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【第二十一話 スパイの学校】


日本と北朝鮮を取り巻く情勢がいかに母の人生を狂わしたのか?


なぜこの何の変哲もない一軒家には地下室があるのか?


直子さんや謎の男たちは何者で、なぜこの家にここまで執着するのか?


美咲さんは母と離ればなれになることになったのか?




「これらの疑問や違和感は全て、この一冊の偽造パスポートに繋がる」


そう言うと直子さんは1974年発行、黒田百合子と記載された青いパスポートを手に取って開いて見せた。写真に映る若き日の母は目鼻立ちが通り目元も涼しくとてもキレイで、あらためて見ると美咲や彩花とよく似ている。だがその表情はこれ以上、真相に近づく事を拒むように固く無機質だ。




――僕はそんな母の写真を見つめながらここまで分かった事、まだ分からない事を振り返った。


【分かった事】


・母は、吉田智子(金山智子)→黒田百合子(明華)→長瀬百合子→渥美真理と名前と名字を変えてきた


・母は日本人でありながら北朝鮮に行き、別人として戻ってきた


・母と長瀬雄一の間に生まれた娘が長瀬美咲。長瀬美咲の子が彩花と健人。つまり彩花と健人は母の孫であり、僕は叔父である


【分からない事】


・母はなぜ頻繁に名前を変える事になったのか?


・母がどうやって本当の黒田百合子から戸籍を乗っ取ったのか?失踪した彼女はどこにいるのか?


・なぜ直子さんと謎の男たちは実家を手にするため争うのか?何者なのか?


・長瀬雄一はなぜ娘を引き取り母と別々に生きる事にしたのか?娘に母は亡くなったと伝えたワケは?




このパスポートの奥にある真実は、僕たちにとって恐ろしいものかもしれない。だけど知りたい…




再び手記の一文を見つめる。


――私は何度も名前を変え、その度に違う人生を生き…そして誰かを傷つけ、殺めてきた。


「これはどういう意味なんだろう?」




**********************************




1973年4月 平壌




父の死から7年の月日が経った。独り身になった私は、日本人らしい顔つきと語学の成績の良さから利用価値があると思われたのか、政府の役人に目を掛けられた。私もその期待に応えるべく猛勉強し名門・平壌外国語大学へ。日本語はもちろん、英語、中国語、ロシア語でもトップの成績をとった。その結果…今、私は地下鉄「戦勝駅」の長い長いエスカレーターを昇っている。向かう先は北朝鮮随一のスパイ養成学校・金星政治軍事大学。




教室には既に何人かが席に着いていた。中でも一際目を引く女性がいる…鋭い目元に薄い唇、整った気品のある顔つきをした見るからに平壌育ちの上流階級出身者。私は彼女の隣に席をとった。


「よろしくお願いします」


「よろしくね」


その声すらも美しい。女の私でも惚れてしまうほど。教官が入室すると彼は手元の名簿と学生の顔をしげしげ見比べ、そしてやはり私の隣の彼女に目をとめた。


「宋利花」


「はい」まっすぐ前だけを見て返事をする。


「軍副総参謀長の娘か…」


教室がザワつく。副総参謀長と言えば、軍の10本の指には入るエリート。そんな家柄の人間がなぜスパイに…


「ここでは親の肩書きなど関係ありません。革命戦士として命を賭すのみです」


「そうだ。工作員となる以上、出自や名前、自分が何者かなど一切忘れろ。ただ将軍様の革命運動を遂行する影となるのだ」


今度は、その視線が私をとらえる。するとより興味深げに名簿と私の顔を見比べた。


「金智子…父親も母親も日本人の血統、1965年に北朝鮮に帰還」


教室はさらにザワつく。なぜお前のような出自の者がここにいるのだと。


「日本人の血が流れておりますが、この全身全霊は偉大なる首領様に捧げております」




――心にもない言葉がペラペラと出てきて、自分でも吹き出しそうになる。だって私はこの国から出られれば何でもよいのだから。そのために貿易関係の仕事を目指したが、それが工作員に替わっただけだ。…この時は、そう思っていた。




「ではコードネームを授ける」


私には“明華” 、隣の宋利花には“黒燕”が与えられた。一限目の授業が終わるとなぜか黒燕はクールな面持ちに似合わず唇を尖らせて、ふてくされた顔をした。


「どうしました?」


やはり上流階級は私のような人間と一緒は嫌なのだろうか。だが意外な言葉を放った。


「…“黒燕”って地味じゃない?」


「…コードネームが気に入らないってこと?」


「だってコレ変わらないんでしょ?私、一生”黒燕”なのよ?」


「そうですか?私はいい名前だと思いますよ。ツバメは国境を越えて5000kmも飛びまわり、飛行しながら動く獲物を捕まえるのが得意なんです。スパイらしくないですか?」


