【第十三話 捨てられた娘は母を許せるか】
美咲の訪問から1週間後のことだった。
「もう一度、長瀬美咲に会おうかなと思ってる。健人とも話し合った」
「え?」
ちょうど庭で、改装中の洗面台に塗る用の目地材を練っていた僕は、驚きのあまりそのまま洗面器に顔をツッコミかけた。もちろん僕も、この結論に至るまで彩花と健人が何度も何度も話し合っていたのを見かけてきた。そしておそらく彩花が折れた一番の決め手は、健人が語った”母の記憶がない”という何事にも代え難い歯痒さだ。知らない人の不在は悲しめすらしない。そればかりは彩花も理解してあげられないし、知るチャンスを奪う権利はないと思ったのだろう。だが…
「なんで?」
「なんでって、おじさんの言うとおりだなって思ったから。たしかに自分を捨てた親だけど、それで知ろうとしないと後悔するだろうから」
「たしかに、そうは言ったけど…てっきり健人だけが会うのかと思ってた」
「いや、まぁ、健人のそう言われて見ると、自分もどんな人か知りたくなっちゃって」
「はぁ…」
「あ、もちろん一緒に暮らすとかは別だよ。それは全然ない」
「いや、そうだとしても…」
「何か止めて欲しそうな口ぶりだね?自分で会ってみろって言ったくせに」
「そういうんじゃないけど」
「とりあえず今月中で調整して。諸々よろしく!」
「…」
僕はなんとなく目地材を練る意味を見失った気がした。庭には秋の深まりを知らせるキンモクセイの香りが漂っていた。
「で?宏樹くん、認めるの?ダメよ!ダメダメ!」
「そう言われましても、彼らなりに考えて出した答えですし」
直子さんは今にも泣きそうな顔で、どら焼きを頬張りながら僕の顔を覗き込む。こうしてあらためて見ると、どうも感情が読みづらい人だ。
「だって、彩花は中3よ?受験で大事な時期なんだし、もっと時間かけて検討してもいいんじゃない」
「そうは思ったんですが…まぁ、彩花も思い立ったが吉日って感じだし。それと、まだ引っ越すって決めたワケじゃ無いですからね」
「にしても、あの女、いきなり現れて一緒に暮らしたいなんてなんか裏がある気がするのよ。子どもたちに変なこと吹き込みやしないかしら」
「変なこと?」
「…」
その瞬間、真理さんの目の奥が冷たく光った気がした。
「分からないけどさ、万が一の事があったら真理に顔向けできないから」
「僕も同行しますから、安心してください」
そういう僕こそが一番不安を感じていた…また大ケンカになるかもとかいう生優しい話ではない。明らかに長瀬美咲には裏がある。
―――どうやって彼女は、僕の母・渥美真理が亡くなった事を知ったのか?なぜこのタイミングで引き取りたいと申し出たのか?その狙いは何なのか?…真意が見えないまま会わせるのは危険かもしれない。だけども今の段階で彩花と健人を遠ざけるのは違う。なぜなら彼女は血の繋がった唯一の母親だから。
「姉ちゃんもおじさんも、遅い」
「は?あんたこそ、いつも準備トロいくせに」
「大丈夫か、ハンカチティッシュ持ったか?」
美咲と会う日、僕たちは予定より少し早めに家を出た。すると玄関先から声がした。
「あら?3人揃ってお出かけとは珍しい!」
誰かと思ったら道を掃除する緑のおじいちゃんだった。休日だとベストを着てないので気づかなかった。
「えぇ、買い物です」
「仲良いいですね。すっかり馴染んで…そう言われたらなんか皆さんの顔似てきた気もします」
「顔ですか?」
「ええ、特に宏樹さん。初めて会った時より随分と表情柔らかくなりましたね」
「そうですかね?」
「はい。パパって感じ!楽しんでらっしゃい」
「パパか…ハハハ…ありがとうございます。行ってきます」
僕はガラス窓に映った自分の顔を見つめる。たしかに柔らかくなった気もする…
「何?おじさん、顔しげしげ見ちゃって」
「いや、パパって顔してるか」
「老けたって事じゃない?」
「おい!なんか言ったか、コラ!」
冗談めかして逃げる健人を追いかけて坂を下る。だが、なぜか妙な胸騒ぎがして家の方を振り返った。でもそこにはいつも通りのモルタル塗りされた見すぼらしいい一軒家があるだけだった。
美咲との待ち合わせは立川のショッピングセンター。10時ちょうどに、小花柄のワンピースに身を包んだロングヘヤーのその人は涼しげな目で微笑んで近づいてきた。
「こんにちは」
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ会うのを許可頂きありがとうございます」
「許したのは僕ではありません」
目線を送った先には、さっきまでの賑やかさはどこへやら、すっかり身を固くしている彩花と健人がいた。
「彩花、ありがとう」
「私は…一緒に暮らすと認めたワケではありません。あくまで健人があなたの事を知りたいというので、それを奪う権利はないと思っただけです」
「それでも感謝してる。彩花は弟思いなのね、すっかりお姉さん」
「…」
「健人もよろしくね」
「…うん。よろしく」
その視線は、不思議なものを見るように美咲の顔から外れない。
「じゃあ、とりあえず30分から映画予約してるんで、行きましょうか」
