルは「オーメン」6月6日午前6時に誕生し、頭に「666」のアザを持つ悪魔の子ダミアンを巡るホラー映画だ。


「キャー」


映画館には悲鳴が響き渡る。その度に、隣の席のしがない男はビクッと反応した。どこがそんなに怖いのだろう…本物の死と何度も対峙してきた私にはピンとこない。


「すみません…まさかあんなに恐い映画だとは思わず…」


「はぁ、…まさかホラー映画って知らずに来たんですか?」


「えぇ、同僚にはデートにぴったりだと…」


職場でも相当なお人好しなのだろう。その後、高そうなフレンチレストランへ。


「ちなみに黒田さんって、こういう店よくいらっしゃるんですか?」


「え?」


工作員はあらゆる場に出向くので、一通りの社交マナーは叩きこまれている。そんな立ち振る舞いが場慣れしているように見えたようだ。


「自分でお連れしといて何ですが、正直こういう場所、初めてで…このお皿は?料理は誰かよそってくれるのかな…?」


「フフ…」


長瀬の怯えた子犬のようなその様子がおかしくて、つい吹き出してしまった。


「それは飾り皿といって、料理がきたら下げてくれるんです。…あのよろしければ、お教えしましょうか」


「はい!ぜひ!」


「ナプキンは膝の上にこう置いて…あ、それはフィンガーボウルって言って指を洗う水菜ので飲まないで下さいね…」


「あぁ…ちょっと飲んじゃってました」


「フフフ…」




「本当に勉強になりました。ありがとうございました」


「いえ、こちらこそお代出してもらっちゃって…ごちそうさまでした」


彼のデートプランは尽きたようだ…ただあてもなく銀座の雑踏を歩く。あの交差点を右に曲がってまっすぐ有楽町駅へ行けば、今日はきっと解散だろう。だがその時…ふと、頬に冷たい水滴を感じる。見上げると曇り空からパラパラと雨粒が降ってきている。


「あ!雨宿りを、こっちへ!」


雨は勢いを増す中、長瀬は私を少したりとも濡らすまいとジャケットを頭に被せて、そのまま肩を抱き近くのビルへと駆け込んだ。


「すみません。濡れてませんか?」


「いや、私は大丈夫ですけど…」


彼の方はというと全身、ビショビショでまた野良犬のようになっている。


「どうも僕はひどい雨男のようです…」


曇ったメガネで微笑んだ。


「しばらく止みそうにないですね」


たまたま飛び込んだ楽器店にはいくつものギターが並んでいる。


「ちょっと見てみますか?」


「そういえばギターお得意でしたよね」


「いえ…本当、趣味程度で…」


ハンカチで水滴を拭き取ると店内を見て回った。


「ちなみにちょっと弾けたりします?」


「いや、恥ずかしいな…」


これはシンプルに好奇心だ…普段の姿からバンド活動している様子が想像出来ないから。すると照れながら近くのギターを取りあげ試し弾きをする。…曲はなごり雪だ。


「私…その曲、好きなんです」


「そうですが、僕も…好きです」


少し目と目が合った。ギターを弾きながら長瀬は近くに置いてあったピアノに目配せした。私にも弾けと催促しているのだろうか…せっかくいい雰囲気になってきたのに無下に断ると台無しだ。遠慮がちにピアノの椅子に座り、ポンと白鍵を弾く。次は黒鍵。そしてメロディを奏でる。ギターとピアノで奏でられるなごり雪の切ないメロディが店中に響く。


「なごり雪は~♪」


そこに長瀬の美声がそこに加わり、通りすがりの客たちが足を止める。やがて合唱になり私もつられて歌う。曲が終わると小さな楽器店は拍手で満ち溢れた。彼は照れながら小さなピックを私に手渡した。