「あら…じゃあ、アリかも」


クールな目に笑みが浮かんだ。私はそんな彼女の素直さにまた魅了された。




訓練が本格的に始まった。大卒は、肉体系の戦闘員のような砂袋を担いで40キロ持久走や10キロ遠泳などハードな訓練は免除されるものの最低限の技術は叩き込まれる。中でも辛かったのが…


「何なの?スパイがなんで穴掘りするわけ?」


「教官は身を隠すにはこれが一番だって!」


身体をすっぽり隠す穴を30分で掘る訓練。私と黒燕はどれだけ練習しても膝くらいまでしか掘れず、2人そろって何度もやり直しさせられた。だが必死で食らいついた。私には帰る場所はない…落第し利用価値を失えば、それは死を意味する。




だから体力勝負ではない教科では好成績を目指した。特に暗号の読み取りはピアノで鍛えた耳の良さが役立つ。短波ラジオにのせて伝えられる工作員の指令。デタラメな偽の天気予報でアナウンサーがひたすら読みあげる5桁の数字を乱数表と照合し、それを各自に割り当てられた小説のページ数や行数と照らし合わせて指令文をおこす。




――僕はハッとした。そうか。家にあった森鴎外の本は、母さんが暗号解読のために使っていたものだったのか。




他にも、潜入と尾行の実習、色恋で男を落とす訓練、偽造書類の制作、中には身柄拘束時のため自殺用カプセルを飲む練習なんてのもあった。


「明華って暗号の読み取り、上手いよね?私の分も暗号読んでくれない?」


「フフフ…それじゃ、暗号の意味ないって」


「苦手なのよ〜私はこっちの色仕掛けの方が性に合うなぁ」


「ええ?笑」


訓練は辛かったけど、黒燕といるとほんの少しだけ昔の自分に戻れた気がした。だがいずれ私たちは別々になる…なぜなら黒燕は韓国配属を志望しているから。幼い頃に見た『名なしの英雄』というスパイドラマに憧れてこの道を目指した彼女は、工作活動の本丸であり成績優秀者が集まる韓国での活動を志していた。一方、私は日本行きだ。




だが、進路発表の日、意外な結果が告げられた。


「黒燕、気落とさないで」


「もちろん。明華と一緒になれたんだし嬉しいわ」


2人揃って日本行きになった。軍事政権下の韓国での活動は死亡リスクも高い。黒燕の両親が裏で手を回したのかもしれない。




そのままスグ、私たちは平壌の地下に作られた巨大トンネルへと案内された。


「これって…喫茶店?パチンコ店、駅の改札までもある…」


「見て!この週刊誌って先週のやつだよ。この黒塗りされてるのは…?キャ!いやらしい、女の裸じゃない」


日本をそのまま移植したような巨大セット。


「どう?不思議な光景でしょ?」


声に振り向くと、北朝鮮では珍しい発色のいい服に身を包んだ女性が立っていた。流ちょうな日本語からは少し訛りを感じる。つい最近まで日本にいたのか、もしくは私のような日本出身者か。


「これでもほんの一部。南朝鮮用の訓練エリアは全長10km以上あるのよ」


「10km!?」


――ふと清津で見た痩せこけた人々の顔が浮かぶ。この国は、地方の庶民たちの窮乏に目を向けず、こんなバカげた施設に大金を投じているのか。




「あなたたちの教官を勤めるユリと申します。よろしく」


そういうと会釈を交わす。


「…あなたは日本育ちだったわね?」


「はい、大阪です」


「そう。だけど、北朝鮮の臭いがする」


「え?」


ふとイワシ石けんの臭いを思い出し、自分の服をクンクンと嗅いでみた。


「明華、何してんの?」


「いやぁ…そんな臭うかなって」


「そういう意味じゃないわ。今あなたは会釈するときに胸に手を当てた。日本では手を横に揃えるの。そんな風に些細な所で尻尾が出るし、敵もそれを絶対に見逃さない。だから、今からあなたたちを徹底的に洗浄します」