僕はまるでツアーガイドのように、健人が見たがっていた人気アニメ映画の最新作へと引率する。だがそのオチはタイミング悪く、親子の愛をテーマにした陳腐な感動巨編で、今の僕らにはあまりに空虚に感じられた。僕は長瀬美咲がどんな顔をしているのか気になって覗き込んだが、変わらずの冷めた横顔でスクリーンを見つめていた。
「4名、渥美さま!大変お待たせしました」
待ってましたとばかりに全員が一瞬で立ち上がる。昼食に選んだのは最近、北海道から東京に出店してきた話題の回転寿司チェーン。寿司ネタについてアレコレ話せば少しでも盛り上がるだろうという浅い下心だったのだが…あまりの人気ぶりで席に着くまで1時間。待ち時間はその最初の一言目を逃したがため最後まで会話が起きないという地獄の空気になってしまった。そんな苦難を共に乗り越えた4人には、奇妙な連帯感すら芽生えている。
「ねぇ、ずっと思ってたんだけど…」
席に着くや、先ほどの反省を踏まえてまさかの彩花が率先して静寂を切り裂きに行く。
「あの映画、ビミョーだったね」
「えぇ!…とか言いながら姉ちゃん、泣いてなかった?」
「泣くわけないじゃん。オチが陳腐すぎ」
彩花も僕と全く同じ感想をもっていたようだ。
「そんな事言われたら、誘った俺の立場がないじゃん」
「まぁ、小学生にはあれぐらいがいいのか」
「いや!俺だって面白くなかったから」
「面白くなかったのかよ」
「…フフ」
その笑い声に全員の視線が集まった。長瀬美咲が笑ったのは初めて見た。
「やだ…ごめんなさい…おかしくて」
「…え?」
「実は私も正直、全然面白くなくって…フフ」
「えぇ?」
「健人に悪いなって思いながら、後半からもうほぼ目を開けたまま寝てた」
「ちょっと!ひどいよ」
思わず吹き出す一同。店員から見れば、僕らは本物の家族にしか見えないだろう。ひとしきり話題の寿司を楽しんで、時計を見ると時間は昼の3時を過ぎた頃だった。
「さぁ、これからどうする?」
僕は2人に質問を投げかけた。帰ると言えばそれでもいい。
「姉ちゃんは?」
「ねぇ…美咲さん」
彩花は初めてその名前を口にした。
「ん」
「美咲さんはどこに行きたい?」
「私?」
「いいよ、美咲さんが行きたい所に行こう」
「!?」
帰ると思っていた僕は驚いた。でも彼女は逃げるより向き合うことを選んだ。きっと記憶をモノトーンにさせないように。
「んーじゃあ、そうさせてもらおうかな。すぐそこだから」
そこは駅前の商業施設のセレクトショップだった。
「どれがいいかな?これかな…うん!ねぇ、彩花これ着てみて」
「え…?私に?ちょっと大人っぽすぎない?」
「全然!彩花はこういうのが似合うと思う」
試着室から出てきた彩花は、落ち着いた小花柄のネイビーのワンピースに、トレンチコート、ローファーの靴。いつものセーラー服からは見違えるほど大人の雰囲気をまとっていた。
「やべぇ、姉ちゃん!モデルみたい」
「いや~見違えたな」
「2人して、心にも無いこと言って」
「ねぇ、今度はこっちのジャケットも似合うと思う」
照れつつ、言われるがままに着替えると、少しパリッと都会的な空気を醸し出した。
「うん!彩花は美人だしスタイルいいから何でも似合うね」
「えぇ…」
美咲は自慢げにそう言うと、ジャケットの襟を整える。
「彩花…。本当にきれい…」
その声は震えている。
「昔ね、小さい頃、こういう花柄の服を着たいってずっとごねてたのよ」
「…私が?」
「お母さんとお揃いがいいって」
「…」
「花が似合う、心がきれいな子に育ってくれてありがとう…本当はこういう風に好きな服を着せてあげたり…お化粧教えてあげたり…。もっとしてあげれれたのに…私がバカだった…」
「…」
「ごめんなさい」
「…」
「私ずっと怖くて…この前も家に行く時から、どんな顔して会えばいいんだって…」
「…」
「彩花が怒ってるの見て、それはそうだよねって思ってた。だから正直、今日会ってくれるって聞いた時は本当に驚いた…」
「…」
「あぁ、私、何の話してるんだろう…」
「…過ぎた時間はもう戻らない。やり直すなんてあり得ない」
「…!」
硬直したままの彩花の肩で美咲は静かに頷いた。
「私はあなたがいなくなってから、毎日あなたの影を探し続けた。いつか帰ってくるかもしれないって…期待して、期待し続けて、疲れきった果てに、こう思うようにした」
「…」
「私にはお母さんはいないんだって。…あなたの記憶を塗りつぶしたの」
「…うん」
美咲の嗚咽する声と店のBGMだけがあたりに空しく響く。すると、彩花の手が美咲の手に重なる。
「でもおじさんが言ってくれた。そんな暗い記憶の上にでも、新しい思い出は積み上げていけるんだって」
「彩花……」
「すぐにはムリかも知れない。でも頑張ってみるよ」
「姉ちゃん…」
そう、これは決裂ではない、和解への第一歩だ。その証拠に2人は本音をぶつけられるようになった。
過去にはもう戻れない…瓦礫と化した記憶は何の感情も呼び覚まさないかもしれない…だが、その上に新しい思い出を重ねていく事は出来る。一方で、僕はそんな様子を微笑ましく見ながら、同時に拭いきれない違和感も覚えていた…なぜ彼女は母の死を知っていたのか、今の家を探り当てたのか、不可解な事が多すぎる。
――その時、電話が鳴った…それは、直子さんからだった。
「火事よ!すぐ戻ってきて!」
「火事!?」