「素敵な演奏でした」


「あなたこそ」


すると恥ずかしそうに俯いて笑った。




「雨やみましたね」


店を出ると銀座の歩行者天国にはすっかり人の群れが戻っている。濡れたアスファルトは光を反射してキラキラ輝き、空には虹が出ている。


「雨がやみ、虹が出る」


「…」


「あ、いや。なんで雨上がりの虹はこんなにキレイなんだと思います?」


「え、なんでだろう?」


「僕は、暗い時間と明るい時間の交差点だからじゃないかなって思ってます。乗り越えた時間がキレイに見せるんです」


「…」


「クサかった…ですかね?」


「フフ…ちょっとだけ」


有楽町駅の改札、買い物を終え一杯の紙袋を手にした人が楽しげに吸い込まれていく。私も雄一に会釈してその流れに乗り込もうとした時、ふと手をとられた。


「あの…僕と結婚を前提に付き合ってもらえませんか」


思い通りに事は運んだ…だが私は今さらながらに、こんな実直で素直な人間を自分の人生なんかに巻き込んでいいのか躊躇した。


「さすがに急ですし…」


「……僕は真剣です!あなたと一緒に人生を歩みたい」


「それは本気ですか?」


じっと瞳の奥を見つめた。彼は目をそらさない…あぁ、本当にどこまでも間抜けな男だ。今ならまだ引き返せたのに…。私は大きく息を吸った。


「…いいですよ」


「え?」


「しましょう。結婚」


この世で一番冷めたプロポーズの返事をした。今日、ただ一度デートしただけ。話しただけ。愛などない。私はただ工作員である自分を風景に溶かすために彼を利用する。ならば結論は早い方がいい。そうとも知らない彼は、驚きなのか感動なのか潤ませた目で私を見てうなづいた。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


手を握る彼の温もりを感じながら考えた…


――なぜ長瀬雄一は、私がピアノを弾ける事を知っていたのだろう?




銀座でのデートから数ヶ月の交際を経て、私たちは入籍した。勤めていた信用組合を寿退社した私は、彼の小さな社宅で暮らしながら“本来の業務”を続行した。




「やっぱり百合子の餃子は美味しいな。お店出せるレベルだよ」


「…褒めすぎだから」


「ほんと!皮が厚くてモチモチで、なんでこんなの作ろうって思いついたの?」


「ん?…えーと、ヒミツ」


「ハハ…いつ聞いてもそれだよね。あ、ところでさ、今週末ちょっと出掛けたいところがあるんだ?」


「え?雄一から提案なんて珍しい」


とびっきり皮の厚い手作りの餃子、牛肉と大根の唐辛子煮は、北朝鮮のオモニに教えてもらった得意料理…それを雄一はうまいうまいと食べた。一見どこにでもある夫婦の幸せな風景…だが決して心から愛を交わすことはない。なぜなら彼はただの工作活動の道具。だからだろうか…体を重ねた後、いつも雄一はとても申し訳なさそうな顔をする。一方の私は、彼と一緒にいる時だけはとてもよく眠れた…なぜなのか分からないけど。




週末、雄一に連れられたのは多摩丘陵のニュータウン。住宅見学会に幸せそうなカップルが集まっていた。


「そろそろどうかなって?百合子は家にいる事が多いし、子どもが出来たら都心は光化学スモッグが酷いだろ?」


多摩丘陵の急坂を登った先に開発された、日当たりのよい瀟洒な家がズラリと並ぶニュータウン。営業マンの強引な誘いに促され中に入ると、既に数組の先客がいて楽しげな声が響いてる。


「ここの床、ピアノは置けますか?」


「もちろん、問題ありませんよ」


「…ピアノ?」


「あ、実は百合子のピアノがまた聴きたいなって…」


「気持ちは嬉しいけど、隣の家との隙間がこんなに近いと迷惑なんじゃない?」


「近いか…そうか…一軒家ならと大丈夫かなと思ったんだけど」


――そう、近すぎる。こんなに近くては会話が筒抜けになるし、同世代だと互いのプライバシーに干渉する機会も増える。工作活動に支障が出かねない以上、私はココに住めない。