「洗浄…」


その訓練はとても奇妙なものだった。


「電化製品を買う際は必ず価格交渉をして下さい。これは現地では“値切る”と言います」


「価格交渉!?」黒燕は悲鳴にも似た声をあげる。


「はい。資本主義の日本では同じ商品でも店ごとに価格が違います。なので値切らないとわざわざ高値で物を買うことになり不審がられます」


「価格を下げろだなんて…じゃあ売りませんって言われるだけでは??」


共産主義の世界で育った黒燕は、資本主義の感覚が直感的に分からないんだなと思った。だからこんな大げさな訓練施設が必要なのだ。


「では早速、買い物をやってご覧なさい」


私が店員役、黒燕が客の役に分かれてコントのように演じさせられる。


「いらっしゃいませ!」


「え~どのラジオにしようかな」


「はい!カット!」


「え?」


開始10秒。黒燕の大根芝居に教官の指導が入った。もちろん演技の善し悪しでない。


「ダメよ。そんなに商品をジロジロ見比べちゃ。日本の製品は質が均一だから」


「質が均一!?…ち、ちなみに野菜の場合は?」


「野菜も限りなく均一ですが、多少は選んでいいです」


「明華!野菜も均一だって!」


北朝鮮で同じ事をすれば速攻で不良品をつかまされる。買い物一つについても、やらなければいけない事、やってはいけない事が全然違うのだ。




他にも話題についていけるよう現地の流行は雑誌で猛勉強。


「日本の服って本当カラフル!こういうの私も着るのかな。あ…これカップヌードルっていうの流行ってるんだって。そんなに美味しいのかしら??」


「あんなに韓国行きを目指してたのに、もう日本の虜じゃない笑」


「まさか!あくまで敵情視察よ」


さらに日本で流行り始めたカラオケの特訓なんてのもあった。100近くのヒット曲を歌詞を暗記して歌うのだが…黒燕は予想通り、演技だけでなく歌も下手くそだった。だけど、とても気持ちよさそうにトンネル内に歌声を響かせる彼女を見ていると幸せな気分になる。


「明華!何、笑ってんのよ?」


「ううん、なんでもない!」


たくさん聴いた中でわたしは特に「なごり雪」という曲が気に入った。曲と歌詞が日本への郷愁を無性にかき立てるから。




――ふと彩花の鼻歌が響く。「この曲?そういえば、真理さんよく歌ってた気がする」


健人も頷く。「俺も知ってる!なんか色々繋がって面白いな」




訓練が始まって1年。私たちは情報調査部35号室の対日工作員として正式に配属が決まった。教官のユリさんから渡されたのは青い一冊のパスポート。見開いてみると、そこには私の写真と黒田百合子という名が。あらかじめ日本の出国スタンプが押されている。


「おめでとう、黒田百合子さん」


――私は今日から『黒田百合子』になるのだ。


「また北朝鮮に戻ったら日本の様子、教えてちょうだいね」


教官は微笑みながらも、かすかに目を潤ませた。


――ユリと名乗る彼女は一体何者だったのだろう?




日本への出発の前夜、宿泊所の電話が鳴った。


「もしもし…?」


「智子…?」


その声に記憶が一気に蘇った。家を出て以来ずっと連絡が取れないでいた母だった。無事に生きていてくれたのだ、涙が溢れる。


「お母さん!お母さんなの?」


「…ごめんね、連絡が遅くなって」


「うん。今どうしてるの?元気にしてるの?」


「威興で暮らしてる」


なんと彼女はずっと同じ街、威興にいたのだ。しかも既に再婚して子どももいるという。


「そうか…」


「智子にも明雄にも苦労かけたね。本当すまないと思ってる」


――その言葉が妙に引っかかった。すまないと思ってるなら、なぜ帰ってきてくれなかったのか?一度でもいいから顔を見せてくれなかったのか?


「智子のことずっと心配してたのよ」


――ずっと?じゃあ、なんで今このタイミングで電話を掛けてきたのか?


「お母さん、智子が立派な仕事をしてるって聞いた」


――そんな国家機密を誰が教えたのか?そもそもこの連絡先は?…今、母の後ろに立っているのは誰なのか?…母の言葉が操り人形のように全て空虚に思えてきた。


「…ごめん、明日も早いから切るね」


「もうちょっと話しましょうよ」


「ううん、よく考えたら私にはお母さんなんていなかった」


一瞬、よぎった母の無事を喜ぶ感情を無機質な声色の下に全力で押し込め、喉の奥から絞り出した言葉。


「え?…智子?」


「ごめん、それに私はもう智子じゃないの。さようなら。国のために尽くします」


受話器をおろした瞬間、不思議と母の無事を喜ぶ気持ちも、自分を捨てた事へ憎しみも…何も感じなくなった。共に過ごした記憶はピアノの鍵盤のようにモノトーンになった。だけど、これだけは母に感謝しよう…あなたが家を飛び出し、弟が父を殺したから、私はこの永遠とも思えた地獄から飛び立つキッカケを手に出来た。行く先は“修羅の道”かもしれないけど、未来が見えないだけマシだ。




――ダイニングテーブルを囲む皆が沈黙していた。美咲は静かに彩花の方に視線を送った。母に対する複雑な思いを抱えていた点では重なる部分があるに違いない。すると、それに気づいた彩花はガタガタする椅子の肘掛けから手を離し、美咲の手の上にそっと重ねた。


「私も一度はお母さんなんていないって思った事もあった。だけど今はまた一緒になれてよかったと思ってる」


彩花の言葉に応えるように健人も美咲に手を添えた。


「俺も。どんな事があっても離れないから」


その様子に美咲はまた目を潤ませた。直子さんは深呼吸する。


「訓練を終えた真理は、名前も家族も捨てた。そして、別の人間として帰ってきたの。ずっと夢見た日本へ…だけどそこは別の意味で地獄だったのよ」



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