【第二十三話 危険な新事業】
――日本で生まれながら北朝鮮に渡り、工作員として帰ってきた母。この家の地下壕で見つけた手記には、その壮絶な人生が書かれている。中には…
*母・真理が金山智子という名前であったこと。
*親の都合で北朝鮮に渡り、壮絶な環境で家庭崩壊したこと。
*生きるために黒田百合子という工作員になったこと
…が綴られていた。そして、その先にはさらなる闇…
*日本でどのような工作活動に携わってきたのか?
*なぜ母は父・雄一と結婚し、別れて僕と二人になり、彩花と健人を養子縁組するに至ったのか?
――さらに深い闇、自分たちの出自に隠された秘密が書かれているに違いない。
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「黒田さん!また濡れてるから拭いといて」
来日して1か月が過ぎた。上野駅前の信用組合で職を得た私は今、本日7回目となるモップがけに勤しんでいる。晩秋の東京は、北朝鮮と比べて格段に暖かくて過ごしやすいが雨が多い。今年は特に長雨で、そんな折に入社した私は便利使いのモップマシンにされていた。
――だが、これは表向きの顔。その裏では工作員・明華として、高橋に代わり出納の管理や不正資金の洗浄、敵対する団体の金の流れを調べている…とはいえ、ただそれだけ。映画のような潜入作戦や暗殺計画とは無縁の平和で平凡な日常。
……高橋の”新規事業”とやらはいつ始まるのだろうか?
そんなある日、少し妙な来訪者がいた…
「すみません!すみません」
声がする方に目をやると、頭から足先まで雨に打たれた野良犬のようなサラリーマンが駆け込んできた。
「あ…!」
なぜか黒縁メガネの彼は私の顔を見るや素っ頓狂な声をあげ、その場に立ちすくむ。
「…ご用ですか?」
「あ、はい…」
だが、曇った眼鏡の男はなぜか入るのを躊躇する。
「…入らないんですか?」
「あ、いや。えーと、こんなビショビショで店に入っていいのかと…あなたの仕事を増やしてしまう事になりますし」
するとちょうどそこに男の上司らしき人物が現れる。
「あれ?長瀬くん?どうしたの、傘は?」
「電車に置き忘れてしまいまして…」
「はぁ、相変わらずどんくさいね。大事な打ち合わせの日なのに」
彼は怒られている間も、惨めに雨に打たれている。さすがに見てられなくなり傘立てから行員用の一本を開いて差し出した。
「あの…これ使ってください」
「すみません…」
それを渡そうとした瞬間に手と手が触れる…そして直感的に感じた。
――この人、どこかで会った?そう思った拍子に力が抜け、傘を落とす。
「あぁ、ごめんなさい」
すると、一人の少年が駆け寄ってくる。
「おじさん、コレありがとう!助かった!」
少年の手には似つかわしくない黒い大きな傘が…きっと少年に貸して自分は濡れたのだろう。なんというお人好し…上司は子どもの手前、これ以上怒る訳にもいかずバツ悪そうに「行くぞ」とだけ言い残して中へ。すると曇りメガネの男も会釈して後に続いた。
「ふ~ん。で、それがどうしたの?」
「その人、変じゃない?」
「変だけど…あ!もしかしてその彼が気になってるんだ?」
「はぁ?違う!ただ変な客がいたって話!」
「またまた~あんたがそんな芋男が好みとは…フフ」
「やめてよ!そんなんじゃないって」
黒燕に誘われて頬張る銀座三越のマクドナルド1号店のハンバーガー
隣の女子がめくる雑誌には「Xmas特集!男をオトすモテ技」とタイトルが打たれている。…日本は、テレビも雑誌も同僚の話題も恋愛の話で溢れている。
「ねぇ、せっかくだからもっとお洒落してみたら?あんな感じで」
通り過ぎる女性は、カラフルなピンストライプのシャツに、白いスカート。品のいいお嬢様ルック。
「明華は色白だし似合うと思うな」
「お金のムダだって…どうせ職場は制服だし」
「出会いの場は職場だけじゃないのよ!」
そう笑うと、平壌のエリート一家で育った彼女は、資本主義の象徴であるハンバーガーをキラキラした目で受け取る。
