第64話 異大陸へ
スミカ村の実家に着くと、アドホクはすっかり村の生活に馴染んでいた。
父さんや母さん、それにメレノアやファーレスとも、まるで長い付き合いの家族のように笑い合っている。
「世話になったな。……じゃあ、行くか」
アドホクは小さな背を伸ばし、皆に向けて深々と頭を下げた。
「……ありがとよ。お前らと過ごした時間、案外悪くなかった」
メレノアが少し寂しそうに彼に手を振る。
俺も皆の方に向き直る。
「夏休みは、ここでゆっくり過ごすって約束……守れなくてごめん。
でも、ちゃんとアドホクをギルギニアに送ってくるよ」
母さんが「無事に戻ってくるのよ」とだけ言い、父さんは力強く頷いた。
メレノアも「お兄ちゃん、いってらっしゃい!」と声を弾ませる。
家族に見送られ、村の近くで、俺は深く息を吸い、龍の気を解き放った。
瞬間、俺の身体は光に包まれ、巨大な龍の姿へと変貌する。
イーディスは慣れたように角の根元に腰を落ち着け、アドホクは俺の掌の中にしっかりと抱えた。
「行ってきます」
短くそう告げ、北西の空へと翼を広げる。
ギルギニア大陸に渡るため、まずは北西の港町──セフォールを目指して、俺は羽ばたいた。
セフォールまでの道のりは二日がかりだった。
一日目の夕暮れ時、道中の街の外れにある宿屋を見つけ、俺たちはそこで一泊することにした。
男女で部屋が分かれているため、イーディスは隣室で休み、俺とアドホクは同じ部屋に入る。
ベッドに腰を下ろしたアドホクが、窓の外に沈みゆく夕日をぼんやりと眺めていた。
その横顔に、ふと俺は声をかける。
「……お前、顔つき変わったよな。いい顔になった。」
アドホクは驚いたように振り向き、少しだけ口の端を上げる。
「……そうかもしれん。昔は人間を見ると、興味、そして捕らえられてからは殺意しか湧かなかった。
今は……少しだけ違う」
窓から吹き込む風が、彼の髭を揺らす。
アドホクは言葉を探すように、しばし黙り込んだ。
「お前の家族や、イーディスを見て……人間ってのは、悪くない奴も居るのかもしれんと、そう思うようになった」
彼の声には、僅かに戸惑いが混じっていた。
人間に嫌悪感を持ち生きてきた彼にとって、それは自分自身を裏切るような変化なのだろう。
「……そうか」
俺は短くそう返す。
アドホクがその後、小さく息を吐き、「……まぁ、まだ慣れねぇけどな」と付け足すのを聞きながら、窓の外の夜空を見上げた。
こうして、それぞれが静かに思索に沈むまま、長い一日が終わっていった。
翌日の夕暮れ、俺たちはようやくセフォールの港町にたどり着いた。
眼下に広がるのは、オレンジ色の陽光に照らされた海と、無数の帆船が並ぶ港。
潮の香りとともに、どこか香ばしい焼き魚の匂いが風に乗って流れてくる。
石畳の大通りは賑やかで、行き交う人々の声や、荷を運ぶ車輪の音が絶え間なく響いていた。
「やっと……着いたぁ!」
イーディスが大きく伸びをして、ほっとした笑みを浮かべる。
隣でアドホクも、どこか感慨深げに港を見渡していた。
「ここまで飛びっぱなしは、さすがに骨身に堪えるな……だが、悪くねぇ」
「俺も、正直ホッとしてる。ようやく一息つけそうだな」
セフォールは交易で栄える港町で、ギルギニア大陸との定期航路があるのは大陸でもここだけ。
明日の朝、俺たちが乗り込む船が、この港を出る予定になっている。
「いよいよ明日だね。ギルギニアに向けて出発……!」
イーディスが胸を高鳴らせるように言う。
俺は頷き、視線を遠くの水平線に向けた。
「五日間の長い船旅になるけど、せっかくだし楽しもう。
……久しぶりに、ゆったりできる時間だ!」
アドホクが鼻を鳴らして、「ふん、船の飯がうまけりゃな」とつぶやいた。
イーディスはそんな彼に笑いかけ、「きっと美味しいもの、いっぱいあるよ!」と明るく返す。
こうして俺たちは、次なる大陸への期待を胸に、宿を取って一晩の休息を取ることにした。
明日には、新たな航路が始まる。
翌朝、セフォールの港は夜明けとともに活気に包まれていた。
海鳥の鳴き声と波の音、船員たちの掛け声が入り混じり、潮風が肌を撫でる。
俺たちは預けていた荷を受け取り、乗船予定の大型帆船〈ヴェルナー号〉の前に立っていた。
白い帆が朝日を受け、金色に輝いている。
「いよいよ出発かぁ……!」
イーディスは胸いっぱいに潮の香りを吸い込み、少し緊張した面持ちで甲板を見上げた。
