【第十一話 母への新たな疑惑】
黒田百合子の子どもとは、福井市の喫茶店で待ち合わせた。
「いや、驚きました。越前から母親について調べてる人がおるって聞いて」
黒田剛と名乗る作業着に身を包んだその男は、優しい笑顔で歓迎してくれた。そう、彼こそが黒田百合子の息子だ。僕は、フィルムのイメージからてっきり娘だとイメージしていたので正直言うとがっかりした。
僕は例のパスポートについて話した。
「実家で、母親と同姓同名のパスポートですか…?それは何かの縁ですな。でも残念ですけど、母は私が4歳の時に失踪してるんです」
「伺いました」
「じゃあ、聞いてると思いますけど、母・黒田百合子は18歳の時に私を産んだ後、親にも勘当されて…しばらく金沢でホステスしてたらしいです。それで私が4歳の時に、自分を友人に預けたままどこか行ったきり帰って来なかった」
彼の人生は決して恵まれたものでなかった。母の失踪後、自分を預かってくれた母の友人はとても優しく彼の面倒をしばらく見てくれた。だが経済的な理由で結局施設に預けられ、その後、中学を卒業してすぐ地元の工務店で働き始めた。だが平成大不況が襲来。中卒の彼が就ける仕事はそうはなく、職場を転々とし、今は非正規で地元のホームセンター勤務をしている。
「ちなみに黒田百合子さんがいなくなったのは22歳…と言うことは1972年頃…」
「そうなりますね」
健人は真剣な表情で聞いていると、ふいに口を開いた。
「剛さんは、お母さんが突然いなくなって寂しくなかった?」
「ハハハ…君、面白い質問するな?」
「すみません。健人も幼い頃から母親がいなくて、その…」
不躾な質問にも彼は優しく頷いた。
「そうか。君、お母さんと離ればなれになったんは、何歳の時や?」
「2歳」
「俺は4歳やからうっすらとやけど覚えてる。いなくなってしばらくは毎晩遅くまで玄関前で帰り待ってたな。今日も帰って来んかった、自分がいけない子やからやってビービー泣きはらして…。大きくなったら泣くかわりにグレて…なんでこんな人生やねんって」
「…そんな寂しいもの?」
「そりゃもう。きっと2歳の君もたくさん泣いたはずや」
「お母さんの事、恨んでない?」
しばらく静寂が続いた後に、剛さんは口を開いた。
「…それでもやっぱり母を恨む気にはなれんかな。だって、あの時、母が中絶を選んでいたら自分の存在自体なかったから。産むって決断は相当な勇気がいたと思うんや、ああいう時代やからなおさら。だからやっぱり感謝しかないかな」
「…」
「あとな…」
「…?
「やっぱり自分は母に捨てたられたとは信じられへんのや。夜勤明けで眠たいやろうに地元の遊園地に連れてってくれたり、パーラーでパフェ食べさせてくれたり、本当かわいがってくれたから」
「そうかぁ、いいな…。姉ちゃんは母親の話題出すとイライラするけど、俺は何も覚えてないから、そんな気持ちすら湧いてこない」
「健人…」
「…心配せんでもええ。覚えてないって言うその過去だって消えたわけじゃない。全部、今の君を作ってるんや。それに…もらったぬくもりは、記憶よりもっと深いところにちゃんと残ってるから」
「記憶より深いところ…」
「あぁ」
「…」
「で、そうや。渥美さん、参考になるか分からんけどコレ」
すると、厚紙に大切そうに挟んだ一通の手紙を取り出した。
「4歳の誕生日にもらった手紙、今もこうして残してるんです」
それは直筆で書かれた、我が子をとても大切に思う優しい母親のメッセージと一枚の写真であった。その筆跡からは黒田百合子の知性や優しさを感じる。そしてメッセージの下には一枚の写真があった。親と子が肩を寄せ合いケーキと映った幸せそうな写真…
「この写真は?」
「私と母の唯一の写真です」
それを見た瞬間、呼吸が止まりそうになった。そこに映っていた『黒田百合子』はパスポートの人物とは似ても似つかない別人だったのだ。
「!!」
「これが黒田百合子…さん?」
「えぇ…きれいでしょ?」
「…」
「がっかりさせたらすみません。多分、お探しの黒田百合子さんは同姓同名の別人やと思います。あの時代でパスポート作って海外飛び回るって、うちの母とは住む世界が違いますもん」
顔を見る限り、剛さんの母である黒田百合子と僕らが追ってきた黒田百合子とは別人。だが本籍地が共に福井県であること、1972年に失踪して1974年にパスポートが発行されているタイミングのよさ…本当に無関係と言い切っていいのか?