――資本主義とは、人の本能をくすぐり競争心を煽る巨大な心理装置だ。集団の中で出世したい…ライバルよりモテたい…街行く人に時代遅れと思われたくない…テレビや雑誌を通して何千万人に「このままではいけない」という強迫観念を植え付け、家・車・ファッション・食べ物にいたるまで購買意欲をかき立てる。それが経済という巨体を動かす。そんな資本主義の魔力にかかれば、黒燕のように純粋培養された人間はイチコロだ…彼女の消費社会への心酔ぶりに私は一抹の不安を覚えた。平和に見えても北朝鮮人の私たちにとっては戦場。いつ足元をすくわれるか分からない…
クリスマスに華やぐ銀座でたっぷりウィンドーショッピングした結果、買ったのは黒燕が渡しのためにと選んだ上下一着ずつ。あとはお揃いのメッキの指輪を購入する。
「右手の薬指にはめると恋が叶うんだって」
そんな束の間のシンデレラたちも浮かれてばかりはいられない。今日は12月15日。毎月5のつく日の夜は本国の指令が届くからだ…短波ラジオは、電源を入れるや不気味な唸り声をあげ海の向こうから渡ってきた電波を拾う。
――そしてこれが、私たちを地獄に引きずり込む高橋の”新規事業”の始まりであった。
「トラジ、トラジ、白いトラジよ~♪」
間の延びたような琴の音が流れ、朝鮮民謡が流れ出す。私たちのチームへの指令だ。
「こちらは朝鮮放送です。海上の天気予報です。東経138度は気温32℃…東経452度は風速15メートル…」アナウンサーが朗々とデタラメな天気予報を装い5桁の数字を読み上げる。私と黒燕は、それを手元の乱数表と照らし合わせてメモし、森鴎外の小説のページと行に当てはめて単語を一つの列に並べていく。
「10日後の夜、藻浦崎にて、同胞と共に接線の維持を支援せよ」
「接線…」
黒燕は顔に緊張の色を浮かべた。
――“接線”とは工作船による密入国者と接触を意味する。接触場所はあらかじめ全国に100か所ほど選定されてあり、藻浦崎はその一つ。だが密入国自体は私たちのように偽造パスポートでもできる。わざわざ工作船を使う理由は…違法なものを運ぶためだろう。その品物は何なのか…?高橋の”新規事業”に関わるものだろうか…?窓から射す水銀灯を嫌って布団を頭からすっぽりかぶった。
10日後の12月25日の朝、上野駅で高橋と合流し『特急とき』に乗りこんだ。
「あぁ…緊張する」
黒燕はそう言いながら、駅弁をほおばると埼玉を抜ける頃にはスヤスヤとかわいい寝息を立てた。この瞬間に公安や南朝鮮側のスパイに尾行されているともしれないのに。だがそんな心配をよそに特急は長いトンネルを抜けて、小説「雪国」の舞台である湯沢温泉郷に出た。するとふいに高橋が呟く。
「あれは新幹線の工事ですよ」
「新幹線?」
言われてみると雪原の奥には灰色の墓標のようにコンクリートの巨大な橋脚が整然と立ち並んでいる。
「こんな山の中に新幹線を作って、誰が乗るんですか?」
「でしょ?税金のムダ遣いだと言う人もいますけど…新潟は田中角栄の地元だから。独裁者が好き勝手やるのはどこの国も同じですね」
「…!」
高橋の含みのある言葉に警戒心が働く。うかつに同意すれば密告されるかも知れない。
「…どういう意味でしょう?」
だが高橋は淡々と続ける。
「そのままですよ。北朝鮮も日本も程度は違えど、信条や思想を振りかざして独裁者が好き放題するという点では同じという事です」
「!!…我らが北朝鮮は主体思想の国。仮にも将軍様に遣えるあなたが、そんな事言っていいんですか?」
「フッ…思想があって国がある?逆ですよ。政府は、国民を操り戦争で勝利するために信条や思想を利用する。思想なんて所詮は政治家の道具です。私たちのような”影“までそんな建前に囚われていたら勝てる勝負も勝てませんよ」
「…思想は道具?」
――その言葉に、父を刺した明雄の姿が重なった。その考えは国民の人生をあまりにもてあそんでいる。いらだちを見せる私に彼はクリスマスに浮かれる広告を指して言う。
「何をそんなに不審がっているんですか?日本人だって、クリスチャンでもないのにクリスマスを商売道具にしている。思想なんてそんなもんですよ」
高橋……こんな合理的な人間がなぜ北朝鮮なんて不可解な国に従っているのか?そして、彼が行おうとする新規事業とは?