「もうちょっと身の丈に合う家にしましょうよ」


「…え?」


「私はこんな豪華な家じゃなくていい。自分たちに合った家が他にあると思う」


「あぁ、うん…背伸びしすぎだったよね」


実際、70年代の東京は住宅価格がうなぎのぼりであった。押し黙ったまま京王線に乗る。彼のプライドを傷つけてしまっただろうか…


「…ごめんね。さっきの言い方は悪かったわ」


「いや、違うんだ。ただ僕は本当に君のピアノが聴きたくて…」


「そんなにピアノを?」


彼は頷く。


「だって…君の演奏が僕の人生を変えてくれたから」


「大袈裟ね」


少し照れくさくなって窓の外に目をやる。すると違和感があった。


「あれ?…この電車、方向逆じゃない?たしか私たち来た時、多摩川渡って来たよね」


電車のアナウンスは聞き覚えのない駅名を連呼した。


「あ、本当だ!うわうわ、ごめん。ボーとしてた」


「いや、私も気づけばよかったね。次の駅で降りましょ」


…次の駅で慌てて下車すると、そこは百草園という小さな駅だった。無名の駅ながら向かいの新宿方面行きのホームにはかなりの客がいた。


「何だろうね。祭りでもやってるのかな」


「…ちょっと見てみようよ?」


こんな事でも雄一の気が晴れてくれるなら……人の群れを遡っていくと、丘陵から続く坂道を下りてきているようだった。2人でそれを逆方向に登っていく。


「はぁ…はぁ…思ったより急だね」


「…大丈夫?」


「百合子は本当、体力あるな」


多摩丘陵を一気に登るとそこには小さな梅園があり、ちょうど梅まつりの最中だった。


「こんな辺鄙な場所に梅園があったんだ」


青い空をバックに赤と白の梅の花がポツポツと芽吹いている。汗ばむ体に心地よい寒風が吹き込むと、スーと心洗われるような甘くて酸っぱい梅の香りが漂ってきた。園内の展望台からは、悠々と流れる多摩川の向こうにどこまでも広がる住宅街、そのはるか遠く霞みの奥に京王プラザホテルや新宿三井ビルなどが見える。方向を転じると、まだ未開発の里山の中に何かの施設だろうか…幾多のアンテナ付きの鉄塔がついた建物。その奥には高尾山や奥多摩の稜線が澄んだ冬の青空にくっきりと浮かび上がっている。


「空気もきれいし、いい場所」


「うん、電車を間違ったけど、ちょっと得した気分だね」


「でしょ?僕に感謝して笑」


「バカ…」


ぐるりと園内を見学して出る頃にはすっかり客は引け、我たちが最後の客となっていた。空は薄ら黄昏に染まり、森は黒さを増している。駅から数分の場所とは言え、多摩丘陵の里山はまともな外灯などほとんどない。下手したら遭難するかもしれない…慌てて静まりかえった坂道をまっすぐ下っていく。だが駅へ向かって歩いているはずが…ドンドン景色は山深くなっていく。


「ねぇ、これ…さすがに道、間違えてるよね?」


「だよな。はぁ…本当ごめん!鈍くさいな、俺」


「元来た道は…?」


だが振り返ると、来たあぜ道はかなり複雑で暗い。さらに迷宮に迷い込みそうだった。


「とにかく地元の人に、道聞いてみよう」


そういうと、目の前にあった山に隣接した赤い屋根の古い平家の一軒家の門をくぐる。


「ごめんくださーい」


「…」


「ごめんください。誰かいますか」


「…」


「迷子になっちゃったんですけど、道伺いたくて」


反応はない…


「ごめんくださーい」


「あっ!雄一、コレ見て」


玄関横の郵便ポストに、目立つ文字で「売り出し中、見学ご自由にどうぞ。百草不動産 042-xxx-xxx」と貼り出されていた。


「なんだ空き家か」


「見学OKだって…ちょっと覗いてみない?」


「え?この家を?」


「ちょっとだけ!」


「まぁ…見るだけなら」


玄関の備え付けのスリッパを履いて家の中へ。その度に床は軋み、揺れるガラス戸がシャンシャンと懐かしい音を立てた。居間の雨戸を開けると、庭に冬の枯れ木の隙間から夕暮れの日差しが差し込み、積もった枯れ葉をキラキラと照らした。その全景は都内とは思えない広さだった。


「…東京の近くに、まだこんな風景が残ってたんだな」


光が差し込み2月の縁側を暖かく照らす。そこに私は腰掛け、日差しの温もりをスカート越しに感じた。


――好条件だ…東京までほどよく離れていて、しかも人目を忍べる奥まった立地。山が近いという事はいざという時、暗闇に紛れて脱出できる。


「ねぇ?」


「ん?」


「ココに住まない?」


「え?」


「いや、ココに住みたい!」


「えぇ!ちょっと待って。この家…?もっと新しい所じゃなくていいの?」


「壊れたり古くなった所は自分たちで直せばいいし、私は全然平気!」


「…」


「ピアノも弾き放題だし!」


雄一はしばらく考えた後、私の目を見つめた。


「…うん、百合子がそこまで言うなら」


あの時、なぜ彼がこんなムチャな話をすんなり受け入れたかは分からない。




こうして私たちは多摩丘陵の里山にたたずむ一軒家に引っ越した。ちなみにあの時は気づかなかったが、駅から切り通しの山道を使えば12分程度なので雄一も通勤に不自由する事ない。平日は私が“本来の業務”の合間に独りで家の修復作業を進め、休日は雄一も参加してひたすら日曜大工に励む。


