【第十二話 母への拒絶と関心】
彩花は震えた声で呟いた。
「長瀬美咲は、私たちを産んだ人。そして私たちを捨てた人」
――その言葉が空気を一変させた。
唖然とした表情の健人。僕も混乱していた…血の親、育ての親、そして今この場で顔を合わせる人間の思惑。何を信じてどう振る舞えばいいのか分からない。
「ちょっと待って、じゃあこの人が僕らのお母さんって事…?」
その冷たい目をしたロングヘヤーの女性は静かに立ち上がると、健人の前にしゃがむような姿勢になった。
「健人、大きくなったわね」
健人は差し出された手をどうしていいか分からずただ見つめている。するとそれを無視して彩花の方を見る。
「え?あ、えーと…ってか姉ちゃん、最初から『ながせみさき』の正体分かってたんじゃん」
「あの名札を見た時、まさかそんなわけないって思った…。それにこの人の名前見ただけで…胸が苦しくなって。思い出したくも口にもしたくなかった。だから黙ってた。ごめん」
「それでも教えて欲しかった」
「…だって…私たちを捨てた人だよ?こんな人の事、今さら知ったって何も変わらないよ」
美咲は差し出した手をとっくに下ろし、まるでそこに本人がいないかのように繰り広げられる会話を無表情で聞いている。するとパンパンと手を叩く音が響いた。
「はいはい、姉弟ケンカは後で。じゃあ皆そろった事ですし本題に入りましょうか」
なぜか直子さんが家主のような立ち振る舞いで本題に切り込んだ。
「私、鈴木直子と申します。この子達の保護者である渥美真理とは、それはそれはもう大変仲良くさせて頂いてまして。私も二人の成長を見守ってきましたから、ある意味で第二の保護者と言っても過言ではありません」
「はぁ…」
「という訳で、まずあなたがこの子たちの親だという証拠を見せてもらえますか?彩花だって当時5歳だったんだから記憶は曖昧だろうしね」
すると女は静かに鞄から当時の母子手帳と、小さな女の子と赤ちゃんを連れた写真を取り出した。健人はその写真に顔を近づけマジマジで見つめる。
「これが俺…?」
「そう、この子が彩花で、この子が健人」
「すげぇ!自分が赤ちゃんなの初めて見た!それに姉ちゃん、こんな小さい頃から姉ちゃんみたいな顔してる」
「は?バカな事言ってんじゃないの」
彩花はそれをチラッと横目で見たが、すぐに視線をテーブルに落とした。
「なるほど、血が繋がってるのは間違いなさそうね。では長瀬美咲さん、そんなあなたが今になってどういう用件で?」
「彩花と健人を引き取りたいと思っています」
「!!…ちょっと!冗談言わないで!」
彩花は、今にも飛びかかりそうな勢いで言い返した。
「私たちがあんたについていくわけないじゃん。5歳の時、捨てられてからどんな思いしてきたか…分かってて言ってんの?」
「姉ちゃん…」
――彩花の言っている事は本音の全てと思えない。彼女の中には憎しみと同時に、突然のことで整理されないままの別の感情が共存している気がする。そして、そんな彩花と美咲の間で戸惑う健人も。ぎゅっと握った拳には初めて目にした母についてもっと知りたいという思いと、自分を守ってきてくれた姉を裏切れないという葛藤が込められているに違いない。
「彩花、落ち着きなさい。怒ってたら話が前に進まないわ」
すると直子さんがまるで裁判官のように妙に拡張高く仕切り始める。
「まず大前提から整理しましょう。子どもを2人も引き取るとなると経済的に負担が大きいと思いますが?」
