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【第十八話 初恋は日本海に消える】


直子さんは手元の手記を開いてみせた。そこに挟まっているモノクロ写真の女の子の写真を見て息を呑んだ。思わず彩花がいるのかと錯覚した。それくらい似ている――あどけなさと、どこか影のある目元まで。直子は呼吸を整え、まるで昔話を聞かせるように落ち着いた声で話し始めた。




「彼女は人生で何度も名前を変えてきたけど、最初の名前は、さっきも言った吉田智子。日本人の母と日本人の父の間に生まれた。…だけど、運命のイタズラで北朝鮮に渡り、黒田百合子と名乗り日本に戻ってきた。そしてその後、皆が知る渥美真理として生きた」


吉田智子→黒田百合子→渥美真理、母はなぜ繰り返し名を変える必要があったのか?




手記の最初のページにはこう書かれている。


――私は幾度も名前を捨て、違う人生を生きてきた…そして誰かを傷つけ、殺めてきた。その全ての始まりは中学一年生の夏。あの時、私が本気で北朝鮮行きに抵抗していれば…冷たい海にでも飛び込んでみせれば、全く違う人生が待っていたのだろうか?そうしたら今、心から大切に思う人たちと出会うことも、こうして苦しめることもなかったのだろうか?――




「誰かを傷つけ、殺めてきた…?」


思わず呟いた僕の声に、彩花も健人も息を呑む。重苦しい沈黙のなかで、直子さんはじっと僕たちの顔を順番に見つめた。


「どうする?この先に進んだら、あなたたちの関係は変わってしまうかもしれない……少なくとも元の家族には戻れないと思う。これはあの日、真理が乗り込んだのと同じ片道切符の船…乗るかどうか運命の分かれ道よ」


俺は、彩花、健人、美咲と顔を見合わせた。一言も発しないまま、各々の胸に何か重いものが沈んでいくのを感じていた。でも一方で、全員の目に揺るぎない決意も感じた。


「……はい。それでも知りたいです。どんな事実でも受け入れる覚悟は出来ています」


「そう、分かった」


直子さんは大きく息を吸い込んだ。その空気が、部屋の温度をわずかに変える。


「それは……遡ること61年前。夏も終わりかけた頃のこと」




****************************************




1964年9月 新潟港




私は自分の胸に手を当ててその鼓動を感じていた。あの瞬間を思い出すとドキドキと胸が弾む。つい3日前、同級生の守谷くんに初めて告白されたのだ。


「好きだ!」


その言葉が、夏の夕暮れのプラットフォームに響いたとき、私の鼓動は一瞬止まり、次の瞬間、顔が熱くなるのを感じた。彼と仲良くなったのは小学5年生の時。音楽室でこっそりピアノの練習をしていた時に彼は現れた。そこで私の演奏を好きだと褒めてくれた。それから帰り道が同じ方向だったことから一緒に帰るようになり、決まって立川駅の長い踏切を待ちながらお喋りするようになった(実は私の家は踏切を待つ必要は無いのに)…そう、正直に言ってしまえば私は彼の事が好きになっていた。大好きだった。そして、まさか守谷くんも同じ気持ちでいてくれたなんて…だけどタイミングが遅かった。だって彼と次に会えるとしても3年後だから。


「待ってる!」


彼はそう言ってくれた。だから私も信じよう。もっとピアノを練習して守谷くんに聴かせたい!




なんてそんな事を考えていると、前方からやたら大きな声が響いてきた…


「現金なんてあっち持ってても仕方ないんやから、その辺のヤツにくれちまえよ!」


義理の父だ。それは、まるで今から天国に旅立つかのような浮世離れした言葉。


「船内で必要になるかもしれないし、とりあえずあっちに着くまでは持っていきましょ」


理性的な母は弟・明雄の手を引きながら困り顔でなだめる。その下品なやりとりに、私の淡いロマンチックな気分はめちゃくちゃに冷めてしまった。それでふと我に帰り周囲に目をやると、まだ夏も終わったばかりだというのに日本海はやたら寒々しい。母が新調してくれた花柄のワンピースは思いのほか生地が薄く、袖から脚から胸からと吹き込む隙間風の冷たさにブルッと身が縮む。すると、その拍子に頭にまだ馴染んでない帽子は海風をまともに受けて道を転がっていった。


