第80話 心
俺の拳が扉を叩いた。
「……コン、コン」
返事を待つ時間がやけに長く感じられる。
少しして、ぎぃ、と小さな音を立てて扉がわずかに開いた。
「……どうしたの、ラインハルト?」
現れたイーディスの顔を見て、息を呑む。
──泣いていた。
目元は赤く腫れ、長いまつ毛には乾ききらない涙の痕。
それを隠すかのように、彼女は努めて平静を装い、少し距離を置いた声音で俺の名を呼んだ。
胸がきしむ。
二日間、部屋にこもっていた理由が一瞬で理解できた。
それでも俺は、逃げないと決めた。
「イーディス、その……」
喉が詰まりそうになるのを無理やり押し出す。
「……辛く当たって、ごめん」
イーディスの瞳がわずかに揺れた。
俺は慌てるように言葉を継ぐ。
「……あの時は、イーディスの力が羨ましくて……いや、その、違う……。とにかく……ごめん」
沈黙。
それは刹那のはずなのに、ひどく長く感じられた。
そして次の瞬間、彼女が押し殺していたであろう感情が爆ぜる。
「だったら……手合わせしようなんて言わないでよ!」
紅い瞳に涙をにじませ、イーディスは声を張り上げる。
「私は分かってた! ハルトが努力してるのを知ってる……! だから、私が急に手に入れた力で越えたら、いい気分じゃないって……分かってた!」
「でも……でも、言えないよ……断れないよ! だって……ハルトに嫌われたくなかったから……!」
その叫びは怒りであり、同時に切実な願いでもあった。
俺は言葉を探すが、何も出てこない。
「……それって、どういう……」
思わず口にすると、イーディスが涙を滲ませたまま、真っ直ぐに睨むように言った。
「とぼけないで!」
「ハルトも分かってるはず……私は、ハルトが好きなんだよ!」
その一言が、胸を撃ち抜いた。
涙が頬を伝いながらも、イーディスは必死に続ける。
「惹かれないわけないよ……二回も三回も、私が死にそうな時に助けてくれた人に……」
俺は息を詰めた。
「……俺なんかより、もっと……」と言いかけた瞬間、視界が大きく揺れる。
背中が畳に沈み、イーディスの重みと同時に、唇に柔らかな感触が押し付けられた。
「……っ!」
押し倒され、見下ろす紅い瞳。
涙で潤んで揺れるその瞳に、必死の想いが宿っていた。
「くだらないこと言わないで……」
「ハルトがどれだけ私にとって大事か……分かってないの?」
その声を聞きながら、俺の心にひとつの答えが芽生え始めていた。
──「俺なんか」なんて言い訳で、この想いを拒むのは誠実じゃない。
大事なのは理屈じゃなく、俺がイーディスをどう思っているかだ。
好きか、嫌いか。
それだけの話だ。
だが、頭の隅でまだ抵抗する。
(もちろんイーディスは大好きだ……でも、それは友達として……)
そう思いかけた瞬間、最初に扉を開けたときの彼女の姿が蘇った。
泣き腫らした目元。
潤んだ瞳を隠そうともしない、弱さをさらけ出した顔。
胸が、ずきりと痛む。
(……この痛みは……ただの友達に抱く感情じゃない……)
イーディスは想いを隠さず伝えてくれた。
弱さを、痛みを、すべてさらけ出してくれた。
それなら――俺も、隠さずに言わなきゃいけない。
「……俺も……俺も好きだよ、イーディス」
そう告げると同時に、覆いかぶさっている彼女の背に腕を回し、強く抱きしめた。
そして自分から、唇を重ねる。
今度は、逃げずに。
自分の想いを、真っ直ぐに。
イーディスの肩が小さく震え、涙が頬を伝うのが分かった。
でもそれは俺も同じで、気づけば視界が滲んでいた。
涙なんてもう気にならなかった。
瞳から零れ落ちた熱を、互いの肌で補い合うように、ただ寄り添い続けた。
──久しぶりに、心が繋がった気がした。
そのまま俺たちはベッドで横になり、自然と瞼が重くなる。
ここ最近、眠れない夜を過ごし、泣き疲れたせいか……
互いの温もりを確かめ合ったまま、静かに眠りへと落ちていった。