「現在は独身ですが、貿易事務の仕事に就いていて2人を養うことは十分可能だと思います」
「そんなの関係ない!」
「静かに」
直子さんは彩花が噛みつこうとするのをさっと制止する。
「はい、ではまだ健人の意見を聞いてなかったわね」
「俺は…よくわかんねえ」
「は?大事な場面なんだからちゃんと意見言いなさいよ」
「いや。だって自分の母親、見るの初めてだもん。物心ついてから」
「あの…」自分も手を挙げる。
「はい、宏樹くん」
「そもそもなんで今になって彩花と健人を引き取ろうと思ったんですか」
「今になってじゃない。ずっと探してたんです」
「でも、一度は私たちを捨てた」
「彩花!」
「…限界だったの。2人の子を育てながら仕事を掛け持ちして、経済的にも精神的にも追い詰められて…でもあなたたちと離れてスグ間違いだと気づいた。それからずっとあなたたちを探し続けてたの」
「捨てて惜しくなったから取り戻す?随分な身分ね。…どうせまたイイ男がいたら邪魔になって捨てるんでしょ。子供はおもちゃじゃないのよ」
「…誤解よ」
「誤解じゃない。あなたは家に男を連れ込んでた。子どもだったからって覚えてないと思ってる?」
「それは違うの…」
パンパンと直子さんが手を叩く。
「小学生の前よ」
「いいよ、俺のこと気にしなくて」
「ダメよ。真理さんに顔向けできないわ。…まぁ、私から今あなたに申し上げられるのは、この子たちは渥美真理さんと特別養子縁組している。つまりあなたに法的な親権はない」
「でもその方は先日亡くなったと聞いています」
その瞬間、彩花は顔を真っ赤にした。
「黙って!あなたが真理さんの事を話すだけで虫唾が走る」
「姉ちゃん、いつも俺にキレるなって言うくせに…これじゃ話し合いになんないじゃん」
「健人こそ、この人と何を話し合うつもり?」
ふと僕は、長瀬美咲は母の死のことを誰に聞いたのだろうと疑問に思った。だがそれを言葉にするのをやめた…少なくともこの場で聞くのは彩花と健人を傷つけることになるかも知れない。
とにかく今日ここで話し合っても議論は悪い方に流れるばかり。
「僕は後見人として彼らを見る責任を負っています。なので一度2人と僕とで話をさせてください。その上で子供たちが納得してあなたの元へ行きたいと思うなら止める理由はありません」
「絶対あり得ないけどね」
「分かりました。2人の理解を得られるよう努めますのでよろしくお願いします。本日は突然の訪問、失礼しました」
彼女は鉛のような空気をフローリングに残して家を出て行った。そこで僕はハッとなる。実はさっきからずっと彼女の母と思われるパスポートの女『黒田百合子』について聞くチャンスを伺っていたのだが、あまりの紛糾ぶりにすっかり忘れてしまっていた。
「にしても勝手よね~散々ほったらかしておいて今になって引き取りたいなんて」
「直子さん…少し3人だけで話させてもらえますか」
「あ、それもそうね。水入らずで話して」
直子さんはそういうとソファに腰掛けた。
「…直子さん。そうじゃなくて…」
アイコンタクトで家を出るよう促す。
「あぁ、はいはい。どうせ私は邪魔者ですよ」
直子さんがすねて出て行くのを見送りながら、僕はこの先の話し合いに備えて瞬間的に頭の中で整理した。
――長瀬美咲の登場と福井での調査で点と線が一気に繋がった。
*彩花と健人の実母=長瀬美咲=フィルム映像に映る少女
*僕の育ての親=渥美真理(既に故人)=ニセの黒田百合子?
