【第二十四話 彼女の心変わり】
“朝鮮人参”のビジネスは大成功をおさめ、高橋には多額の資金が流れ込んだ。私はそれらをパチンコ業界を通じて資金洗浄し、別名義の闇口座に振り分け一括管理した。そんな工作員らしい仕事が増えていった矢先…
「あの私、そろそろ家出ようと思ってる」
裏帳簿を整理している私に、黒燕が突然の宣言をしてきた。
「え?なんで」
「実はね、結婚考えてる人がいるの」
「彼氏できたの?」
「そう」
高橋は、下っ端の私たちにもそれなりの活動資金を与えてくれてはいるが、黒燕はそれには見合わないぐらい高価なコートやバッグ、化粧を持っていた。なるほど…金持ちの彼氏をつかまえたのか。工作員にとって現地人の恋人を作ることはカモフラージュになるため悪い話ではない。ただしその際は相手の素性を探ったりして妙な接点を持たないようにする。密告者の多くはこうした交際相手である事が多く、そこから芋づる式に検挙されないように距離をとるのだ。だがこちらはそのつもりでも黒燕ののろけは止まらない…
「それでね、彼ったら…こう、いきなり髪を撫でてきたの…実はずっと気になってたって」
「へぇ…」
「それでアッ…私この人と一緒になるんだって、運命を感じたの…」
「運命か…」
――そんな話を聞きながら、私はとっくの昔に忘れたはずの淡い初恋を思い出した。守谷くんだったっけ…下の名前はもう思い出せない。
1976年8月 東京
私たちは新潟県と富山県の県境にある親不知にいた。そこは海面からそりたつ高さ300m近い岸壁が延々と続く古くからの交通の難所で、険しい崖沿いには岩盤をくり抜いた国道8号線や国鉄・北陸本線の細い洞門がひしめいている。走り抜けるワゴンの窓から黄昏に煌めく日本海が洞門の柱の影からパラパラ漫画のように通り過ぎ、潮の香りが漂った。日本に来て1年と8か月。この頃になると私も黒燕もすっかり“朝鮮人参”の扱いに慣れ、ピクニック気分すらあった。
「黒燕!…どう新婚生活は?」
「うん、順調。結婚の日取りも決まった」
そういうとかわいく包装された招待状を差し出した。
「雅叙園!?いい所で挙げるね」
と言いながら招待状をしまう。彼女のウェディングドレス姿はさぞかし眩しいだろう。参加するのはリスクが高すぎるが、せめて遠目でも見に行こう。
国道から小道を抜けると目的地の鬼ヶ鼻に出た。投げ岩と呼ばれる海面に突き出た巨大岩。周囲には集落はなく国道からも目に付きにくい…格好の接線ポイント。そこで気だるそうにタバコを吸う釣り人は、取引相手の暴力団関係者だ。…ザッ!トランシーバーのノイズを合図にすぐさま全員が漁り火に照らされた巨岩へ走る。姿勢を低くしてゆらりと照らされる水面を凝視し、小さな白波を確認すると私は拾った石を、カツンカツン…カツンカツンと4度打つ。するとあちらからはカツンカツンと返事が返ってきた。ギュッという音と共に黒いゴムボートが岩場に定着すると、黒づくめの戦闘員たちが“朝鮮人参”が入った黒い袋を一つ降ろす。高橋がその白い粉の一部を“毒味”して見せると、暴力団関係者らしき男もくゆらせていたタバコを捨てそれに続いた。取引成立は成立したようだ…高橋が合図を送ると次々と黒い袋が降ろされる。
「さぁ、あとは国産ウイスキーとタバコを渡すだけ…」
私が車から引っ張り出し、渡そうと近づいた瞬間…
ピピーーーーー!
