第71話 希望
ラインハルトの指先。血に濡れた手のひらの上で、小さな指輪が淡く輝いていた。
その光はやがて広がり、地面に複雑な紋様を刻んでいく。
淡い光の線が縦横無尽に走り、重なり、円を描き、やがて巨大な魔法陣を織り成した。
「……これは……?」
私は呆然と呟く。
これは私の知るどんな術式とも違う。規模も、緻密さも、そして何より纏う魔力量が桁違いだった。
やがて魔法陣の中心が強く輝き――そこに、彼女が現れた。
セレーネ。
ラインハルトが師匠と仰ぎ尊敬している女性。冷ややかで、無機質なほどの美貌を持つ龍族の女。
だが――今、目の前に現れた彼女は違った。
その黄金の瞳には明確な怒気が宿り、全身から放たれる威圧感が空気を震わせる。
「……っ!」
気付けば、私は無意識に震えていた。
恐怖ではない。だが、その存在の圧に心が怯んだのだ。
前に見た無表情とは違う。今のセレーネの瞳には人族が持つ嫌悪感が現れ、その威圧感は伝説の龍王という言葉が自然に浮かんできた。
セレーネは黄金の瞳でラインハルトを一瞥すると、静かに片手を掲げた。
指先に浮かび上がる精緻な魔法陣。そこから、緑色に輝く結晶が音もなく現れる。
「……」
一言も発することなく、それをラインハルトの身体の上へ。
結晶は掌で砕かれ、瞬間、鮮烈な光柱が天へと昇った。
翠光が渦を巻き、彼の全身を優しくも力強く包み込む。
眩い光に思わず目を細めた私が再び視界を取り戻した時――
そこに横たわっていたのは、もはや血に染まった傷ではなく、綺麗に癒えた肌だった。
胸を貫かれていたはずの致命傷は跡形もなく消え失せ、
先程まで途絶えかけていた呼吸は、細いながらも規則正しく安定している。
「……ハルト……」
震える声が漏れた。
セレーネは淡々と、当たり前のようにそれを成した。
黒外套の男は、その一部始終をじっと伺っていた。
一歩も踏み出さず、言葉すらも吐かない。
いや──違う。
「動かさない」のではなく、「動けない」のだ。
彼女の纏う圧倒的な存在感に、身じろぎひとつ許されぬまま縫い止められている。
黒外套の男は、治癒され息を吹き返したラインハルトを一瞥すると、目を細めてセレーネを見据えた。
低く、押し殺したような声で口を開く。
「……あの時の龍族か……?」
黄金の瞳を細め、セレーネは冷ややかに返す。
「だったら?」
「まるで別物だな。これが龍族の本気か……」
皮肉めいた言葉を吐きながらも、その声には微かに警戒が混じっていた。
セレーネの放つ圧が、彼の全身を苛む。
しかしセレーネは口元を僅かに歪め、吐き捨てるように言った。
「これが本気に見える?……つまらない冗談ね」
――次の瞬間。
風が唸った。
目で追うことすら叶わぬ速さで、セレーネの姿が掻き消え、気付いた時には――
黒外套の男の首筋に、漆黒の鎌の刃がぴたりと添えられていた。
「……っ!」
黒外套の男は冷や汗を浮かべながら、ゆっくりと後退した。
だが――退路はなかった。
背後に回り込もうとした瞬間には、すでにセレーネが立っている。
横に逃げようとすれば、その動きより速く鎌の刃が横合いから迫る。
まるで未来を読まれているかのように、どの道も封じられていた。
「……チッ」
舌打ちが響いた。
黒外套の男は動きを止め、わずかに肩を震わせる。
そして外套の奥から、紅く脈打つ針のような結晶を取り出した。
「退けぬのならば、打ち破るのみだ」
迷いなく、その結晶を自らの横腹へと突き刺す。
瞬間、紅い閃光が血管を伝い、全身を走った。
「……ぐ、あああああッ!」
筋肉が盛り上がり、骨が軋みを上げる。
皮膚の下で血管が紅く輝き、異様な紋様となって浮かび上がる。
外套は裂け、黒い影のような翼と、ねじれた角が飛び出した。
そこに立っていたのは、もはや人ではなかった。
異形へと変じた黒外套の男。
その口元が醜悪に吊り上がり、低く、だが確信に満ちた声が響く。
「……フハハ……見ろ、この力を」
「我が血脈に刻まれし禁忌の力は、我を超越へと導くのだ」
紅く脈打つ紋様が鼓動と共に震え、地面さえ軋ませる。
彼は両腕を大きく広げ、空気を揺るがすように高らかに叫んだ。
「もはや人ではない……!
この力、魔力、その全て――魔王をも遥かに凌駕するッ!」
「今の我こそが、絶対だァァァッ!!」
紅い紋様を脈打たせ、異形へと成り果てた黒外套の男が叫ぶ。
その声音には嘘偽りのない確信があった。
──魔王以上。
その言葉を耳にした瞬間、全身の血が凍り付く。
心臓を鷲掴みにされたように呼吸が乱れ、膝が震えた。
(……魔王、以上……?)
学術院で教わってきた常識が音を立てて崩れていく。
勇者でさえ敵わないとされる魔王。
その存在を超えた力が、今この場で牙を剥いている。
希望が砕け散る音が、はっきりと胸の奥で響いた気がした。
セレーネが来てくれた。ハルトも生き延びた。
これで救われると思ったのに……その僅かな安堵さえ、あっけなく打ち砕かれた。




