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【第二十二話 東京】


翌日、待ち合わせた黒燕と共に北朝鮮パスポートでモスクワ経由ウィーンへ。一泊した後、日本のパスポートを使い、パリ経由で東京へと実に50時間を経て、東京国際空港に降り立った。東京湾をバックにいくつものジャンボジェットが居並ぶ景色を横目に、入国審査の列に並ぶ。


「いよいよね、ココで失敗すれば全ての努力は水の泡」


「えぇ、訓練の通りにやれば大丈夫」


前の男性のパスポートと自分のものを見比べると、パッと見た限りは瓜二つ。北朝鮮で一、二を争う職人が偽造したこのパスポートを見破れるはずはない…だが相手は百戦錬磨の審査官、絶対はない。ここで見つかればあの地獄の北朝鮮へ逆戻り…そして、二度と日本へは来れないどころか、粛正される可能性もある。


「次の方どうぞ!」


審査官が手招きに従い、深呼吸してカウンターに進む。


「よろしくお願いします」


するといきなり審査官は怪訝な顔をしてパスポートを覗き込む。しばらく私の顔とパスポートを何度も見比べた。…なぜそんなに警戒するのか?何か不手際があったのか?…その冷たい目に見つめられた瞬間、手足がジンと冷たくなり細かく震え出すのが分かった。


「お姉さん、海外よく行かれてますね。お仕事か何か?」


「はい、映画の配給会社で働いてまして」


「…どこの?」


ふいに英語で聞いてくる。明らかに疑われている…とにかく国名を。スタンプとの整合性で言うと…


「…西ドイツです」英語で返す。


「ドイツのスタンプは?」ドイツ語で聞いてくる。


必死に地図を頭に浮かべる。


「ウィーンに入ってから陸路で行ったんです。ミュンヘンですけど、たまたま乗り継ぎが悪くて」


すかさずドイツ語で返す。審査官は目を細める。


「ウィーン?」


「はい」


「…あぁ、本当だ。おかえりなさい」


ドンと大げさな音をたてて帰国の判を押した。私は、その「おかりなさい」を何度も心で繰り返した。だが振り返ると、今度は隣のレーンに並ぶ黒燕が質問攻めにあっている。


「どこの国に?」


――西ドイツだ。西ドイツのミュンヘンと応えなければならない。


だが黒燕はベルリンと答えた。


「ベルリン?」


――まずい!西側の人間はウィーンからだと陸路ではいけない。


「本当に?」


審査官は何度も黒燕とパスポートを見比べる。


「えぇ、どうだっけ?」


焦りから所作の端々に北朝鮮の臭いがし始める。それを審査官も見逃さない。するとパスポートコントロールの外で待つ私にも目を向ける。その疑惑の視線に逃げ出したくなる。このまま国内に入ってしまえば捕まることはない。だが、黒燕を置いてはいけない。彼女を助けなければ…勇気を振り絞り声をかける。


「あぁ!彼女は女優なの!オーディションがあってね…もうベルリンじゃなくてミュンヘンでしょ?適当に答えちゃダメ!」


「そうだ!ミュンヘンだった!」


すると、ジリリリリ!と呼び鈴が鳴る。


「どうした?」「あっちで偽造パスポートが見つかったと」「分かった、応援に行く」


すると、審査官は関心がそっちへ向いたのか。無造作に入国スタンプを押した。


「危なかったわね…」


「にしてもいい機転だったわ!たしかに私が女優って言ったら信じちゃうわよね?」


「はぁ…こんななら本当に置いて行けばよかったわ」


あとで知ったのだが、当時、数次パスポートはとても珍しく、特に若い女性が持っているのに驚かれたようだ。税関検査を終え、到着ロビーに出るとスーツ姿の男が声を掛けてきた。


「おかえりなさい、長旅お疲れ様でした。こちらへどうぞ。お荷物お持ちします」


紳士的な振る舞いで荷物を持つと、そのままターミナル前にニョキッと立つ大きな鳥居の足下で待機していたカローラのトランクに積み込んだ。後部座席に座るよう促され車内に入るとスーツ姿の男性はしばらく周囲をキョロキョロと見渡し、運転席に滑り込んだ。