突然の警笛と共に一気にサーチライトが辺りを照らした。そのあまりの眩しさに視界が奪われる。
「!!」
「動くな!警察だ!」
岩場はいつのまにか大勢の男たちに囲まれていた。
「大人しくしろ。その手に持っているものを降ろせ」
その言葉を無視し、すぐさま黒い袋を海に投げ捨てる。
「おい!動くなと行っただろ」
「あの袋を回収しろ」
騒然となる中、ようやく静かに両手を挙げた。――私たちは、もし警察に見つかったら犯罪の証拠品を海に捨て、あとは抵抗しないよう教えられていた。というのも日本警察は絶対に銃を抜かないし命も奪わない。なんなら北朝鮮の工作員と知るや国際問題に発展するのを嫌って6か月もすれば解放される。だから命は大丈夫…だけどそれじゃダメなのだ。
「あの国に戻りたくない…」
パニック状態の私は、思わず本音を吐き出した。それを聞いた高橋はフッと笑った。
「工作員としては最悪の発言ですね」
すると彼はジャケットの内ポケットから拳銃を取り出す。
「何してるんですか!?」
黒燕は悲鳴のような声をあげる。だが彼に躊躇はない。
――バン!バン!突然の銃声が鳴り響いた。
反撃は予想外だったのかパニックになる警察官たち…そのスキをつき高橋は次々と急所を撃ち抜いていく。その凄惨な光景を前に黒燕は唇を青く震わせる。
「警察官への発砲は禁止されているはずです」
「分かっててやってます」
「…は?」
するとパン!…警察官たちも銃を抜いて応戦し、弾丸が高橋の腕をかすめた。だが、高橋は一切の身じろぎせず呆然と立ちすくむ私と黒燕の襟を掴んで投げ岩の影に押し込むと、ボートの戦闘員たちに発砲を促す。まるで戦争だ…あたりには焦げた臭いが充満し、はじけ飛んだ岩の破片と火薬の煙とで白い霞みがかかった。
「黒燕、大丈夫?」
「あ…うん。ってか、なんであの人、撃ち返すワケ?」
青ざめた黒燕はもう心ここにあらずという表情だ。ココは危ない…とにかく手を引いてテトラポットの影に身をねじ込んだ。すると高橋も、霞みの向こうの警察官にもう何発か発砲しながら、私たちの場所まで後ずさりしてきた。
「逃げましょう」
「逃げるって…ココからどう逃げるんですか」
ちょうど見上げた先、富山と新潟を繋ぐ洞門の隙間からは大量の赤色灯がこちらに迫ってきている…警察の応援だ。この親不知、崖に囲まれているため交通路は国道一本。人目につきにくい代わりに見つかると離脱しにくい…
「新潟側、富山側、逃げるにも一本道だし、どっちに逃げても警察と鉢合わせます」
「大丈夫です。こういう時のために、接線ポイントには備えがありますから」
そういうと細い崖道を身一つで登り始めた。私も黒燕を引っ張りながらその後を追い、登りきった先の廃屋に身を隠した。
「警察は追ってきてなさそうです」
「あ…あ…あ…」
黒燕の手は8月と思えぬほどガタガタ冷たい…憧れてスパイになったとはいえこんな銃撃戦に巻き込まれるとは想定外だろう。その体を優しく抱いた。
「なんで警察官に発砲したんですか」
「それは…あいつらが警察官じゃ無いからです」
高橋はいつになく目を見開き、私たちを睨んだ。
「…警察官じゃない!?…どういう意味?」
「彼らが持ってる銃、トカレフでした。日本の警察が持っているのとは違います」
「え?」
その瞬間、黒燕の手の震えが止まった。
「おそらく私たちの“朝鮮人参”を横取りしようとした別の組織です。私たちは日本警察には抵抗しないよう教えられているので、そう演じればあっさり引き渡すと考えたんじゃないでしょうか」
「でも受け取り場所がココだって知ってるのは…」
私の手から黒燕の手がスルリと抜けた。
「そこが問題なんです。今日ここで取引することを知ってるのは北朝鮮の戦闘員を除くと、私たち3人と、受け取りに来たヤクザだけ。どこから情報漏れたんでしょう…」
カチャ、すぐ真横で小さく金属音が鳴った。振り向くと、黒燕は高橋に銃口を向けている。
「黒燕!?」
「…明華、下がってて」
「何してるの?」
「いいから下がりなさい!!」
「…」
黒燕がその引き金を引こうとしたその瞬間…高橋は振り向きもせずノールックで黒燕の銃を持つ手を片手でわしづかみする。
「うぅ!!」
引き金を弾こうとする黒燕の指は高橋の強烈な握力でピクリとも動かない。するとスグにその銃をひねり上げ、素早く自分の手に移し替えた。
「…」
「明華!危ない」
その銃口は私と…私の奥にいる黒燕へ向いていた。と次の瞬間、黒燕は私を突き飛ばす。
バン!バン!
