第81話 別れ
目を覚ますと、柔らかな光がカーテン越しに差し込んでいた。
(……よく寝れたな……)
久しぶりに、胸の奥の重苦しさが消えていた。
隣に目をやると、イーディスが静かな寝息を立てて眠っている。
頬は少し赤く、まるで子どものように穏やかな寝顔。
──昨日まであんなに泣いていたとは思えないくらい、安らかだ。
俺はそっと手を伸ばし、乱れた髪を撫でつける。
その温もりを確かめるように一度だけ優しく撫でてから、音を立てないようにベッドを降りた。
(……起こしたくないな。少しでも長く眠らせてやりたい)
洗面所へ向かい、顔を洗い、口をゆすぐ。
冷たい水で気持ちが引き締まったところで、背後から柔らかな足音が近づいてきた。
「……おはよう、ハルト」
振り返ると、少し寝ぼけ眼のイーディスが立っていた。
紅の髪が寝癖でふわりと跳ねていて、それが妙に可愛らしくて、思わず笑いそうになる。
「……おはよう、イーディス。起こしちゃったかな」
そう言うと、彼女は小さく頷き、俺のそばまで歩いてくる。
そして、ためらいがちに俺の服の裾をつまんだ。
「……一人で寝るの……寂しい」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
裾をつまんでいる手を取る。
「……ごめん。でもどこにも行かないよ」
「……なら大丈夫」
小さな声で呟きながら、イーディスは俺の腕に頬を寄せてきた。
その仕草が愛おしくて、胸の奥にじんわりと熱が広がる。
そのあとは――特別なことは何もしていない。
部屋で他愛もない話をしたり、時々言葉に詰まって気恥ずかしそうに笑ったり。
ただ、互いの手を離さずに過ごした。
気がつけば、朝から夕方にかけて、ほとんど一緒にいた。
何をしたかなんて、きっと思い出せないくらい。
けれど、昨日までの胸を締めつけるような痛みはどこにもなく、心が穏やかに満たされていた。
――それだけで、十分だった。
夕暮れ、茜色の光が差し込む中でイーディスが微笑む。
その横顔を眺めていると、不思議と時間が止まったように感じた。
俺は小さく息を吐き、心の中でつぶやく。
(……これからは、こうして隣にいる時間を大事にしよう)
そう思えるだけで、胸の奥に温かな力が宿った。
翌日。
部屋では、イーディスがベッドの端に腰掛けて本を読んでいて、俺はその隣に寄りかかるように座っていた。
特別な会話があるわけでもない。時折、視線が重なっては笑い合うだけ。
それなのに、不思議と満たされていた。
そんな静かな空気を破ったのは――コン、コン、と扉を叩く音だった。
「……どうぞ」
声をかけると、扉が開き、聞き馴染みのある低い声が聞こえてきた。
「俺だ、アドホクだ。やっと剣が完成したぜ」
イーディスが顔を上げ、目を瞬かせる。
俺も思わず姿勢を正した。
「……本当に?」
「おうよ。広場で受け渡しをするから来い。セレーネさんはもう待ってる」
短く告げられた言葉に、胸の奥が高鳴る。
自分とイーディスのために鍛えられた剣――その重みを思うと、自然と拳を握っていた。
「……行こうか、イーディス」
「うん」
紅の瞳を輝かせて頷いた彼女と一緒に、俺は扉を開け、広場へ向かうことにした。
広場には炉の残り火がまだ赤々と燃えていた。
その周囲ではドワーフたちが道具を片づけたり、樽を担いで笑い合ったりしている。
どこか祭りの終わったあとのような、静かな満足感が漂っていた。
俺とイーディスはアドホクの案内で広場の中央に出る。
そこには布で覆われた二振りの剣が並べられていた。
セレーネさんはすでにそこにいて、腕を組みながら微笑んでいる。
「……できてるぜ!」
アドホクの声は張りがあって、いつも通りだった。
だが、その目の奥にほんのわずか、別れの色が見える。
「まずはこれだ。ラインハルト、お前の剣――竜牙穿剣」
布を取り払うと、淡く青い光を放つ一本の剣が現れた。
刃全体が雪のように白銀に輝き、握るだけで力強い脈動を感じる。
「聖竜の牙を溶かして、鍛え直したものだ。
龍の力を持つお前ならきっと使いこなせるはずだ。」
「……ありがとう、アドホク。最高の仕上がりだ」