僕はずっと抱えていた違和感をぶつけてみた。
「どうしても疑問に思ってしまうんですが、親に勘当されてでもあなたを産んだお母さんが、なぜ突然、あなたを置いて失踪を?現に愛されていた実感もある」
「ほんまですね。それは僕もずっと疑問でした」
「警察に失踪届けは?」
「もちろん母の友人が出してくれてました。でも、まぁ警察にはそんな話たくさんくるんでしょうね。こんだけ消息キレイに消えるって事は自分から姿消したとしか考えられへんって、民事不介入ってやつですわ」
「なるほど…これはあくまで可能性の話ですが、もしかしたら自分の意思で失踪したわけじゃない…とは考えられませんか?」
「!!」
「おじさん、それってどういう意味…?」
「例えば、何者かに連れ去られた…」
「いや、まさか。…ん?あぁ、それでいうと…いや、コレほんとただの与太話ですけど…うちの母親、北朝鮮に拉致されたんやないかって人もおったんですよ」
「北朝鮮?」
「当時この辺ってよく北朝鮮の不審船がウロウロしてたって言うでしょ?実際、美浜の方で漂着した工作船見つかったり」
「!?」
「それ以外にも警察が表に出してないだけで、怪しいやつ捕まえたり、工作船を沈没させたり、ようさんあったらしいですわ。外国の顔色伺ってもみ消してたってね」
「つまり、それって…」
「実際、シングルマザーとか身寄りない方を狙って拉致してたとか聞くじゃないですか。おらんくなっても気づかれにくいとか…だからウチの母親もそうやないかって噂が。まぁさすがにありえへんとは思いますけどね」
「…」
「でも…もし…もしそうやとして、それでも生きてくれてたら…」
ふと喉の奥が震え、涙で声がにじむ。
「だって…これだけ年月経っても探しても消息不明って、もう普通に考えて死んでますやん。でも、もし北朝鮮でもどこでも生きてくれてるんやったら…また会えるかもしれん…やっぱり会いたいですわ。会って…剛、ただいま…ちょっと見んうちに大きくなったなって…また声が聞きたい…話がしたい」
「…」
苦労してきたのが一目で分かるその大きなシワくちゃの手で目を拭うと、大きく息を吐いた。
「勝手やと思いますけど、やっぱり母に捨てられたって認めたくないですよ。だからどっかで母はむりやり連れて行かれたんやって…その方がよっぽど自分の中で納得できるんですわ。アホでしょ?」
「…」
くしゃくしゃの笑顔を浮かべた。
「あぁ、お恥ずかしい。いや、変な話してもうてすみません」
70年代前半に、身寄りのないシングルマザーが異国の地に連れ去られたとして…それを警察や周囲の人間が自ら望んで蒸発したと片付けたとして…何が起きる?
そうだ。死亡届の出されない戸籍がそのまま生き続ける。じゃあその戸籍を誰かが乗っ取ったら?
本物の黒田百合子は、22歳の春、忽然と姿を消した。そして――そのわずか2年後の1974年、見覚えのない「黒田百合子」のパスポートが発行される。
「もし、母が……」
まさか、母が“誰かの名前”を奪い取った?頭の奥がキンと冷たくなる。ありえない。絶対、そんなはずはない。…だが、心臓が妙なリズムで鼓動を打つ。「本当に?」と、何度も胸の中で声が響く。
喫茶店を出ると、午後2時を回ろうという時間。
「まだ図書館は開いているか…ちょっと東京帰る前に調べたいことがあるんだけど?」
「うん。もちろん」
剛さんが言っていた冗談。絶対ありえないと思うが…でも現にこれまで信じられない事実がたくさん発覚している。せっかく福井まで来たからにはちゃんと確かめて帰りたい。
福井県の中央図書館に戻り、地元紙のマイクロフィルムを片っ端から探る。すると剛さんが話していた『美浜の工作船沈没事故』と疑わしい記事が見つかった。1982年4月、美浜原発近くの海上で漁船が沈没事故、死者数名という小さな三面記事。
「映像に映っていた例の岩場の近くだ」
「じゃあ、これがもしかして剛さんが言ってたもみ消された事故…?」
「かもしれない。だがこれだけだと何とも…」
その後、他の新聞を探るも事故についての詳報はなかった。
かすむ目線を紙面から天井に移し、ふと思い出す。
人気の海水浴場に似つかわしくない「密航・密輸・不審船 見つけたら118番」の看板…本当の黒田百合子の写真…息子・剛の言葉…。考えたくもない“もし”が浮かぶ。もし僕の母親・渥美真理が黒田百合子の戸籍を乗っ取っていたとしたら…何のために?
