第70話 絶望
戦闘開始──俺は、以前とは比べものにならないほど強くなった。
それに、隣にはイーディスがいる。
勝てるはずだ……そう信じた。
だが、その甘い幻想は瞬き一つの間に砕け散った。
視界の中心にいたはずの外套の男が――消えた。
次の瞬間、腹の奥で何かが突き破られる感覚。
まず、熱。
沸騰した湯が体内を駆け巡るような、生々しい熱さ。
それが俺自身の血の温度だと気付くまで、ほんの一瞬しかかからなかった。
すぐに、その熱は激痛へと変わった。
焼けるような痛みが腹から背へと抜け、足の先まで痺れが走る。
視線を落とすと、漆黒の刃が腹を貫き、赤い血を滴らせていた。
その血が刃に触れた途端、黒い靄となって消えていく。
耳元で、低く冷たい声が囁く。
「遅いな……少年」
俺は反射的に後ろへ跳んだ。
だが、それは完全な悪手だった。
刃が俺の腹から引き抜かれる感触――
同時に、塞き止められていた血が勢いよく溢れ出す。
服の内側を駆け下りる熱――それは紛れもなく、自分の血の熱さだった。
「……ッ!」
呼吸が詰まり、膝がわずかに折れる。
その間に、外套の男と俺との間にイーディスが滑り込む。
剣を構え、横目で俺を見ながら叫んだ。
「私が少しだけ耐える! その間に治癒魔術を!!」
遠くから響くその声に応えるように、俺は必死に詠唱を紡ごうとした。
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
「……生命よ……流れを戻し……欠けた器...を繋げ……
痛みを沈め、裂けた道を閉ざ、せ……」
言葉が滲み、舌がもつれ、胸の奥で呼吸が千切れそうになる。
それでも最後まで言い切ろうと、必死に唇を動かした。
(――〈レフティクス・ヒール〉……っ)
だが、指先の魔力は途切れ、最後の一節を口に出せず、視界の端が黒く染まり始める。
音も、匂いも、全てが遠ざかっていった。
――駄目だ、持たない。
完全な闇が世界を覆い、俺の意識はそこで途切れた。
────イーディス視点
「……生命よ……流れを戻し……欠けた器…を繋げ……痛みを、裂けた……」
彼の唇が震え、言葉が途切れる。魔力は指先から零れ、光の糸は切れかかっていた。
体が崩れるように膝をつき、倒れ込むラインハルト。
その瞬間、胸に鋭い痛みが走った。息が詰まり、視界が熱に染まる。
私は叫びそうになった――でも声が出ない。
胸の奥が締め付けられ、頭の中は真っ白だ。
目の前に浮かぶのは、ハルトの顔。
勝ち誇ったようなキリッとした表情。無表情を装いながら、案外わかりやすくムッとした顔。
そして、ときどき見せる柔らかな笑顔。
――いつからだろう。
守りたいと願う私の気持ちは、知らぬ間に「守られたい」という正反対の気持ちも内包し始めていた。
頼りたくて頼られたい、甘えたくて甘えられたい――心の底から、彼のそばにいたいと思っていた自分を、今更ながら認識する。
しかし、もう叶わない。
彼の傷は致命的で、私の治癒魔術では到底癒せない。
それに外套の男が詠唱を待つはずもなく、ドワーフの魔力では中級以上の魔術は唱えられない。
結局、救うことは出来ない――詰んでいるのだ。
胸を刺す痛みと嗚咽混じりの苦しみに涙が溢れた。
"そうか……これが、恋なんだ"
失うと分かって初めて自覚する感情。
彼を守れない、傍にいられない、もう触れられない――その痛みが、胸を押し潰す。
その様子を見て、低く冷たい笑い声が響く。
「ほう……なるほどな。おまえ、あの小僧を愛していたのか
ふふ……ふはははっ! 実に面白い」
黒外套の男は、私の心を見透かしたかのように嘲笑う。
その声に、全身の力が抜ける。
だが、やがて胸の痛みが、悔しさが、悲しみが、一気に憤りに変わった。
そして、吹っ切れた。もう迷わない。
守れない現実を受け入れ、ただ怒りが前に向かう。
「……許さない。あなただけは。
あなたには、死すら生温い……!」
怒りが体中に駆け巡る。
力の源流が揺り起こされ、深紅のオーラが自然と身体を纏った。
まだ、剣気を解放したわけでもないのに――確かな力を感じる。
その時、ふと視界の端で光るものに気付く。
ラインハルトの手――血に濡れた指、出発前にセレーネが託した小さな指輪が淡く輝いていた。
(これは……魔道具……?)
その光は、死の淵にある彼をまだ諦めさせないように、どこか静かに、しかし力強く存在している。
次の瞬間、この光が何をもたらすのか――私はまだ知らない。