ゆっくり走り出す車内で男は自己紹介した。


「あらためまして高橋です。お二人には私の新規事業を手伝ってもらう予定です。よろしく」


日本語は流暢でどこから見ても商社などで働くビジネスマンにしか見えない。


「明華さんは東京に住んでたんですよね?」


「えぇ、立川です」


「久しぶりに来てみてどうですか?平壌に比べて騒がしいでしょう。あっちもこっちも商品広告ばかりで。資本主義の街って感じですよね」


「いや、むしろ騒がしいどころか…静かです」


日本車の性能に面食らう。平壌では高級車扱いされるソ連製のヴォルガでさえ、車内には脳天を突くかのようなエンジン音が鳴り響く。しかも舗装されていない道をいけば、頭が天井につくかというぐらい上へ下へと揺さぶられ、タイヤが小石を踏む度に背骨にバリバリという振動が走る。だが東京はどうだ、そもそも見渡す限り舗装されており、小石一つない。高速道路の合流地点にさしかかると、見たこともない数の車の間に、時速60キロでスルスルと割り込んでいき、やがて息ピッタリその一員となった。


「石油ショックで景気は悪いはずなんですが、渋滞は相変わらずです」


「これで不景気か…」


フロントガラスごしに見える巨大煙突からは無数の白い煙が天へと伸びている。開いた窓の隙間からゴーという物音がしたかと思うと曲芸師のような乗り物――高橋はそれをモノレールだと教えてくれた――が追い抜き、その行く先には東京タワーがそそり立つ。私がいた頃と全く違う、未来都市の東京がそこにあった。


「すごい…これが日本か」黒燕はキラキラした目をより一層輝かせた。


「黒燕さんは日本のこと気に入ってくれたようですね?」


「!!…いえ、資本主義の体たらくをこの目に焼き付けて教訓としているのであります」


「いいんですよ、肩肘張らず自然体にしてください。真の意味で革命闘争に勝利するには、敵を否定するだけじゃダメです。むしろ敵から学んで利用しないと…そう思いませんか?」


「な、なるほど…」


私はこっそり肘で小突いた。


「ところ、お疲れのところ申し訳ありませんが。新居にご案内する前に、一件寄りたいところがありまして。そこで“肩書き”も作ってしまおうかと思います」


「肩書きを作る…?」




上野のパチンコ店の前で車を停めると、高橋は店員に軽く挨拶をかわしながらタバコの煙で霞むホールを抜け、裏口の事務所に入る。私たちもその後ろについていく。


「あぁ、いたいた!ご無沙汰してます、社長さん」


一瞬、その社長と呼ばれた男が嫌そうな顔をした。だがすぐに満面の笑顔に切り替えて高橋を迎えた。


「これはこれは、高橋さん。今日はどうされました?」


「実は!ちょっと見せたいものがありまして…喜んでもらえると思いますよ」


「え~?」


高橋はカバンから白黒の家族写真を取り出して社長に見せる。


「ちょうど今日、届いたんですよ。ほら、北朝鮮にお帰りになったお母様の写真」


すると、社長はなぜかまた曇った顔をした。


「…それでわざわざご足労を。ありがとうございます。えぇ、えぇ」


「偉大なる首領様のご加護で、変わらずお元気です。よかったですね」


そうだ、これは厚意でも何でも無い。脅しだ。おそらく母親の横に一緒に映っているのは政府の人間。言うことを聞かなければ、北朝鮮の家族は無事では済まないぞという警告…




――ふと出発の前日、母から掛かってきた電話を思い出した。人民の管理だけは上手いあの北朝鮮当局が、母の居場所を何年も把握していなかったわけがない。私が出国後に亡命や裏切りなどしないように人質がいることを暗に伝えたのだろう。