アドホクは腕を組み、足元の木製スロープをちらりと見やりながら鼻を鳴らす。
「こんな大きな船に乗るのは初めてだ。……沈まなきゃいいがな」
「縁起でもないこと言わないでよ、アドホク!」
イーディスがむっとした顔をするのを、俺は苦笑いしながら見守った。
係員の合図に従って乗船し、甲板に足を踏み入れると、木のきしむ音とともに海の上にいることを実感する。
やがて、船長の威勢の良い掛け声が港に響き渡った。
「全員乗船完了! 出港だ――!」
ゆっくりと岸壁との距離が広がり、白波を切り裂きながら船は動き出す。
セフォールの町並みが次第に小さくなり、水平線の向こうに新たな旅路が広がっていく。
「五日間か……きっとあっという間だな」
俺がつぶやくと、イーディスは甲板の柵にもたれ、風に金髪をなびかせながらにっこりと笑った。
「うん。せっかくだから、いっぱい楽しもうね!」
アドホクもその横で「……まぁ、悪くはねぇな」と呟き、海に目を細める。
こうして、俺たちを乗せた〈ヴェルナー号〉は、ギルギニア大陸へ向けて新たな航路を進み始めた。
出港から三日目。
〈ヴェルナー号〉は広大な外洋を進み続けていた。四方を見渡せば果てしなく青い海と空が広がり、船体が波を切るたびに白い飛沫が舞う。
イーディスは甲板の端に腰を下ろし、針路の先を見つめながら風をいっぱいに受けている。
「うーん、やっぱり海の真ん中って、ちょっと不思議な気分になるね。どこを見ても同じ景色だよ」
俺は隣に立ち、軽く肩をすくめた。
「退屈か?」
「ううん。むしろ、なんだか心が軽くなる感じがするよ」
そんなやり取りをしながら、ふと後ろを振り返ると、アドホクが樽を椅子代わりに座り、手のひらに乗せた小さな羅針盤をじっと見つめていた。
「お前、そんなものまで持ってたのか」
「手空きの時に作ったやつだ。……自分が作ったものが一番信用できる」
夜になれば、星空の下でささやかな夕食を囲む。塩気の強い干し肉と黒パン、海水で冷やした果実酒――決して豪華ではないが、波の音を子守歌にして過ごす時間は妙に心地よい。
イーディスが船員たちに混じって覚えたばかりの縄の結び方を見せびらかし、アドホクが不器用に真似しようとして失敗し、甲板に転がる。そんなやり取りに、思わず笑みがこぼれた。
五日目の早朝――。
船首で見張りをしていた船員が突然、声を張り上げた。
「陸だ! ギルギニア大陸、見えたぞーっ!」
瞬間、甲板中がざわめきに包まれる。
俺もイーディスもアドホクも一斉に視線を前方に向けた。
朝靄の向こうに、深い緑に覆われた大地の輪郭が浮かんでいる。切り立った断崖と入り組んだ入り江、その背後に連なる黒々とした山々――。
「……あれが、ギルギニア大陸……!」
イーディスが感嘆の息を漏らし、アドホクは細めた目でその景色を見据える。
「懐かしい景色だ。……ようやく、帰ってきたか」
俺は深呼吸を一つ。
これから待ち受ける未知の出来事に、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
〈ヴェルナー号〉が岸壁に繋がれると、甲板に溢れていたざわめきが次第に静まっていった。
俺たちはタラップを降り、ギルギニア大陸の港町へと足を踏み入れる。
最初に感じたのは、深い緑の匂いだった。
港町だというのに、潮の香りよりもはるかに濃厚な木々の香りが鼻腔を満たす。まるで街そのものが、背後の大森林と一体化しているかのようだ。
視線を巡らせれば、行き交う人々の体躯に思わず目を奪われる。
男も女も筋骨隆々で、日焼けした肌には無数の古傷が走り、港の労働者たちはまるで戦士のような風貌だ。その中に、耳や尻尾の生えた獣人族の姿もちらほら混じっている。
「……おお、やっぱりギルギニアは違うな」
思わず呟いた声に、隣のイーディスも大きく頷いた。
「ほんとだ……人も、空気も、全部違う」
アドホクは立ち止まり、故郷の空気を吸い込むように胸いっぱいに深呼吸する。
「……懐かしい匂いだ。やっぱり、俺の居場所はここなんだ」
港の喧騒に混じり、遠くで聞こえる木々のざわめきが心地よく耳に届く。
俺は改めて、これがギルギニア大陸なのだと実感した。
「さぁ、ここからが本番だな」
イーディスが振り返り、太陽のように笑う。
「うん! まずはこの町で準備だね。それから、アドホクを村に送るんだ」
こうして俺たちは、ギルギニア大陸での最初の一歩を踏み出した。