そのわずかの隙に放った2発の銃弾は黒燕の心臓を正確に撃ち抜いた。
バタン!肉体は力なく廃屋の腐った床板に叩きつけられた。
「…黒燕!!!!」
「…ごめんね、明華…」
「最近、金遣いが荒そうなんで調べてたんです。あなた、結婚相手の借金を返済して、ブランド品に新居、外国車まで購入してましたね。そのお金はどこから貰っていたんですか?」
「うぅ…」
怯えた顔の黒燕に顔を近づける。
「心配いりません。殉職扱いにしてあげますので。そうすればお父様は失脚せずに済む。私に大変感謝してくれるでしょう」
「…黒燕…」
「にしても明華がいてくれて助かりました。あなたといる時の黒燕は隙だらけなので…」
そうだ、黒燕は私が銃弾を浴びないよう突き飛ばしたのだ。そうでなければ避けられたかもしれないのに…黒燕の呼吸は徐々に弱くなり、握る手も冷たくなっていく。
「…黒燕!結婚するんでしょ…?幸せになるんでしょ…?死んだらダメだって」
「明華…私の分も…幸せにね…」
黒燕は微笑むと、私の頬を撫でるその血まみれの手は力なく地面に堕ちた。…優しい黒燕、なんでこんな事をしたの?好きなおしゃれを着て、いい家に住んで、美味しいものを食べたかったから?資本主義に毒されたから?…違う、ただ結婚相手の借金を返して、ただ普通の幸せが欲しかったんだよね…?そうだよね?…見たかったよ、ウエディングドレス姿…
私はキッと高橋を睨んだ。
「なんで殺したの!!」
「自覚が足りないようですが、あなたたちは殺しの訓練を受けた工作員です。敵に回せば国まるごと壊滅させられるリスクだってある。だから裏切ったら殺さないといけない…シンプルな理屈です」
そう言うと、どこに隠していたのか…ガソリンタンクを当たりにまき散らしだした。
「何してるんですか」
高橋は無視して、そのガソリンに火をつけた。
「火葬します」
翌日、地方紙には『謎の発砲事件、ヤクザの抗争か』と大きな見出しが。そしてそのずっと端っこに、小さく『廃屋に焼死体、関係を調査中』と記されていた。
ネズミ色のアパートの一室で、黒燕の遺影を前に、私はマクドナルドのハンバーガーをほうばる。彼女が愛した資本主義の味…目をキラキラさせて食べていたな…次の人生こそはもっと幸せな国に産まれてきてと願った。
「結婚しよう…」
私は黒燕の幸せそうな遺影を見ながら、ふとそう思った。もちろん工作員である以上、目立たず、工作活動に干渉してこなさそうなお人好しでなければならない。そして、何より私に好意を持ってくれてスグに入籍できそうな人間。
――私の頭にはあの男が浮かんでいた。雨の日にびしょ濡れで現れた野良犬のようなさえない男。パッとしない中堅企業の経理係、27歳で未婚、両親をなくし身寄りがいない。あれ以来、金融機関の窓口でたまに顔を見かけるようになり、行き帰り必ず私と目が合う…
バカがつくぐらい優しくてお人好し、そして私の事が好きな男。
その名は、長瀬雄一。
――美咲は驚いた。「私のお父さんだ」