新潟駅に着くとそのまま新潟港へ――そこは10年前、帰還船が旅立った場所――壮大な見送りと紙テープで華やいだ岸壁は、人影まばらでみぞれまじりの風が吹き着けていた。ストーブの匂いが漂う待合室、ボーと鉛のような汽笛を合図に乗客たちは思い思いに立ち上がり乗船していく。私は甲板に向かった。まだ14時だというのにぼんやり薄暗い空。再び汽笛が鳴ると、船体はゴワンゴワンと冷たく湿った風をまとい荒波を切り裂き始めた。
「大丈夫?風邪引くよ」
振り返ると黒燕が立っていた。しばらく船室に戻らない私を心配したようだ。
「…私、この港から北朝鮮に渡ったの」
「そうだったんだ」
雲の切れ目に白い稜線が、あの日のまま慄然とそびえていた。
――13歳の日、この山を見て海に飛び込もうとした。日本に帰りたいと…そして夢叶い今ココに立つ私は吉田智子では無く別の誰か。奇妙な感覚を覚える。
佐渡島に着くと用意されたワゴンで藻浦崎へ直行し、山中に車を隠して夜更けを待つ。遠目に見えるうらぶれた岬にはポツンと小さな鳥居と巨石がそそり立つのが見える。
「…密入国にもってこいの立地ですね」
「え?」
「侵入を試みるのは大抵、新月の夜ですから。海上は真っ暗なのでボートに乗ると方角を見失いやすい…そこで海辺にこうした巨石があれば、そこだけ外灯が遮られ黒い影が浮き上がるのでいい目印になるんです」
「へぇ~」
黒燕は大仰に感心すると再び静寂が訪れた。そして夜9時をまわった頃、雪の積もる音さえ響くほどシンと静まりかえった車内に、ザッとトランシーバーのノイズが響いた。すかさず高橋がポッと一押しだけ無線を返す。
「これが上陸OKのサインです。2人も覚えておいて下さい」
「話さないんですか?」
「海上保安庁に聞かれてしまうので」
そういうと高橋の合図で一斉にワゴンから出る。ずっと暗闇にいたせいか目が慣れていて作業に不都合はない。海辺の岩影に身を潜めると高橋は囁く。
「白波に紛れて現れる黒い影を探してください。そして見つけたらこうします」
高橋が近場の石を手に取り、岩場にパンパンと二度叩きつける。あちらもパンパンと二度手を叩く。その音が鳴る方へ一斉に走っていくと…そこには黒づくめの潜水服に身を包んだ影たちが白い息を切らせて立っていた。
私たちを目視すると防水加工された黒い袋を浜に降ろし始める。その凍えたように震える手を見て、ようやく彼らが”影”なく一人の人間なのだと認識できた。私と黒燕はその袋を訳もわからず必死で車に運ぶと、高橋はいつからそこにいたのか漁師風の男と中身を確認し、現金を受け取る。そして最後に黒づくめの男たちに国産のタバコやウイスキーを手渡して作業は終わった。
「無事に初取引成立です。ご苦労様でした」
彼らはビシッと敬礼し、再び波間の闇へと消えていく。
「皆さんもお疲れ様。どうしても男だけでうろつくと怪しまれますからね、助かりました」
すると、黒燕が我慢できず核心に触れる。
「あの…さっきボートから降ろした荷物は何なんですか?」
「アレはただの“高麗人参”ですよ」
「…高麗人参?」
「日本と北朝鮮、国交がないから正式に貿易できないので」
さすがに素直な黒燕も信じてないようだ。この頃、北朝鮮は国家レベルで覚醒剤を製造していた。そのターゲットこそが日本。高橋の新規事業とは、この暴力団を通じた密売ルートの開拓であった。
――僕は絶句した。母は本意でないにしても覚醒剤の密輸に加担していたのか。しかも北朝鮮製覚醒剤といえば90年以降からメディアでも頻繁に取り上げられ、現代に至るまで蔓延し続けている。さっき直子さんが言っていた通りの重大犯罪だ。
「この事業が後に核開発の資金になったのよ」