社長はさっさと高橋を帰らせたいとばかりに、私と黒燕に目を向けた。


「で、他にもご用件あるのでは?」


「そうなんです。ご紹介していいですか?こちら、黒田さんと永井さん」


私はペコリと日本人女性らしくしなやかに会釈をした。


「ご挨拶遅れました。黒田百合子と申します」


「永井恵理子と申します」


「どうも、木下です」


「美しいし礼儀もしっかりしてるし、素敵なお嬢さんたちでしょ?」


「えぇ、まぁ…」


「ほんと、よかった!じゃあ、お二人、弟さんの所で雇って頂けませんか?」


「え?」


唐突すぎて社長はお茶を吹き出しそうになっている。


「あの…雇うというと…?」


「弟さん、信用組合の支店長やってますよね?ちょうど受付足りてないって聞きましたよ」


「どうでしたかね」


「あぁ!ムリなら全然!」


高橋はこれみよがしに写真を鞄にしまって帰ろうとする。


「ちょっと、待って…いえ。もちろん、高橋さんの紹介なら喜んで。ただ1人しか枠が…」


「そうですか…今は石油ショックでどこも厳しいですもんね。じゃあどちらにします?」


まるで商品でも選ばせるように私と黒燕を指す。黒燕はあまり乗り気でなさそうなので、私が一歩前へ進み、会釈した。


「…右側のお嬢さんでお願いします」


「じゃあ黒田さん!就職先が決まって良かったですね」


「よろしくお願いします」


「どうも…」


高橋は大仰に拍手を送ると、それに合わせて社長も複雑な表情で音のない拍手をした。


「後ほど履歴書は送らせて頂きます」


「あぁ、よろしく。では私は忙しいので…これにて失礼します…」


「いえ、あと一件ご相談が…」




車に戻っていると、すぐに高橋が後ろを追ってきた。そしてダッシュボードからタバコを取り出し、一仕事終えたという風に満足げに吹かせる。


「にしてもあんな簡単に人を雇うなんて、日本は不況といいつつ景気がいいんですね?」


黒燕の的外れな質問に絶句した。なんと彼女は一連のやりとりの裏に蠢く人間の本心が全く読み取れてなかったのだ。すると高橋は相変わらずのビジネスマン風の語り口で淡々と答える。


「まさか!あれは、暗に北朝鮮にいる家族が無事では済まないぞと脅したんです」


あけすけと本心を明かすと、彼のクールな目の奥が光った。


「彼らのような協力者を私たちは、活動の足場を提供する人間という意味で“土台人”と呼びます」


「え…いやいや。あり得ないです!誇り高い我が国が、同志をゆするなんて…」


きっと上流階級出身の彼女はこれまで脅されたり騙されたりした経験がないのだろう…言葉を失う。彼女に人間の裏をかくこの仕事が務まるのだろうか…きっと何か大きな厄災をもたらす気がする。




「それで言うと高橋さん、私からも一つ伺いたいことが」


「どうしました?」


「あの人、民団(朝鮮総連に対する韓国側の在日組織)ですよね?事務所に首領様の肖像画が無かったですし、同志という言葉を一度も使わなかった」


「敵側って事じゃない?」


黒燕は驚きを隠さない。それもそうだ、前月まさに北朝鮮工作員による韓国大統領の暗殺未遂があった。そんな緊張関係にありながら敵側に活動資金をせびるとは。


「関係ないですよ」


「?」


「あの方はお母さんが心配だから我々に協力する。政治的信条なんて関係ない、ただの取引です。それに…」


「…?」


「民団は我々の敵ですが、総連も結局、資本主義に染まった組織ですから。我々はあくまでビジネス相手としてどちらも利用して、首領様の崇高なご意志をより効率よく遂行する。それだけです」


そういう高橋こそが最も資本主義に囚われているように見えた。紳士的な所作や言葉遣いとは裏腹のゆすりとたかり…彼が行おうとしている新規事業とは何なのか?少なくともまともな事業でなさそうだ。ただ、唯一の救いはそんな非情そうな男の指にも婚約指輪がついている事。彼にも妻がいて家庭があるのだと妙にホッとした。




そのまま私たちは荒川区三河島の朝鮮人街の中に建つアパートに送り届けられた。そこは6畳と4畳半の2つの和室と、台所、トイレと洗面がついた部屋。家電、家具、食器など、一通りのものは揃っている。


「これカラーテレビだ!しかもソニー」


いつの間にか黒燕はテレビの電源を入れていた。


「ってか、何、これ!?スプーン曲がってる!超能力だって…」


その後、近所のスーパーへ買い出しに行くと、黒燕はまたしても歓喜の声をあげる。


「見て、このキュウリ!長さも太さもほぼ一緒!野菜も質が均一なんて教官の言った通りじゃない」


豊富な品揃えと、陳列の鮮やかさ…好きなものを好きなだけ選べる光景を見て“地上の楽園”だと思った。


――そう、私はやっとの思いで日本に帰って来た。あの地獄から生還したのだ。だけど……それはニセ物の自由だ。私の足にも手にも頭にもしっかり鎖がはめられている。逆らえば、家族の命が奪われる。重くて冷たい鎖が……




