【第二十話 私は君と自由を夢見た】
「ねぇ、前言ってた将来の夢って何だったの」
学校の教室で、武は相変わらずのデリカシーのなさで私の心に踏み込んできた。
「…だから内緒だって」
「なんでさ?」
「じゃあ、逆に武は?何になりたいの」
「俺?やっぱり漫画家かな」
「たしかに絵上手いもんね」
「だろ?でも…まぁ、この国、漫画ないもんな。はぁ…カムイ伝の続きどうなったんだろ」
「カムイ伝?」
「そういう漫画」
私は、母を失い、家事も並行して行わなければならなかった。優しいオモニは色々手伝ってくれるけど…掃除、洗濯、料理、北朝鮮の冷たい水で荒れ放題の指を見つめる。夢なんて見るだけムダ…
「もしかしてピアニスト…?」
「え…?」
「だから智子の夢。よく鼻歌歌ってるから」
「あぁ、ショパンが好きなんだ。ってか武、クラシック分かるんだ?」
「いや、指動かしてたし…」
「うそ…!」
「聴かせてよ。ほら、音楽室にあるじゃん。1台、ソ連から寄贈されたやつ」
「ダメだよ。もうこっち来てから弾いてないし。指もこんなだし」
「じゃあ、俺にだけ聴かせて」
武は私の手を引いた。少しドキッとした…。
放課後の薄暗い教室。久しぶりにピアノの前に座り大きく息を吸い、指先をそっと押し込んだ。左手が低く深い響きを添え、右手はゆっくり旋律を紡ぐ。ショパンの一音一音が、忘れていた日本での思い出を呼び覚ます。それを聴く武はその音色に身を預け、うっとりと私の指先を見つめて顔を赤らめた。
――そうだ、日本にいた頃にもこんな風に私のピアノを楽しんでくれる人がいた。彼が褒めてくれると少しだけ胸が温かくなるようなドキドキするような思いを感じていた…守谷くんは今どうしてるんだろう?私はなぜここにいるんだろう?どこで間違えたんだろう?
私は自分の中にある感情――それは恋と言うにも淡くて未熟な青い感情――が芽生えるのを自覚するにつれ、自分自身をますます穢らわしいもののように感じた。そして、指は旋律を奏でること事を拒絶し、それっきり続きを弾く事が出来なくなった…涙で前が見えない。無言の間が続く。
「…無理に弾かせて、ごめん」
「うん…違うの」
「じゃあどうして」
「…」
「お母さんの事?」
「ううん…」
私は静かに頷いた。そしてずっと口にしたくなかった、口にするだけで穢れていく気がするそんな悩みを打ち明けた。武になら打ち明けられると思ったから。父が私に体を求めてこようとしてくる事を。
「お母さんがいなくなったのは、もしかして私のせいなのかな…?」
ずっと抱えてきた思いを言葉として吐き出す。
「そんな事ないよ。智子は悪くない」
自分の思いを口にしてはじめて自分の心がいかにぐちゃぐちゃだったかに気づいた。涙が止まらなかった。
「逃げよう」
「え?」
「こんな場所にいちゃダメだ」
「でも…」
「今日の夜12時、アパートの裏で。汽車に乗って平壌へ向かおう」
「そんな事したら武も危険な目に…」
「俺は大丈夫。智子とだったら大丈夫」
その『大丈夫』という言葉が動き出すチカラをくれた気がした。もちろん頭では無謀な作戦だと分かっている…だけど武となら何かが起こせるかもしれない。
――夢見がちな少女だった私が、この国に来て信じた最初で最後の夢。
その日の夜、何事もなかったかのように家事をしながら、夜が静まるのを待った。夜11時50分…私はこっそり布団を出て、荷造りしておいた袋を手にした。そして父と弟を起こさないように静かに扉を開ける。キシ、キシ、氷のように冷えた床の軋みが、静かなアパートに響いた。そしてドアノブに手をかけた時…
「どこへ行く」
真後ろから父の声が響いた。
「…」
「どこへ行くつもりだって聞いてるんだ」
父が私のドアノブにかかった腕をひねりあげる。
「いや…やめて、痛い」
「俺から逃げるつもりか?お前もアイツみたいに…裏切るのか」
「何言ってんの?いやだ…」
「絶対逃がさない」
必死に抵抗するが、そのチカラはすさまじく女の腕では防ぎきれない。ガチャン…その圧力でドアに叩きつけられた。やがてもみくちゃになりながら服を剥ぎ取られそうになる。
するとガチャガチャ!ドアノブを回す音がする。その奥から声が聞こえる。
「智子!大丈夫か」
「うぅ…」
「智子?智子!」
武だ…もう少しで鍵に手が届きそうなのに…
「智子!!」
信じられない重量がのしかかる…心が壊れる音がする。
「やめて…」
その時だった…ドスン!