*渥美真理=彩花と健人を養子縁組
*本物の黒田百合子は失踪中
*直子は渥美真理の友人で後見人
…なるほど。僕は重要な事実に気づいてしまった。だがコレはまだ彩花と健人に告げるのは控えておいた方がいいかもしれない。動揺を招くかもしれないから…
「おじさん、何ボーとしてるの?」
「え!なんでもない。とにかく座ってくれるか?」
ダイニングテーブルに彩花と健人を座らせ、向かい合わせで姿勢を正した。
「2人はどうしたい?」
「どうしたいって…あの人と暮らすってこと?考えられない!…ってか、おじさんもなんで勝手にまた話し合いましょうみたいな事言うわけ?」
「ただ追い返しても問題は解決しないだろ」
「…」
「健人は?」
「うん…」
「うんって、何よ?はっきり言いなさいよ」
「いや、わかんないよ。母親なんて初めて話したし」
「初めてじゃない!2歳のあんたを捨てた女よ」
「そんな小さい時のこと覚えてないもん。それに…」
「…?」
「なんとなく母親ってすごい存在なんだろうなって。あ、福井でね、黒田百合子の息子に会えて。結局、その黒田百合子はパスポートのとは別の人だったんだけど…4歳の時にいなくなったお母さんの思い出をずっと宝物みたいに話してた。だからもうちょっと話し合ってみてもいいんじゃないかって」
「は?…あの人と話し合う?」
「姉ちゃんが許せない気持ちは分かってるけど…俺は知りたい。父親はどんな人なのか?なぜ家を出たのか?別に知ったから何が変わるワケでもないかもだけど…いや、むしろショックなことだらけかも。それでも知らないとダメな気がするんだ」
――彩花はその言葉に返事するでもなく黙りこくってしまった。もしかすると本当は自分も知りたいのかもしれない。でもその一歩を踏み出す勇気が、今の自分にはどうしても湧かないのだろう。知ってしまったらもう元には戻れないから。
しばらく何か言いたげに歯を食いしばっていた彩花。
「…もういい。勝手にすれば」
そう言い残すと外へ飛び出していく。
「姉ちゃん」
「彩花!」
すると健人は呟く。
「姉ちゃん、俺のために今まで一生懸命してくれたのに…悪いこと言っちゃったかな」
「そんな事ないよ、本音を言い合えるって大事だから。ちょっと彩花、追いかけるわ」
「うん…」
彩花を追おうとしたら、直子さんがちゃっかり玄関で聞き耳を立てていた。「直子さん!?」
「ごめん、ちょうど帰るところだったのよ」
ウソつけと思いつつ、都合がよい。
「僕、追いかけます。健人、お願いしていいですか?」
「任せて!気をつけて行ってらっしゃい」
母・長瀬美咲に対して湧き上がる複雑な感情に、彩花自身も戸惑っているようだった。その一つには、もちろん母の愛を欲しながらも裏切られた過去の恨みもあるだろう。だがもっと大きいのは、現在進行系の怒り…彩花は幼い頃からずっと弟を守って生きてきた。そしてそれはいつしか彼女の生きる意味になった。だが今、母親の登場でそれが揺るがされつつある…その怒りだ。(怒りとはすなわち自分の存在価値を守りたいという防衛本能だ)…もちろん彼女にその自覚はないだろうけど。
多摩丘陵の急坂を下って住宅街を抜けた多摩川の河川敷、その定位置に彩花は三角座りしていた。もう時計は夜9時。少し肌寒さすら感じる多摩川の水面にシャンパンゴールドにライトアップされた府中四谷橋がキラキラと輝く。
「いた…。なぁ、遅いから帰ろう」
「なんで…」
「?」
「なんで、みんなあの女の肩をもつの」
「そんなつもりないよ」
「うそ」
「…」
「健人もそう。今まで自分をほったらかしにした女なのに『話してみたい』だなんて…私がしてきた事って結局なんなのよ」
「初めて母親と会ったら話を聞いてみたいって当たり前の感情だよ。それに健人は、彩花がずっと自分を守ってきたくれた事に感謝してるよ…だからこそ美咲さんの前ではそんな本音を隠してた」
「…うそ…だったら、あんな事言うわけない」
「…それでもこぼれた本音だよ。理解してあげよう」