**********************************




一同を重たい空気が包む。すると美咲さんが呟く。


「日本に帰ってもなお、母は北朝鮮の鎖に繋がれていたのね」


「この高橋という男が、新人工作員たちに仕事や家まで提供したのは監視下に置くためだと思う。ただ彼が北朝鮮と具体的にどういう繋がりがあったのか、実は私もいまだつかめていない。分かってるのは二つ。一つは、美浜の船舶爆発事故で亡くなったということ」


「…亡くなった!?」


――なぜか僕はてっきりこの高橋という男が生きているものだと思い込んでいた。というのも所作や行動パターンを聞いていると、何となくどこかで会っている気がするのだ…これはただの勘違いだろうか?


「もう一つは?」


「彼が推進していた“新規事業”について。彼が行ったその重大な犯罪は、今もなお日本中に多くの被害をもたらしている」


「今もなお…?」


「そして、真理さんもその片棒を担いだ?」


直子は静かに頷いた。


「私があの時、もっと積極的に動いていれば多くの人を救えたかも知れない…それがずっと心残り…」


皆が一様に、直子さんの方を見た。


――彼女は一体何者なんだろう?そして彼女が言う高橋の”新規事業”とはどういったものなのだろう?




手記の続きを読むにはさらなる覚悟が必要だと感じた。


「ちょっとだけ休憩させて下さい」


ガラス戸を開けると、庭から真冬のシンと冷たい空気が流れ込んで来る。そのまま縁側に腰掛けて頭を冷やしていると、キッチンでヤカンが湧く音と同時にコーヒーのいい香りが漂う。美咲が淹れてくれているようだ。少し心が落ち着いた所で、僕はこれまで聞いてきた事を整理する。




【分かった事】


・母は、吉田智子(金山智子)→黒田百合子(明華)→長瀬百合子→渥美真理と名前と名字を変えてきた。


・母は日本人でありながら北朝鮮に行き、工作員として戻ってきた。


・母と長瀬雄一の間に生まれた娘が長瀬美咲。長瀬美咲の子が彩花と健人。つまり彩花と健人は母の孫であり、僕は叔父である


【分からない事】


・母の上司にあたる高橋の”新規事業”とは?


・なぜ直子さんと謎の男たちはこの実家を手にするため争うのか?何者なのか?


・長瀬雄一はなぜ娘である美咲を引き取り、妻・黒田百合子と別々に生きる事にしたのか?なぜ彼は美咲に「母は亡くなった」と伝えたのか?


・なぜ黒田百合子は渥美真理と名前を変えたのか?


――直子さん曰く、高橋という男の”新規事業”が、今に繋がる問題の発端だという。




「おじさん、大丈夫?」


彩花がコーヒーを手に隣に座る。


「いや、正直パニックだよ。母さんについて自分は何も知らなかったんだって、教えてくれなかった怒りとか情けなさとか…」


「そんな風に考える必要ないよ。だっておじさんが言ってくれたじゃない?家族にだって知らない事はあるって…だから、その人の事を思いやったり大切に思えるんだって」


「…」


「あの言葉があったから私は、美咲さん…お母さんの事を知ろうと思えた。そのおかげで死んだモノトーンだと思ってきた幼い頃の記憶も、今少しずつ色を取り戻せてる気がする」


僕みたいな人間の言葉が、彩花の人生に少しでも光を差せているとすればとても嬉しい…


「それにね、思うの。真理さんがなんでこんな手記を残したんだろうって。だって家が解体されれば、いつかはあの地下壕の存在も明らかになっていたし、そうなれば見つかる訳じゃない?」


「たしかに…」


「これは隠したんじゃないよ。いつか読んでもらうために埋めたんだよ、タイムカプセルみたいに」


僕は顔をあげた。この続きにはもっと辛い事実が書いてあるかも知れない…だけど……


――”辛い記憶“からただ逃げても、それはニセ物だ。だから皆で、全てを知ったうえで新しい家を建てるべきなんだ。


「彩花、ありがとう、彩花」


「大丈夫だって!おじさんは一人じゃない。美咲さんもいるし、健人も、もちろん私も!皆で向き合うの」


僕は縁側から立ち上がり、テーブルに戻りガタガタした椅子に腰掛ける。皆と目が合う。


「母が背負ったもの、その一部始終をこの目に焼き付ける」

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