「当たり前だ。ドワーフの最高傑作と言っても過言じゃないくらい力入ってるからな」
そう言ってアドホクは笑う。
次に、イーディスの方へ向き直った。
「そしてこれが……イーディスの剣だ」
今度は透き通るような水色の光を放つ美しい剣。
刃は薄く、細く、まるで氷を削り出したかのように繊細だ。
「アンヴィタイト鉱石で作った。人の手で削れる限界の硬さになってる。
けど、そんなことどうでもいいくらい美しい剣だろ?」
イーディスは微笑んで頷く。
「……本当に綺麗。アドホク、ありがとう」
「礼はいい。お前が振るって初めて完成するもんだ」
そう言いながらも、アドホクは少し俯いた。
その肩が、ほんの少しだけ震えていた。
「……これでお前たちとはお別れだな」
「そうだな……でもまた会える、違うか?」
「さあな。俺が鍛冶場を離れることはあんまりねぇ。
次にお前たちが来るのは十年後か、それ以上だろう」
アドホクはそう言って、いつものように鼻を鳴らした。
しかし次の瞬間、目尻がほんのり赤く滲んでいるのを隠しきれず、
慌てて腕で目をこする。
「まったく……年を取ると涙腺がゆるむ」
「ふふっ……そんな顔、初めて見た」とイーディスが笑うと、
アドホクは照れくさそうにそっぽを向いた。
「じゃあな。人族は嫌いだけどよ、お前らといた二、三ヶ月…………た、楽しかったぜ!」
「俺も楽しかったよアドホク、それじゃあな……絶対にまた会おうぜ」
別れを惜しみながら俺たちは里の入口の方に
周りのドワーフたちは「元気でな!」「また来いよ!」だの手を振りながらいつも通りのざっくりした別れを告げていく。
やがてアドホクも少し離れたところで振り返り、
大声で叫んだ。
「おいラインハルト!もうイーディスの事泣かせんなよ!!」
「……わかったよ!!お前はもう人間に捕まるんじゃないぞ!」
「……へっ、言ってくれるじゃねぇか」
笑いながらも、アドホクの目元は光っていたように見えた。
そして、鍛冶の里の門の向こうに小さくなっていく背中を見送る。
セレーネさんがそっと隣に立ち、穏やかに微笑んだ。
その視線は俺とイーディスに向けられている。
「ようやく、全部片付いたみたいね。……二人とも、いい顔してる」
イーディスは少し照れくさそうに笑い、俺の手を取った。
その指先が触れた瞬間、穏やかな風が吹き抜ける。
転移の結晶を手のひらに握りしめる。
イーディスは俺の隣で黙って立っている。
セレーネさんも近くで楽しそうに微笑んでいる。
アドホクは、もう見えなくなっていた。
(……最初に会った時は、あんな奴だとは思わなかったな)
あの地下のオークション。
暗く、冷たく、息が詰まるような場所で、
あの時、俺はただ「見過ごせなかった」だけだった。
けれど――その小さな選択が、
こうして誰かの人生を繋ぎ直す結果になった。
アドホクを助け、ドワーフの里に送り届け、
新しい剣を託されて、そして今こうして別れを迎えている。
(……人の出会いってのは、不思議なもんだな)
あの頃の俺なら、ただ戦って、勝って、守ることだけを考えていた。
でも今は違う。
“救う”っていうのは、ただ命を繋ぐことじゃなくて――
誰かの未来を動かすことなんだって、少しだけ分かった気がする。
イーディスの方を見る。
彼女もまた、優しく微笑んでいた。
その横顔を見ていると、胸の奥にあたたかいものが灯る。
(……ありがとう、アドホク。お前に会えて本当によかった)
俺の中で、あの頑固な鍛冶屋の魂は確かに生きている。
この剣と一緒に──これから先も、ずっと。
セレーネさんが小さく息をついて、口元を緩めた。
「ふふ……いい顔をするようになったわね、ラインハルト」
「……そうですかね」
そう言って苦笑し、転移の結晶に魔力を込める。
視界が白に染まり、風の音が遠ざかっていく。
最後に見えたのは涙を流して鼻水を垂らしながら走って最後に見送りに来たアドホクの顔だった。
「「じゃあな!!!!また、また会おう!!」」
光の中に消えていくその声は、ぴったりと重なっていた気がした。
──この出会いが俺の方向を変えてくれた。
それはきっと、剣よりも、何よりも価値のあるものだと思えた。