「あ!」


とっさに同世代くらいの少年がキャッチして私の前に差し出した。


「ありがとう」


「どういたしまして。あれ?…君、日本人?」


「え?」


「いや、なんでもない。俺、初めての海外なんだ!君は?」


「私もだけど…」


「お!じゃあ、お互い楽しもう!」


そういうと少年は元気に走って列の中腹にいる家族の元へと戻っていく。だが私は彼の『君、日本人?』という言葉が頭から離れず、帽子を目深にかぶった。




――13歳の夏。新潟港の前に出来たこの列の先、日本赤十字の係員に帰還申請書を提出すれば、その瞬間、私は日本人でなくなる。




「北朝鮮は日本と国交がないから。外務省職員じゃなく代わりに赤十字がやるんやと」


「…にしても不思議やね」


「何が?」


「だって、こんな紙切れ一つで違う国の人間になれるんやもん…」


「ほんまやな!智子はやっぱり発想がオモロいわ!」


父に褒められ、ここ3日、告白と別れで乱高下気味だった気持ちが少し軽くなった。もし自由に選べるなら私はどこの国の人になろう?オーストリアの音楽学校で勉強して世界を股にかけるピアニストとかいいな…。守谷くんと一緒にコンサートツアーなんてしたり!?




守谷くんに会いたい!…なのに、運命は残酷だ。つい3か月前まで1ミリも予期していなかった未来。まさか自分が、縁もゆかりもない北朝鮮に“帰還”することになろうとは。




私の元の名前は吉田智子。今、前を歩く母と実父ともに関西の農村出身の生粋の日本人だ。だけど6歳の時、父は借金をこさえた末に母を残して蒸発した。そんな困窮する母に手を差し伸べたのが、朝鮮の済州島出身で実業家だった今の父だった。そして再婚し、私は金山智子になった。彼は実の娘でない私にも優しく接してくれた。当時はまだ珍しかったピアノも習わせてくれたし、見たいという映画は何でも連れて行ってくれた。だから単純な私はすぐ懐いた。再婚から1年後には弟・明雄が生まれ、事業は拡大し東京へ引っ越し、全てが順調だった。あの日までは…




家の居間で勉強していると、父が母を従えて仰々しく目の前に座り込んだ。


「智子、明雄、ちょっと話があるんやけど」


「どうしたん?あらたまって」


すると私と弟の前に、「北朝鮮帰還事業」と書かれたチラシを差し出した。これでもかと笑顔をはりつけた人間たちが楽しげに紙面を飾っている。まだ4歳の明雄は、それをまるでサーカス団の宣伝ビラかのように、目をキラキラさせて覗き込む。


「コレって…?」


一方の私は嫌な予感に声がうわずる。


「今度、北朝鮮に引っ越そうかと思ってるんや?2人もついてきてくれるか」


「北朝鮮?」


「ほら、吉永小百合の映画でもやってたやろ。皆が平等に働いて何不自由なく生活できる“地上の楽園”や。朝日新聞にも書いてある」


キューポラのある街という映画で、吉永小百合の友達が北朝鮮へ帰国するため盛大に見送られていた様子が思い出された。当時、日本のメディアはこぞって北朝鮮のことを地上の楽園・衣食住の心配なしと持ち上げていた。だが夢見がちな私も、さすがにこの話は美味しすぎると不安を覚えた。


「でも外国やんね?ピアノはどうするん?今の先生は?」


「ピアノ?…ピアノなんてあっちでも出来るやろ。実力次第では無料でソ連に留学させてもらえるらしいで。ソ連言うたら有名な作曲家おったやろ、かち割り人間やらなんやら」


「ハハハ…くるみ割り人形のこと?チャイコフスキーね」


「そやそや。チョイフロスキー。」


「ハハハ…ただの風呂好きなっとるやん。あ、でも…そしたら今の友達とはもう一生会えんくなる?」


「一生会えんなんて、智子は大げさやな~。3年間辛抱したら、その後は自由に行き来できるらしいし、大人になったらどっちか好きな方で暮らせばいい。智子は生粋の日本人なんやから」


「3年か…」


すると母が静かに諭した。


「色々負担掛かると思うけど、お父さんがこうしてお願いしてるわけだから。分かってちょうだい」




もちろん自分に選択権など無いことは最初から分かっている。60年代とは言え、戦後の匂い漂う時代、親に見捨てられた子の末路は理解していた。だから私はそれを黙って飲んだ。




