第73話 目覚め
重い瞼を開けると、石造りの天井が目に入る。
ふかふかと背中を包む優しい感触。
(……ベッドの上か……)
その瞬間、ひどい倦怠感と吐き気が全身を襲う。
頭は鉛のように重く、まるで全身が悲鳴をあげているようだった。
(……くそ、気分が悪い……もう少し寝よう……)
そう思って再び目を閉じかけた、その時――
脳裏に一瞬、鋭い閃光のように“外套の男”が瞼の裏に蘇った。
(――イーディス!!)
がばりと布団を剥ぎ取り、半ば反射で立ち上がる。
だが、すぐに足元が揺れ、壁に手を突いてふらついた。
乾いた呼吸が乱れ、冷や汗が背を伝う。
その物音に反応したのか、扉が開き――
「……ハルト!」
飛び込んできたのは、心配そうにこちらを見つめるイーディスの姿だった。
剣気に染まったような紅の髪が揺れ、無事な彼女がそこにいる。
「イーディス……!」
胸の奥からこみ上げる安堵に、俺はその名を強く呼んでいた。
イーディスは駆け寄るなり、俺の胸にすがりついてきた。
紅の瞳には涙がにじみ、必死にこらえていたものが堰を切ったようにあふれ出す。
「……三日だよ……っ! ハルトが目を覚まさなくて……三日も……!」
「わ、私……どれだけ心配したと思ってるの……!」
涙がぽろぽろと零れ落ち、彼女は言葉の途中で声を詰まらせた。
俺はただ、申し訳なさを覚えてその頭に手を伸ばす。
「……悪い。心配かけたな」
しばらくの間、部屋には嗚咽と浅い呼吸だけが満ちていた。
イーディスはしがみつくように俺の服を掴み、泣き疲れた子どものように震えていた。
やがて、少しずつ呼吸が整っていく。
紅い瞳を袖で乱暴に拭い、何とか普段の彼女らしい強さを取り戻そうとする仕草。
その様子を見届けてから、俺は静かに口を開いた。
「……イーディス」
「……なに?」
「俺が……倒れた後、どうなったんだ?」
一瞬だけ、彼女の表情に影が差した。
言葉を選ぶように唇がわずかに震え、やがて小さく頷く。
「……分かった。全部、話すね」
そうしてイーディスは、あの場で起きた出来事を語ってくれた。
絶望した自分の前で、指輪の光が魔法陣を描き、セレーネが現れたこと。
そして――彼女が、圧倒的な力で全てを終わらせたこと。
語り終えたイーディスは、ゆっくりと息をついた。
部屋に静寂が訪れる。
「……セレーネさんが……助けに来てくれたのか……!」
思わず声が漏れる。
あの場で、俺には何もできなかった。
自分には仲間が守れると、力があるんだと、そう思っていた。
でも、違った。他人はおろか、自分すらも守れない、無力な自分。
(俺は、弱いんだ……)
その現実が、胸の奥に鋭い棘のように突き刺さる。
「……結局、俺は……無力だった」
悔しさに唇を噛む。
しばしの沈黙。
それでも自嘲するような笑みを浮かべて言葉を続けた。
「セレーネさんには……ほんと、助けてもらってばっかりだ」
その名を口にした瞬間、胸の奥にいくつかの感情が浮かぶ。
安心と感謝、そしてほんの少しの羨望。
「……セレーネさんは、今もここに……?」
イーディスはそっと頷いた。
「……うん、居るよ。
さっきは広場で見かけたけど……。
ハルトのこと、ずっと気にかけてくれてたよ」
「……そっか……」
周囲の空気に、自然豊かな土、そして鉄の匂いが混じっている。
そんな空気の中、胸の奥からせり上がってくる感情はただ一つだった。
「……ありがとうって、伝えなきゃ」
その言葉に、イーディスはしばし黙って俺を見つめていた。
紅の瞳に、何か言いたげな光が揺れる。
やがて――彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……本当はまだ休んでて欲しいけど、肩……貸すよ」
静かな声。けれどその声音には、深い優しさが込められていた。
彼女が差し出した手に思わず胸が熱くなる。
俺はその温もりを頼りに、重い身体をゆっくりと立ち上がらせた。
立ち上がった瞬間、足に力が入らず思わずよろける。
だが、イーディスの肩がしっかりと支えてくれた。
「……ありがとう」
声に出すと、彼女は少しだけ視線を逸らして「気にしないで」と短く返す。
その横顔に、どれほど心配をかけていたのかが滲み出ていて、胸が締め付けられた。
外へ出ると、岩肌を削った石畳の道にドワーフたちの声が響いていた。
鍛冶場の槌音、香ばしい匂い、行き交う人々のざわめき。
その中から、ひとりの屈強なドワーフがこちらに手を挙げる。
「おう、兄ちゃん! ようやく起きたか。体は大丈夫かい?」
「……ああ、なんとか」
俺がそう返すと、別のドワーフがにやりと笑って肩をすくめた。
「ったく、紅髪の嬢ちゃんがずっと心配してたぜ?寝ずに付きっきりで看病してくれてたんだろ?」
「……紅髪?」
俺は思わず呟いた。
視線を隣に向けると、肩を貸してくれているイーディスの髪が、太陽を浴びて深紅に輝いている。
(……そういえば……)
イーディスの髪は、銀に近い金髪のはずだ。
紅に染まるのは、彼女が“剣気を解放した時”だけ。
だが今――彼女からは剣気の圧も、威圧感も、何一つ感じられなかった。
ただ静かに俺の隣に立ち、支えているだけだ。
(……なのに、どうして……髪が……?)
胸の奥に、小さな違和感が広がった。
「……イーディス」
歩きながら、俺は横目で彼女を見た。
「その髪……どうして赤いんだ?」
「……え?」
不思議そうに首を傾げ、彼女は自分の髪に触れる。
指の間に流れる紅の糸を見つめ、ほんの少し目を瞬かせた。
「あれ?本当だ……剣気を解放したときだけ赤くなるはずなんだけど。」
小さな声で呟き、彼女はわずかに眉を寄せる。
けれど、すぐに苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「……でも、今は剣気なんて使ってないし。なんでだろ……私にも分からないや」
はぐらかすでもなく、本当に不思議そうな顔。
その曖昧な答えに、なんだそりゃと二人して笑う。
そしてそんな二人は、ドワーフの村の広場へと辿り着いた――。