「母は北朝鮮の工作員だった…?」
「工作員?」
「あぁ、いや、なんでもない」
「ここまで一緒に調べてきて、今さら隠し事はなしでしょ」
「…これはただの妄想だ。可能性の話だ。いいな…?」
健人は強く頷く。
「工作員ってのは簡単に言うとスパイだ。北朝鮮から潜り込んで日本人になりすます。それで技術とか情報を盗んだり、暗殺したり…」
「真理さんが?」
「母さんに限って、んなわけないだろ?だから妄想だって。さぁ、彩花と直子さんにお土産買って帰ろう」
そう、母が北朝鮮の工作員だなんて妄想がすぎる。だがなぜかモヤモヤは晴れるばかりか深く重くなっていく。
福井からの帰りの新幹線。超高速で通りすぎる黄昏の森に、秋の気配を漂わせたひつじ雲が見え隠れする。隣で爆睡する健人の重さを感じながら、そのモヤモヤをノートに吐き出す。
1950年、パスポートの表記通りなら本物の黒田百合子は生まれた。
1972年、22歳の時。黒田百合子が失踪。
1974年、失踪から2年経ち、例のパスポートが発行される。そのタイミングで母・渥美真理が、黒田百合子を名乗るように?
1970年代後半、母がニセ黒田百合子として結婚。ながせみさきを出産。
1978年~1981年、美浜原発3号機が稼働し、美浜で家族とフィルムを撮影。
1982年4月、フィルムの撮影地・美浜で工作船の撃沈事件が起きる。
1983年1月、その9か月後、母が『渥美真理』として自分を生んだ。
つまり黒田百合子から渥美真理に名前を変えたのは、疑惑の撃沈事件が起きた頃になる。仮にそうだとして、なぜ名前を変える…?警察の目をかいくぐるため…?それと…あのフィルムに映っていた女の子『ながせみさき』は、母を失った後にどうなった?工作活動の隠れ蓑だったとしたら、不要になる…まさか消された…?
「はぁ、やっぱり妄想がすぎる…母さんが三才の少女を殺す?そんな事、出来る人間なワケないだろ、バカバカしい」
新幹線の窓にぼんやり映る自分の中年顔を見つめて、幼い頃のあれこれを思い出した。家の中で流れていた聞き慣れない不気味なラジオ…夜な夜な家のどこからか響く会話…留守番中の僕を監視するように家の周囲をうろつく大人の影…
そして、立川駅のホームで僕の手をひいて何かを待っていた母。何度も松本行きの特急を見送りながら、涙ながらに立ちすくんでいた。あれ…?不要になったから消そうとした…?僕の事も…?
ふと彩花の言葉がよぎった。
――知らない方がいいこともある。
3日ぶりの一軒家に帰ると、なぜか直子さんが玄関前で困り顔をして立ちすくんでいた。こちらを見つけるや大仰に手招きする。
「お帰りなさい、どう温泉は楽しめた?」
「あ、はい…」
「あぁ、それはよかった」
「で、直子さん、なんでここに?」
「いや、そう、それよ!大問題発生!」
家の中に入ると、新調されたフローリングでテーブルを挟み、不機嫌そうに顔を紅潮している彩花と一人の女性が無言で睨み合っていた。
「彩花?…こちらどちら様?」
するとそのロングヘヤーの女性はこちらを振り返るとすくっと立ち上がり、冷たいまなざしに口元だけの笑みを浮かべて深々と会釈した。
この女性どこかで見たことがある…
面影の残る陶器のような白い肌に、凜とした涼しげな目。幼い頃から今も変わらない。
「お邪魔しております。渥美宏樹さんですね」
「え?…あ、はい」
「初めまして。私、“ながせみさき”と申します」
「ながせみさき?」
「…はい、長瀬美咲です」
その名を聞いた瞬間、家の空気が凍りつく。健人は息を呑み、彩花はわずかに身を震わせて俯いた。――あの名札、あのフィルムの中の女の子、その名が“今ここに”現れた。世界がひっくり返る音がした。
彩花はさらに顔を真っ赤にして呟く。
「あの幼稚園の名札を見た時、まさかそんな事あるわけないって思った…。それでもこの人の名前見ただけで…胸が苦しくなって。思い出したくなかったし、口にもしたくなかった。だから黙ってた。ごめん」
「え?」
「この人。長瀬美咲は、私たちを産んだ人。そして私たちを捨てた人」