――僕はふと手記から顔をあげる。13歳で国を捨てる。ちょうど彩花と健人の間ぐらいか…もし自分が同じ年齢で母親にそう言われたら、どんな気持ちになっただろう。




それから“帰還”まで3か月、朝鮮総連に通い、言葉や生活習慣などを叩き込まれ、今その成果を試すべく私は新潟の港に立っている。父が代表者として申請書を提出した先には、港一帯を埋め尽くす大勢の人だかりと国旗に囲まれた一隻の大型船が待っていた。


「おー!盛大な見送りやな。いざ地上の楽園へ、や」


「智子、明雄、迷子にならんようにね」


甲板と岸との間にはカラフルなテープが幾重にも張りめぐらされ、雲からこぼれる光にチラチラと点滅している。腹の内側から響く太鼓の音が声援と合わさり、私には何のゆかりもない国への“帰還”に妙な高揚感が湧いた。そして、ジーンと涙がこぼれた。これが総連で教えられた“愛国心”というやつなのだろうか。うん!きっとこの先には素晴らしい楽園が待っている!私は船へと歩を進めた。




だが、船内に足を踏み入れた瞬間に違和感が襲う。


「なんか怖い…」


明雄は母の手をギュッと掴む。


「明雄は怖がりやね」


「でもなんかお化け出そう…」


ソ連のお下がりという船は、塗装は剥げてサビだらけ。楽園行きというより幽霊船といった趣だ。


ボーーー!!!汽笛の音に誘われ甲板にあがると、マストに張られた赤十字の旗がひらひらとはためいた。


「太陽のように輝く金日成将軍、我らを導く偉大な指導者…♪」


金日成将軍を讃える歌声が響き、父も上機嫌で大声を張り上げる。ゆっくり岸を離れ始めた船…岸と甲板をつなぐテープは海風を受けてバサバサとカーブを描いた。


「また会おう」


「北朝鮮万歳!」


今思えば、一部の大人は運命に気づいていたのかも知れない…これが今生の別れとばかりに手を振り、声をかけあう。だがその声はやがて小さくなり、姿も白波の先遠く見えなくなった。




甲板に残ったのは私たちだけとなった…すると、ふと隣で鼻をすする声に目線をあげる。母は遠くを見て静かに涙していた。


「お母さん…?」


「いやだ、なんでやろうね。やっぱり故郷を離れるっていうのはくるものあるわね」


私もその方に目をやる。するとそこには日本海に突き出た名も知らない山脈が悠々とそびえていた。


「あぁ…きれいや」


その瞬間、わたしは本能的に気づいた。もう私は、私のままでこの国に帰ってくることは無いのだろう。そして、母も、この船にいるほとんどの人も…。そう思うと、自然と涙がこぼれた。


「私、日本のこと好きやったんやな」


さっき感じたあの高揚感は一瞬で消え去り、生まれ育った日本を飛び出す不安や悲しみが急に押し寄せた。それにっ!守谷くんと3年も会えないなんて…!急に自分の中の何かが引き裂かれたような焦りや葛藤が湧き出て、窒息しそうになる。


「このまま日本を離れるのはいやや!」


「智子!」


気がつくと私は甲板の柵から身を乗り出していた。


「私、嫌や…日本に戻りたい!」


「バカ言うんじゃないの!こっちに来なさい!」


「いやや!!!」


「溺れ死ぬわよ!」


「それでもいい!」


「お願い!やめて、そんな事したら…」


母は強引に柵の内側へ引きずり込むと私を抱きしめる…その腕の温もりは私の決意を揺るがし、抵抗する力が奪っていった。それと同時に、日本と私を繋ぐ最後のテープがぶちりと切れたような気がした。やがて元の静けさを取り戻した甲板からあの山脈は見えなくなった。風はいよいよ冷たさを増し、私たちは船内に引き上げていった。


……今になって思う。あの時、私はやはり日本海に飛び込んでおくべきだったのではと。そうすれば誰かを傷つける事も、殺める事もなかったのだ。だが私はその覚悟の甘さゆえ、自分で自分の人生を選び取るラストチャンスをみすみす手放したのだ。




――ここまで静かに話を聞いていた彩花は、思わず唇を噛んだ。


「これ本当に真理さんの話なの?」


「えぇ、読んでいけばじきに分かるわ。これが全てあなたたちが感じてきたこの家の違和感に繋がっている事に」


直子さんは予言者のような口ぶりで、話を続けた。



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