「ハハハ、ようやく出来たね」


「思ったよりかかっちゃった」


半年かけて張り替えが澄んだ床に大の字になって寝っ転がる。天井にぶら下がる丸い蛍光灯を見つめると、ツンとしたワックスの匂いが鼻をついた。誰かと一緒に何かを作ると言うのは、心と心を近づける。ニスを塗りすぎたり、釘が曲がったり…トラブルやハプニングに一緒に悩んで、重い木材一つ運ぶにもお互いの腕力と安全を気遣って、手元に集中しながら話すことで、目と目を見合って話すより深い話も出来る、そして、作り上げた喜びを一緒に祝える。…その全てが思い出になる。




きれいな床に手作りの粗削りなダイニングテーブルと椅子を並べて、鉄鍋に火をかけた。雄一は牛脂をひいた鍋に、牛肉を並べて割り下を注いだ。


「にしても、なんで急にすき焼き?」


「めでたい日はすき焼き。そういうもんでしよ」


「床の張り替えで?大げさね」


「まぁ…これなら料理の手間もないし」


「そうだけど」


正直、今日はすき焼きという気分ではなかったのだが…


「ねぇ、ってか、これだけ頑丈な板を貼ればピアノも置けそうだね」


「うん。知り合いが中古のピアノ譲ってくれるって」


「え~!新しいの買えばいいのに」


「もったいないよ。ただの趣味だし」


雄一は私のピアノが本当に好きなようだ。


「…そういえば…家事部屋の改装は進んでる?」


「うん、もうちょっとかかりそうだけど」


「そう…手伝おうか?」


「いや、大丈夫!ただ壁紙変えるだけだし…」


私が工作活動を行うための拠点だから触らせるワケにはいかない。不正資金の帳簿や、暗号を解読するための乱数表など見られたらまずいものばかりだ。そして何より見られたくないのは地下壕だ――見つけた時は驚いた。戦前に作られたこの家には地下壕まで備え付けられてあった。これを押し入れ風に偽造すれば格好の避難場所になる。だからその完成までは誰であれ入れさせない。


「ふーん、でもケガだけは気をつけてね」


「心配しすぎ、それよりさ…」


とその瞬間、私は突然むせ返る吐き気に襲われる。


「…うっ…」


ガチャン!食器が散らばる音がする。


「どうしたの?」


「…ダメ…」


と言った途端、吐瀉物が喉奥から込み上げてその場に吐き出した。


「スグ横になって!救急車呼ぶ!」




――8か月後の1979年9月、私は出産した。


女の子だった。庭に香るキンモクセイを見て、雄一はその子の名を“美咲”と名づけた。




********************************




手記の続きをめくろうとした時、独り言のように美咲が呟いた。


「私だ…美咲って名前にそんな由来があったなんて」


彼女は感慨深そうに、ガラス扉の向こうのキンモクセイを見つめた。


「そういえば真理さん、彩花って名前をすごく好きだって言ってくれてた…それって、もしかするとお母さんのことを思い浮かべたのかなって」


「そうだったんだ…」


一方の健人は洗って干してある鉄鍋を指す。


「それに、すき焼きの習慣がお父さんだったのもビックリ!」


半世紀近く前のこの家での出来事が今の自分たちと繋がっている。そんな事実が妙な高揚感を生み出していた。だが僕には気になる事があった…


「直子さん。少し疑問があるんですが?」


「何?宏樹くん」


「母は、工作員としては非常にスマートと言うか…リスクを最大限減らして行動していたように思います」


「…それは間違いないわ」


「リスクを減らす?」


彩花も健人もピンときていないようだ。


「まずは就職先。彼女は働き先が銀行だと知るや、率先して自分を売り込んだ。これは高橋の懐に入り、殺されるリスクへ減らすためだ。金庫番を失うと自分も困るから」


「それって、真理さんは最初から高橋の事を警戒していたって事…?」


僕はうなづいた。


「それに黒燕が殺された直後に、警察の捜査が及ぶ可能性を考えて偽装のための結婚を急いだ」


「たしかに」


「となると…僕は母がこの家…この土地に住むことを選んだのには、ただの偶然じゃないある強い意図を感じるんです」


「…強い意図?」


「何かリスクを減らすために…」


――僕はあらためて実家の中を見回した。その意図こそ、直子さんやあの黒づくめの男たちがこの家に執着する理由。




直子さんはため息をつく。


「宏樹くんはほんと頭が切れるわね。そう、焦らなくても話すわよ…なぜ長瀬百合子はこの家に住もうと決めたのか」


そして、なぜ黒田百合子から渥美真理へと戸籍を変える必要に迫られたのか?