何かが柔らかいものにめり込む音がした。すると、心臓を貫かれた大男は全ての筋力を一瞬で弛緩させていく。やがてそれは、血まみれのただの生暖かい肉塊となって私の上に崩れ落ちた。
「…え?」
その気持ち悪い感覚を感じながら見上げると、闇の中に包丁を手にした明雄が立っていた。
「明雄…?」
「はぁ…はぁ…」
ドアの向こうでは武の声がする。「智子?…どうした?」
「明雄、なんてことを」
「はぁ…はぁ…」
「…」
暗がりの中、開いた瞳孔の奥がギロっと光った。
「こいつは偉大なる首領様の前で罪を犯そうとした。だから罰を加えただけだ」
「…」
「死んで当然の人間だ」
ふと見上げると、弟の後ろには居間に掲げられた金日成の肖像が見えた。そうだ、彼は私を助けようとしたので無く、この男を罰しただけなのだ。
「智子…?どうした…」
扉の向こうにいる武に叫んだ。
「来ないで」
「…智子?」
「お願いだから…帰って!!」
「…」
「お願い…」
――彩花も健人も静まりかえっている。もし自分が母の立場だったら、とても耐えられないだろう。本当にあの母にこんな事が…何か遠い国の話を聞かされているようだ。
事件から数分後。すぐさま通報を受けた保安員が駆けつけ、アパート内は騒然となった。無数の野次馬に見守れる中、父の死体と共に弟は連行されていく。私もそれに追随していく。
そんな衆人の向こうに、キムチや餃子の作り方を教えてくれたオモニが今にも泣きそうな顔で私を見つめている。その向こうに武が、不格好なリュックを手にただ無気力に私を見つめていた。その顔を見て悟った…
――私の存在がまた誰かを傷つけた。私が自由を夢見たから…この家を出ようとしたから…家族は壊れた。
「でも、それが宿命ならば…」
私は前を向いた。私はきっとまた誰かを傷つけてしまうだろう。ならば、いっそ運命を受け入れて鋭いナイフとなろう。この歪んだ世界も、私自身も切り裂くナイフに。そして、その地獄の裂け目からどんな手を使ってでも這いだしてみせる。
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僕は一旦、母・渥美真理の(そして当時は金山智子の)手記を閉じて大きく息を吸った。そして目の前にある、母が映ったモノクロ写真を見つめる。ピアニストを夢見て、同級生に恋をした、そんなどこにでもいそうな少女…彼女の満面の笑顔が降りかかった出来事の残酷さをより強く浮き立たせた。そして写真の母とそっくりな彩花は、それがまるで今自分に起きている事のように嗚咽していた。
「…真理さんに…そんな過去があったなんて、私知らなかった…」
「うん…」
「まだどこかで作り話だって思いたいけど…皮の厚い餃子とか唐辛子の煮物とか、たしかに真理さんが教えてくれた料理だし…」
オモニが母に教えてくれた手料理が、彩花に伝えられ今も僕らの食卓に並ぶ。こうした些細な接点が遠い世界のような話に強烈なリアリティを感じさせた。一方の僕は、生前の母への向き合い方をあらためて悔やんだ。何でも買い与えられる事を息子として当前の権利だと思い込み、育ててもらった恩を忘れて勝手に遠ざけてきた。彼女が背負ってきた影の深さを知ろうともせず…
――直子さんが警告した通り。母の過去に触れた僕らは既に元のようではいられなくなった。しばしの沈黙が続いた。
すると、そんな静まりかえった空間に、健人の間の抜けた声が響いた。
「にしても日本海に飛び込まなくてよかったね!」
「え?」
「だって真理さん、フェリーから飛び降りてたら、僕らこの世にいないかもしれないじゃん」
全員がゾッとする。そうだ、この手記の中身は間違いなく自分たちに繋がっている。
「で、直子さん!真理さんはどうやって脱北したの?だって北朝鮮って…」
直子さんは冷静に告げる。
「えぇ。当初は3年もすれば自由に行き来出来るようになると言ってたようだけど、その後は知っての通り。北朝鮮の市民が海外へ渡航することはいまだに厳しく制限されてるし、ましてや敵対階層の真理にとっては絶望的」
「となると国交のない日本にどうやって…?」
すると直子は無言で1973年発行、黒田百合子と記載された青いパスポートを手に取って見せた。
「偽造パスポート?でも、70年代といえどすぐにバレるんじゃ…」
直子さんはさらに声を落として、冷徹に言い放つ。
「そう、だから金山智子はその名を捨てて、実在する別の人間の戸籍を乗っ取ったの。…そして、それが60年以上経った今もあなたたちの人生に影を落としている。起きている問題の全てはそこに繋がっていると言っても過言ではない…」
日本と北朝鮮を取り巻く情勢がいかに母の人生を狂わしたのか?
なぜこの何の変哲もない一軒家には地下室があるのか?
直子さんや謎の男たちは何者で、なぜこの家にここまで執着するのか?
美咲さんは母と離ればなれになることになったのか?
――これらの疑問や違和感は全て、この一冊の偽造パスポートに繋がる。
「…乗りかけた船はもう戻らない。真理のためにも、何があったのか最後まで覚悟をもって聞いてちょうだい」