「…」
彩花はそれっきり黙りこくってしまった。だけどそれは抵抗でも拒絶でもない。彼女は本当に悩む時はこうやって静かに心の奥に潜って答えを探すのだ。とても賢い子だ。
「はぁ…ごめん、私って冷静になって考えたらさっきから言ってる事、子どもだよね?話したくないだの、帰れだの叫んでるくせに、本音ではあの人が現れた事にザワザワしてる…自分を捨てた女だって思いながら気になって仕方なくて。あぁ、自分のこと棚に上げて健人に何言ってんだか。自己嫌悪だ…。なんかもう心がグチャグチャ…」
「…こういう時ぐらい子どもでいてもいいんだよ」
隣に腰掛ける。
「彩花のおかげで、健人は困ってる友達を守れる立派な人間になった。孤独だった母は最期あんなに幸せそうな顔をしていた。僕だって、彩花があの家を引き継いで守ってくれてなかったら、こうして一緒に暮らす事もなかったし…そしたら前みたいな冷めた人間のままだった」
「…自分で言う?」
「事実だし。…彩花はずっと誰かのために生きてきたんだなって思う」
「…」
「だからこの先は、思いっきり自分の楽しみを見つけて自分のために生きて欲しいなって思ってるんだ」
「楽しみって例えば?」
「え?ん?…何ての?…もっと友達とスイーツ食べ放題行ったりとか、韓国コスメでメイクとか、古着でコーデとか…そういう普通の子っぽい楽しみもして欲しいんだよね」
「フフッ…お昼の情報番組の見すぎじゃない?」
「いや、日本離れてたから昼食時に勉強がてら見てたんだけどさ。これが面白くて」
「図星かよ」
しばらく無言の時がすぎた後、彩花が多摩川の向こう住宅街のランプを見ながら呟いた。
「どう?福井は成果あった?」
「え?あ、うん、一応ね…」
「黒田百合子さんの息子さんに会えたんでしょ?」
「え…」
「ほら、健人が言ってたから」
「あぁ、でもそのおかげで…僕も感情がグチャグチャだ」
福井で見たこと聞いたこと感じたことを洗いざらい話した。黒田百合子の息子がたどった人生、母・真理にまつわる信じがたい仮説…北朝鮮の工作員だという疑惑まで。
「拉致か…でもそれ、あくまで噂でしよ」
「そう、それは分かってる。母親が北朝鮮の工作員だったなんて荒唐無稽な話だし、まだ何も証拠はない…でも、どこか妙に腑に落ちてしまって」
「…」
「母が異常に僕を監視してた事とか不気味な行動とか…心中?しようとした事とか…」
「違う。真理さんはそんな人じゃない」
「そう思いたい…だけどそうじゃないって信じられる根拠がないんだ。自分の中に」
ーー僕は、彩花と健人のおかげで、あの家で母と過ごした何気ない時間が…忘れていいとさえ思った思い出が…今の自分を作ったんだって思えるようになった。だけどそれは簡単に揺らいでしまう…。僕が母を…母が僕を…拒絶したこの長い時間のせいで。
「今になって、前に彩花が言ってくれた言葉がズシッときてる」
「私の言葉?」
「死んでモノトーンになった記憶は戻らない。決して美しくならないって。母親は自分の事どう思ってたのか、一度でもちゃんと会って、手をとって、目を見て、声を聞いていればここまで悩むこともなかったと思う…。なのにチャンスを自ら逃して、今さらになって断片的な情報をかき集めて…僕は二度と聞けないはずの母の言葉に触れようとしている。でもそれじゃやっぱりダメなんだよ…だから」
「…?」
「彩花にはこんな惨めな思いをして欲しくない。小さい頃のお母さんの記憶はもうすっかり冷たくなったかもしれない…だけど、まだ話が出来る。確かめられる。新しく思い出を作り直す事だって出来る。もちろん余計に傷つくかも知れないけど…もう一度会う事考えられないかなって」
「…」
「あ、とはいえ!彩花が美咲さんのこと許せないの当たり前だと思うし、すごい分かる!だから健人のために譲るのは違うよ。ちゃんと考えて自分なりの答え出して」
「…」
彩花は何も言わずしばらく水面に映った橋の光を眺めると、ただ「帰ろう」と立ち上がった。