僕は、手記の続きをめくった。




**********************************




ある日、雄一はおもむろに大きな箱を持って帰ってきた。中から出てきたのは巨大なピストルのような機械。


「よし、準備できた。じゃあ、ちょっとそこに並んで、美咲も一緒に」


「どういう事?」


その機械を私に向け、謎のボタンを押す。カチャという音と共にシャーという静かなモーター音が静かな部屋に響いた。


「えーと、笑って」


「それ何?」


カチャ、再びボタンを押すとモーター音が消えた。


「そんな怖い顔しないでよ。これ8ミリフィルム。ここで写した映像をこのフィルムに焼き付けるんだよ」


「フィルム?ちょっとヤダ!」


私は工作員の特性でとっさに顔を隠す。それを雄一は照れてると思ったらしいケラケラと笑った。


「じゃあ美咲だけを撮ろうね。こっち向いてほら。って、あ…」


「ん」


「美咲が立った」


「え?」


「すごい立った!奇跡だと、すごい瞬間撮れちゃった」


雄一のはしゃぎようにつられて、私の足につかまり立ちしていた美咲も片手をバタつかせる。少しくすぐったい。思わず微笑んだ私を、雄一はすかさずフィルムに焼き付けた。




――こんな幸せでいいのだろうか…?


私は頭に浮かべた。父、母、弟、オモニ、武、黒燕、本物の黒田百合子、沢山の人たちが私という存在のせいで不幸になっていった。なのに今、このお餅のようにペタペタと私を求める美咲という生命体が、私の閉ざした心をムリヤリ開く。そこから流れ込む虹色の感情が私を私でなくさせる。ずっとよそ者だった私に居場所を与えてくれる。それは所詮、偽りだらけの生活が生んだニセ物の幸せでしかないのに…




雄一はその後もフィルムをたくさん撮った。美咲の初めての誕生日、プレゼントのテディベアは美咲の身長とピッタリだ。美咲が初めて歩いた日…初めてママと呼んだ日…パパと呼んだ日…お互いが大いにはしゃいだ。イヤイヤ期は大変だけど成長を感じられた、私のピアノと雄一のギターの伴奏に合わせてみんなで歌ったのも、伸びていく身長が嬉しくて一ヶ月に一回は柱に刻んだのもかけがえのない思い出…


――でも幸せを感じるほどに怖くなる。私という存在がまた誰かを不幸にするかもしれない。そしてそれが雄一や美咲だとしたら……




「お久しぶりです」


週末、客で賑わう京王デパートの影で突然、声がした。それは3年ぶりに見る高橋だった。工作員同士は基本的にお互いの結婚相手や住所を共有しない。誰かが敵に寝返った時に芋づる式に摘発されるからだ。なので、私も高橋とは電話でしかやりとりしていなかった。なのになぜ彼がここに?


「美咲ちゃん、こんにちは。うちの子もちょうどこれぐらいの歳でして、会いたくなっちゃいました」


「なぜ美咲の名前を?」


「そんな警戒しないでください。黒燕さんの件もあったので、少しばかり調べただけです。にしても驚きましたよ。まさかあんな所に家を買うとは」


「住所まで調べたんですか…」


「ご家族が大切なのは分かりますが、あくまで工作活動の一環ですから。深入りしない方が身のためですよ」


「用件があるなら手短にお願いします」


「親愛なる指導者様の体制になってから何かと仕組みが変わりましてね。直接コレを…」


すると一枚の紙を手渡した。親愛なる指導者とは金日成の後継者・金正日。彼は工作員を完全掌握するため、再教育と称しては本国に呼び戻したり、妙な指令を頻繁にくだしていると噂されていた。


「百合子!どうした?」


遠くで雄一の呼ぶ声がする。ドキッとして視線がそっちへそれた瞬間、高橋の姿は消えた。


「ごめん、美咲がグズって。今行く!」


即座にその紙を開くと、そこには”9月5日深夜11時、弁天崎にて任務あり”と書いてある。――弁天崎は福井県だ……美咲を放って行くワケには行くまいし、雄一にバレずにどう任務に向かえばいいのか?鏡に映る私は、一児の母の優しい目から、工作員の鋭い目つきにすっかり変わっていた。



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